第九話 決戦後夜
目の前一面に広がっている緑と青の世界。
緑は草花や畑といった生命を潤す大地、青はどこまでも広く無限の可能性を秘めている空。
半年ぶりに王都外の景色を見たマナは、胸いっぱいにその空気を吸い込んだ。
「……っはあぁぁ。やっぱり自然の匂いはいいなあ! 王宮の裏庭や森も良かったけど、これぞ自然って感じ」
勢いよく息を吐き切り、目の上に手をかざしながら空を見上げる。
指と指の小さな隙間から、太陽の光が差し込んできた。
王都にあった高い建物に遮ぎられることのない日差しは、眩しくも懐かしさを感じさせる。
「まるで田舎育ちのじゃじゃ馬だな」
レイは相変わらずで、マナを嘲るように鼻で笑う。
「よく覚えてますこと……。でも、私はもう許してるし気にしてないから大丈夫!」
「そう言っている時点で気にしてると思うが?」
「本当に大丈夫だし! っていうか、掘り返して気にさせた原因はレイの今の一言でしょう⁉︎」
反論するマナの顔には、ほんの少しの笑みが溢れていた。
田舎までの道中はきっと賑やかになるだろうと、彼女の足取りは自然と軽やかになっている。
「それにしても、一昨日と昨日は楽しかったけど大変だったなあ」
マナは小さく伸びをしながら声を漏らした。
思い返せば、あっという間の二日間だった。
「ただ飲んで食ってるだけだったのにか?」
「レイにはそう見えたのかもしれないけど、たくさんの人たちが押し寄せて大変だったんだから」
これ見よがしに頬を膨らませ、ため息をついてみせる。
「特に昨日なんて、魔女が消えてお祝いムードだったことろに、王宮を去るって知れ渡っちゃったからもう……」
王宮を出発する前のことを思い出したマナは、小さく笑った。
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今から二日前、魔女リリィが消えたあの日。
一度田舎に戻ろうと決めたマナだったが、精魂尽きていたこともあり、その日の出発は不可能に近かった。
もちろん、精魂尽きていたのはマナだけではない。
瓦礫の後始末や、怪我人の保護や治療。
たちまちと日が暮れて、王宮にいた人々も精神的にも疲れきっていた。
夕方にはささやかな食事会が開かれたが、それは祝宴というよりも、粛然とした慰労会のようなものだった。
「疲れたぁ……」
自室に戻るなり、マナは限界を迎えたようにベッドへと身を投げ出す。
もう戻ることはないと感傷に浸りながら退室した自室で一晩を明かしたのは、どこかきまりがわるい心地だった。
その次の日、もとい昨日は朝から王宮中が活気で満ちていて、そこかしこでお祭り騒ぎのような声が聞こえていた。
「準備が出来たら王室に来てほしい」とフェアラートから伝えられていたマナは、眠い目を擦りながら身支度を整える。
部屋を出たすぐそばの廊下で、レイが腕を組んで壁にもたれていた。
「あ、レイ。おはよう」
声をかけると、挨拶代わりのように彼は軽く顎を引いた。
「これからフェアラート王のところに行くんだけど、レイはそのまま待っててもらってもいいかな?」
マナは気まずそうに恐る恐る尋ねる。
正直なところ、フェアラートにレイのことをどう説明すればいいのかの見当がついていなかった。
「それでいい。俺も面倒ごとは嫌いだ」
彼は短く答え、壁から背を離すこともなく気だるげに目を細める。
──なんか、すごくレイらしい答えかも。
その答えに少しばかり安堵してしまう。
「じゃあ、行ってくるね」
軽く手を振って、レイの横を通り過ぎた。
王室の前にたどり着くと、扉の前では執事が直立するかのように立っていた。
すぐに「お待ちしておりました」と、一寸の乱れもない礼が向けられる。
執事は重厚な扉を丁重に開けた。
部屋の奥では、フェアラートが静かに座していた。
「おはようございます、フェアラート王。お身体の具合はいかがですか?」
「ああ、おかげざまでかなり良くなっているよ。ありがとう」
にこりと笑ったその顔にはもう偽りの愛情はなく、ただ一人の女の子への感謝が向けられていた。
「いえいえ、安心しました。……それにしても、すごい活気ですね!」
マナは目を輝かせながら王室の窓の外に視線を向ける。
「皆魔女が消えたことを喜んでいるからね。もう二度とリリィは現れない、封印ではなく消滅したんだ。これは、この二十年の中で最も歴史的なことだよ」
「そうかもしれませんね」
聞こえてくる楽しげな笑い声に耳を傾ける。
王宮に響く声はどこまでも明るく、どこまでも平和だった。
ここに来てから、一番穏やかな日。
「で、だ。今日は皆の仕事を止めにして、まずは盛大に祝うことにした。料理も酒もたくさん用意してある。マナも是非楽しんでほしい」
「いいんですか⁉︎」
王宮の料理はいつも安定して美味しい。それが祝いの場ともなれば、また一段と豪華になる。
料理と酒を堪能している自分の姿を想像して、自然と声が弾んでいた。
「いいもなにも、マナのおかげじゃないか。その本人がいなくてどうする」
「わあ、ありがとうございます!」
ぱあっと明るい笑顔を見せたその顔は、あどけなさの残る十五歳の女の子そのものでしかない。
──まだ本調子じゃないし、せっかくだから今日は楽しんで出発は明日にしよう!
