1-122.護国王、顕現
エリエラは両手を耳にあて、体を震わせている。
押し留めていた巨神の声が限界まで大きさを増し、足元から押し寄せてきた。
そして、声ではなく、意思が直接エリエラの脳裏に伝わる。
その意思は、エリエラの口を通して形になった。
『せ、世界樹が、星を食い尽くす……?』
『世界樹? エリィ、それはどういう意味だ?』
グエンの問いかけは、巨神の声に飲まれたエリエラには届かない。
エリエラを中心に、橄欖石の床に波紋が生まれ、広がる。
波打つ床に、雨が降るように無数の波紋が生まれる。足元に光る泡が舞い、背筋が凍るほど透き通った深い水面が現れた。泡は水面を飛び出し、燐光のように空中を舞う。
そして、水面全てを埋め尽くす山脈が浮上してくる。
誰もがその光景に言葉を失った。
重殻機兵隊と交戦中のリクセン達は、体が透けていく。姿は薄れながらも、振り下ろされた拳は実体を保ち、一機のヘビークラストを叩き潰し、水面に沈める。
激しい地鳴りが橄欖の間を飲み込んだ。
巨神の声と顕現が、橄欖の間を抱く守護山脈を揺らしている。
強大な声と巨神の意思に、エリエラは意識を失いかけながら、すぐ側で歌うように鳴る甲高い音に気付いた。無意識に、惹かれるままに手を伸ばす。
音は、グエンの持つ軍刀【濡焔】が発していた。
エリエラの手が柄に触れる。
橄欖の間に充満していた、全ての音が消える。
地鳴りは消え、リクセンは止まり、波紋も消えた。
モービルのエンジンは動いているはずだが、何の音も発していない。
浮上する巨神さえも、その動きを止めている。
橄欖石の間に覆いかぶさっていた闇に、揺らめく炎の如き紅蓮の帯が混じった。
水面から浮かび、空中に舞っていた燐光のような光球は燃え上がり、火球になる。
どこからともなく、シャンッシャンッシャンッと、鈴の音が鳴り渡った。
全ての者が動きを止める中。
グエンの背に、冷たい汗が流れた。
「こ、この空気に、鈴の音……まさか。なぜ! や、や、や、やばい!」
震える声に呼応したのか、グエンのすぐ隣に異変が起きる。
水面から浮上し地上へ姿を見せるように、透明な壁のような【境界】から隻腕の女が現れた。
額から天を抉る様に斜め前方に生えた、紅蓮の二本角。
左頬には、首筋から伸びる紅蓮の火焔文様。
夜で染めたような黒髪を無造作に捻り上げ、鈴神楽の簪を何本も突き刺し留めていた。両目は真横に刻まれた古傷で潰れているが、代わりに、額に天眼が収まっている。
縦に裂けた天眼は凝固した血のような、ぬめる光を抱く暗赤色の宝石。
深紅の着物は襟元から大きく着崩され、象牙色の肌を、肩と胸元まで惜しげもなく晒している。裾から腰へ黒炎が立ち昇り、その中には金糸で縫われた大輪の牡丹が咲く。
残された腕を包む袖は長く豪奢で、失われた腕側の袖は肩口で断ち切られていた。
エリエラと変わらぬ年齢に見えるその女は顔を横へ向け、天眼をグエンに向ける。
「扉を叩く音に誘われてみれば、余を迎えようという顔ではないな。弟子よ」
グエンは弾けるようにモービルを飛び降りる。
腰から軍刀を外して右脇に置き、目の前の女性、護国王【銀嚢】の前に跪いた。
銀嚢の周囲に、九つの紅蓮の炎が浮かび、全ての炎から左腕が伸びる。腕は、人間の女の腕、入れ墨だらけの男の腕、狼の毛に覆われた獣人の腕、水かきのある鱗の生えた腕、金剛石の腕、炎の腕など、様々だった。
その中の一本、炎の腕が、首を垂れるグエンの頭を撫でる。
「師の前では、正座と教えたろう」
「はい! 先生!」
グエンは正座になおり、背筋を伸ばすと、顔をあげた。
暗赤色の、瞳の無い天眼がグエンを見下ろしている。
エリエラが呆然とその様子を眺めていた。
音が消えた空間に戸惑い、周囲を見回すと、誰も身じろぎ一つしていない。後ろの席に座るキトを振り向くと、目を開け、半開きの口のまま、停止していた。
銀嚢がエリエラの方に顔を向ける。
「グエンではないな。余を招いたのは。娘、名は?」
「……わたくしは、エリエラと申します」
「そうか。エリエラだな」
銀嚢は顔をあげ、周囲を見回し、足元へ視線を落とし、微笑む。
そこには、水面に迫る、大地のように広がる山があった。
「巨神ササテの海と、余が与えた濡焔、エリエラ。そして、不詳の弟子に、愚かな重銀の兵器ども。こうも重なれば扉も揺れるか。では」
銀嚢はグエンに向き直る。
真紅の着物から素足を覗かせ、片膝をつき、古い刀傷で潰れた両目を近づける。
美しく整った鼻筋が触れるほどに迫る銀嚢の顔。
「余は血を断ち切る護国王。選びなさい。どの血を断つのか」
【問い】を、グエンは最も恐れていた。
彼女が満足のいく答えを選べなければ、自分だけでなく、ここにいるすべての人間が死ぬかもしれない。
何を断つのが正解なのかと、逡巡する。
人間と答えれば、橄欖の間にいる人間すべてが銀嚢の裁きの刃のもとに命を絶たれる。
エンブラと答えれば、エリエラを含むエンブラ人が死ぬ。
敵と答えれば、今問われている「血」が血脈であれば、【問い】を汲み取れず銀嚢の気分を害し、自分と仲間が死ぬかもしれない。
リクセンと答えたなら、リクセンに血が通っているか定かでなく、無知な答えとしてまた死ぬかもしれない。
問いの解釈を、応える言葉を間違えれば、すべてが終わる可能性がある。
目の前にいるのは、紛れもなく神だからだ。
そして、神は、気が短い。
次に発せられる言葉は、銀嚢よりも早く答えたグエンの返答でなければ、死を意味する。
銀嚢の唇が微かに動いた瞬間。
グエンは覚悟を決め、叫んだ。
「巨神ササテと連なる者達を断ってください!」
巨神ササテは恐らく水底から浮上する山であり、そのテリトリーと思われる橄欖の間にいるリクセンはその眷属。グエンはそう予想し、この返答に賭けた。
その言葉に、銀嚢は微笑んだ。
炎の手がグエンの左頬を撫でる。その指に呼び起され、火焔文様が浮かび上がった。
「斬ればいいか、殴ればいいか」
「濡焔で!」
グエンは即答した。
おそらく、さきほど銀嚢が唇を動かした時点で、考える時間など残っていない。
「よろしい」
銀嚢の声は満ち足りていた。
グエンは濡焔の柄を銀嚢に向けて両手で掲げる。
銀嚢は右手で柄を握り、引き抜いた。
浮遊する炎から生えた九本の左腕に、濡焔が現れる。
無造作に、十本の濡焔が振り下ろされた。
鈴神楽の簪が、短く鈴の音を立てる。




