0-31.慟哭の谷 【第0章 完】
真っ暗な森の中、グエンはモービルを走らせる。
雨に打たれ続け、大量の血を失った身体は冷え切り、指先の感覚すら曖昧だった。
胸から背中を貫いたままの羽根を抜く気力も体力も、もう残っていない。
「カガミ……仇は取ったよ……けど……」
口から溢れる血が言葉を詰まらせる。
細い森の道。気を抜けば、すぐに木々へ激突する。
暗闇と雨粒が視界を削り、ライトの輪だけが頼りだった。
瀕死の戦士は気力を絞り、ぼやけていく視界へ必死に抗う。
ライトに照らされては後方へ流れていく木々の影が、踊り狂う亡者の群れのように歪み、グエンは現実味を失い続けていった。
「くそったれめ」
横目で闇に沈む木立を睨み、悪態を吐き捨てる。
グリップを回し、モービルを加速させた。
森にこだまする機械的な鼓動音が、まだ生きていることだけを突きつけてくる。
「俺は生き残った……けど、この勝利に何の意味があるんだ!」
口からこぼれる血。
せき込み、涙を流してグエンは叫ぶ。
「もう誰もいないのに! まだエンブラのやつらは、本国に大量にいるってのに!」
雲の下を抜け、雨が止む。
急に視界が開けた。
森が突如として途切れ、緩やかな傾斜で登る道の向こうに夜空が覗く。
開けた景色の中央にあるのはギンノウ山。
その目前に、銀霧峡が横たわっていた。
50mほど先で道が終わっている。
グエンは銀霧峡の崖っぷちへ向け、呆然とモービルを走らせ続けた。
血に濡れた赤い前髪が風に煽られ視界を塞ぎ、ふと我に返る。
「! くそっ! くそっ! 今俺が死んで何になるってんだ! 死んでどうなる!」
――ゴカ村には誰もいない。
管理小屋に置いてきたカガミの姿が脳裏に蘇った。
「俺が……生きてどうなる。カガミがいない。おやっさんもいない、村も……ユーゴも……誰もいないのに……誰もいないのによお……」
グエンの頭を、自身の死がよぎる。
咄嗟に首を振り、愚かな考えだと自分自身を否定し、モービルにブレーキをかけた。
だが、ブレーキレバーを握っても、ブレーキペダルを踏み込んでも、手ごたえが消えていた。
故障かと思い、グエンは前輪のブレーキへ視線を落とし、息を呑む。
「!」
前輪のプレートを挟むブレーキ部分に、肉片のついた金色の髪の毛が絡みついているではないか。
本来は摩擦で車体を止めるはずのパーツの間に、ぬめる肉片が入り込み、摩擦を阻害している。
モービルは速度を落とさぬまま、ただひた走る。
慟哭の谷まで30mを切った。
血と絶望に染まったグエンは、大きくため息をついて笑う。
「はっ! 高貴な化け物の姫が、こんな小細工してくるとは……熱烈だね……」
自暴自棄になったグエンは、グリップを全力で回した。
重低音のエンジンが森に叩きつけられ、木々へこだまする。
グランディア自慢のトルクが、重い車体を軽々と崖の外へ押し出した。
崖を跳んだモービルは、谷へ飛び込んで行く。
グエンは落下しながら、胸ポケットに入っている一房の髪の毛に触れた。
「誰も守れなかった俺でも……カガミの……皆の所へいけるかなあ……」
落下しながら見える夜空は、ぽっかりと口を開いた谷に切り取られ、まるで天にかかる河のようだった。
失意と絶望に苛まれたグエンは、慟哭の谷底、マガツ淵の水面に映る星空へ、吸い込まれるように姿を消した。
――クトファ歴3872年、ゴカ村はエンブラ帝国の手により、地図から姿を消した。
北の強国にして世界有数の重銀を有するエンブラ帝国は、この侵攻をきっかけにアウルカ国全土を掌握することになる。
やがて彼らは他国への武力侵略を強め、重銀の独占と開発に全力を注ぎ始めた。
皮肉なことに、その略奪と独占が、重銀の価値を世界へ知らしめることとなる。
そして、50年の時が過ぎる。
アウルカの遥か南西。
バナーバルの地に、若々しいままのグエンが姿を現した。
第0章 完
第一章 邂逅のバナーバルへ続く