マナは心を躍らせながら、フェアラートにあともう一泊だけ元自室を貸してほしいと頼んだ。
「……何故一泊なんだ?」
彼が狐につままれたような顔で聞いてきたことから、事態が急変する。
薄々そうなるだろうとは思っていたが、王宮から離れることを強く引き留められた。
それでも、田舎へ帰りたいという気持ちは変わらない。
マナは母の形見であるブルーダイヤモンドを見せながら、「この宝石の力でリリィを倒せた。宝石のことを知りたい、母の書物を見たい」と力説した。
結局悪魔のことは伏せたまま、フェアラートが折れる形でなんとか合意に至ったのだった。
そこからは目まぐるしく、着たことのない華美なドレスに、いつもとは違うヘアメイク。
お姫様のような変貌に喜んだのも束の間で、すぐに皆の前で別れの挨拶をし、その後はひたすらに飲んで食べて、話をしてまた飲んで。
正直、夕方以降の記憶はあまり無い。
ただ一つ、はっきりと覚えていることがある。
「レイ! 見て見て! 綺麗でしょ!」
大広間の隅で一人退屈そうにグラスを持って立っているレイに駆け寄り、ドレスをひらりとひるがえしてみせた。
すでに少し酔いが回っていて、いつも以上に陽気な自分になっていることに気がつく。
「……馬子にも衣装」
「やっぱり! 絶対そう言うと思った!」
あははと笑ってみせるマナの前に、大勢の男性たちが寄ってきた。
それは、かつて彼女を蔑んだ騎士たちだった。
「マナ様、申し訳ございませんでした」
一斉に膝をつき、深く頭を下げた彼らの行為にぎょっとする。
慌てて「気にしていないので、頭を上げてください」と言ったが、誰一人として動かなかった。
酔いも醒めてしまいそうかほど、なんとも落ち着かない光景。
何十人に頭を下げられるのは、決して気持ちの良いものではなかった。
これを快感に思える人種もいるのだから、なんとも不思議なものだ。
困惑し「本当に大丈夫です」と続けている横から、空気を変える声が割り込んできた。
「謝罪はもういい。それよりも、それ相当の代価の方が誠意が伝わると思うが?」
隣でレイが薄ら笑いを浮かべている。
──ちょっとちょっと! 突然なに言い出すの⁉︎
思わず目を見開き、彼をわずかに睨む。
すると、目と目で何かの合図をした騎士の一人が突然こちらに前に歩み寄り、すっと目の前に革製の巾着袋を差し出してきた。
「もちろんご用意させていただいております。これではご納得していただけないかもしれませんが、我々の感謝と詫びの印です。お受け取りください」
袋いっぱい詰まっていて、見るからに重そうな巾着袋。
わずかに硬貨が擦れ合う音が聞こえるその中身なんて、見るまでもない。
──そんなもの、受け取れるわけが……。
たじろぐマナの横から更にレイが口を挟む。
「受け取っておけ。それがこいつらのためだ。お前が受け取らないなら、俺がもらうぞ」
そう言って不敵に笑うレイがなんだか憎らしい。
「……ありがとうございます。大事に使わせてもらいます」
「とんでもないです。何卒、道中お気をつけて」
再度頭を下げ、集まっていた騎士たちは少しずつマナたちのいる場所から離れていった。
しんとした空気が戻り、マナはちらりとレイを見やって、尋ねる。
「レイ、あの人たちが金貨を用意してくれてたの気づいてた……?」
「当たり前だ。まあ、子供のお前にはわからないかもしれないがな」
「この国では十五歳から成人なの! 私はもう大人なんだから!」
「そういうところが子供だというんだ」
つんと顎を上げたマナにレイは嘲笑し、ため息を漏らした。
──覚えてるのは、ここまで。
お酒のせいもあるんだろう。なんだか嬉しくて楽しくて、気がついたらベッドで寝ていた。
そうして今日の朝。
王宮の人たちから盛大に見送られ、今はレイと共に帰路へついていたのだった。
僭越ながら、第二章始めさせていただきました。
不定期更新にはなりますが、今後のマナとレイの行方を見守っていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。