将軍家綱との接見
結局、福井藩では光通が逝去した延宝2年のうちに関係者が幕府へ光通の遺書を差し出したことで、証拠として採用され昌親が5代藩主に就いていた。ちなみにそれまでは昌明と名乗っていたが、福井藩主就任と同時に昌親と改名した。幕府の裁定で事態は終結するかに思えたが、松岡藩の恨みは消えることはなく、藩運営の様々な場所で対立は激しさを増していった。
福井藩の争いが激化していることを支藩である大野藩の江戸屋敷で耳にしていた直堅の心中は穏やかではなかった。自分には責任はないかもしれないが庶子として生まれてしまったことがこの世継ぎ問題の発端だったかもしれないのだ。何とかしなければという焦りにも似た気持ちが沸き上がっていた。
「福井藩に禍根を残さない代譲りの方法」何回考えてもいい方法は浮かばなかった。しかしふと思い浮かんだことがあった。新しい藩主の昌親様にはまだお世継ぎがいなかったのである。34歳になられていた昌親様の正室は万姫、備中津山藩藩主の森長継の娘である。しかし輿入れ後子供がなく心配されていた。そこで直堅が思いついたのは松岡藩の松平昌勝様のお世継ぎをご養子に迎えられ、昌親様の次の福井藩主に据えるという約束を交わせば、松岡藩ともうまくいくのではないかという物である。
早速、直堅は大野藩主の松平直良に相談することにした。直良は70歳を超えた長老だが、松岡の昌勝と鯖江の昌親とも叔父と甥の関係である。直良は初代秀康の末男で昌勝・昌親の父の忠昌の末弟である。そのため昌勝にも昌親にも意見できる立場にあった。屋敷の奥座敷で対面した直堅は直良に対し
「福井藩の代譲りが混迷を極めております。昌親様に決まりましたが、松岡衆の恨みは大きくいまだに火種がくすぶり続けております。そこで考えたのでございますが、松岡藩の昌勝様のお世継ぎを昌親様のご養子に迎えられ、次の代の福井藩主にするというお約束を交わされてはどうかと。松岡藩も鯖江吉江藩も譲れるところは譲り、得るものは得るという策にはなりませんでしょうか。」と提案すると大野藩主直良は
「そなた、なかなかの策士じゃな。昌親には子がないと聞く。昌勝は藩主にはなれないが昌勝の息子が藩主になるのであれば、昌勝も承服するであろう。よしわかった。ちょうど参勤の時期で昌親は江戸に来ておる。早速話してみよう。」と言ってくれた。
そこからはトントン拍子で話は進んでいった。直良が提案した案を昌親は受け入れ、福井の城代家老に書状で伝達され、城代家老から松岡藩の昌勝に話が回っていった。双方が少しずつ我慢して話がまとまった。福井藩の後継争いは一旦収まったかに思われた。
松岡藩から昌勝の長男の綱昌が福井藩主の昌親の養子として福井藩に入った。綱昌が13歳の時である。
年が明けて延宝3年、直堅は懸念していた福井藩のお家騒動が収まったことで安堵していた。しかし直堅が発案して福井藩の後継問題が解決したことは直良の口から幕府内の役人たちにも知れ渡り、将軍の耳にも入ってしまった。すると延宝3年5月21日、幕府から直堅に江戸城へ登城するようにお達しがあった。
何のことかわからず狼狽えたが、裃など身支度を整え江戸城に向かった。広大な江戸城は初めて来る者にとっては入口すらわかりにくい。何重にも巡らされた濠を分け入り、ようやく大手門にたどり着き、江戸城内に入った。城内に入るにあたり役人に用向きを告げると側用人が迎えに来てくれた。暫くその後について行くと松の廊下から謁見の間にむけて広くて長い壮大な廊下が続いている。さらに進み側用人の案内で謁見の間に入った。謁見の間は100畳ほどの広さで周りの襖は虎が描かれていて、入って来た直堅を睨みつけている。江戸城内はもっと広い部屋もあるが、この部屋は少数の人間が将軍に謁見するときに使われているようだ。部屋の中央で直堅が正座して待っていると、上段の間の上手の襖が開き、4代将軍家綱が現れた。直堅は低頭の姿勢で額を畳にこすり付けて恭順の態度を示していた。
「おもてをあげよ。」という側用人の声で初めて頭を上げて壇上の家綱に正対した。壇上の将軍家綱は直堅を見下ろしながら小さい声で
「松平直堅、お主が2年前福井藩を出奔して江戸に来たという者か。福井藩の松平光通殿が御自害してからというもの、福井からはいろいろな家臣たちが来て、家督を我が方へと訴えて来た。お主の名前も出ていたが、結局光通殿の遺言を尊重することにした。しかし騒動は収まらず、双方の面目を立てて昌勝の息子を昌親の養子にして次の藩主にすることになったと聞いた。しかもその発案者は江戸に出奔してきた直堅、お主だと聞いたぞ。」とお声をかけてくださった。直堅は初めて見る将軍の姿に緊張して声が出にくかったが、一度咳払いをして呼吸を整えて話し始めた。
「本日はお目通りいただき有難き幸せです。将軍様が御裁定頂いた福井藩の家督についてでございますが、事の始まりは私が越前福井藩松平光通の庶子として生まれたことでございます。生まれてすぐに家老職の永見家に預けられ、そこで育てられました。しかし光通様の御正室の国姫に世継ぎの男子が生まれなかったためか、国姫様が悩んだ末に御自害なさいました。しかし国姫の死の原因は庶子である私の存在であると噂され、ついには私が福井の城で何者かに毒を盛られ、誤って私の幼馴染が命を落としてしまいました。私の存在が福井藩を混乱の渦に落とし入れてしまったと思うと、とても福井の城にいることは出来なくなってしまい、福井藩を出奔してしまったのでございます。しかし昨年、父の光通様までが世継ぎ問題に心を悩まし御自害してしまい、死に際しご遺言で家督は弟君の鯖江吉江藩の松平昌親様をご指名なさいました。しかし昌親様には兄君である松岡藩の松平昌勝様もいらっしゃいますので、私を交えて藩の家臣たちは3派に別れてしまったわけです。困り果てた状況を打開くださったのは将軍様が光通様の御遺言を尊重するように裁定を下していただいたおかげなのです。しかし松岡藩の関係者は納得していません。昌勝様は私と同じようにお母上の身分が低く、庶子として育てられましたが長子です。そこで私はご遺言通り昌親様に家督は譲りますが、お世継ぎのいない昌親様の養子に松岡藩の御子息を迎えて、第6代福井藩主に据える約束を取り交わしてはいかがかと申し上げた次第です。」とまだまだ長い話になりそうなところをかいつまんで話をした。家綱は話に理解を示したが
「今も松岡藩の昌勝と鯖江吉江藩の昌親とはうまくいかないのか。」と身を乗り出して聞き返してきた。直堅はしばらく考え込んだが右手に持った扇子で畳を叩いて大きな音を出し、勢いをつけて話し始めた。
「福井藩の藩祖である松平秀康公も家康公のご次男としてお生まれになりましたが、庶子であるとして築山殿から認められず、家康公のそばで生活することを許されず別の場所で幼少の時期を過ごしますが、小牧長久手の戦いの後、豊臣家への人質として養子に出されることで生まれて初めて家康に貢献することになります。さらに秀吉公に世継ぎの秀頼公が生まれると関東の結城家へ再び養子に出されます。しかし関ケ原の戦いの時の功績が認められ松平の姓を名乗り越前の国を治める大大名に取り立てられました。しかし庶子であったということが原因で数奇な運命をたどっています。そういう意味で松平昌勝や松平昌親が庶子としてその世継ぎ争いに関連してしまったことは秀康公以来の因縁なのかもしれません。そういう意味で福井藩は今後も庶子をからめた世継ぎ争いは続くかもしれません。」と福井藩の歴史と今後の見通しを語り始めた。
しっかりと話を聞いていた将軍家綱は
「だからこそ禍根を残さないように昌勝の息子を昌親の養子に迎え入れるように提案したのだな。」と言うと家綱は側用人を呼んで何か耳打ちをした。側用人は一旦襖の外に出ると奥から何やら書状を持ち出し、三宝に乗せて運び出してきた。厳かに将軍の前に差し出すと家綱は
「福井藩を出奔して江戸に出て来て禄も無く苦労しているであろう。しかしその方の苦労と今回の福井藩に対する働き、大いに役に立った。本日松平直堅を幕府直轄の御家人に取り立てる。いずれ江戸管内に屋敷を与え、3000石を禄とする。」と読み上げた。
直堅は低頭の姿勢をとり畳に額をこすりつけてその声を聴いたが、信じられないという思いが頭の中を占めた。将軍様は見ていてくださったのだ。出奔に至る過程と出奔後に福井藩の安泰を願って画策した行動を評価して御家人に取り立ててくださった。有難い幸せなことだ。そう感じて頭を上げることが出来なかった。低頭の姿勢をとっているうちに将軍家綱は席を立ち上段の襖から出て行ってしまった。静寂だけが大きな部屋に残され、直堅は静かに立ち上がりようやく落ち着いて部屋の周りの襖絵や欄間の彫刻を眺めることが出来た。江戸城は天下一の城であり、徳川幕府の権勢を世に知らしめる豪華さだった。




