偉い人映像化して・るろうに剣心 幕末編
慶応二年、夏。
長州藩を四方の国境から一斉に圧殺せんとする徳川幕府の軍勢は、十万を超えていた。
のちに「四境戦争」、あるいは「第二次長州征討」と呼ばれる、新時代への扉を抉じ開ける大戦の幕開けである。
夜の関門海峡は、漆黒の闇と、それを切り裂く艦砲の火花に支配されていた。
小倉口の戦線。海上に浮かぶ幕府軍の巨大な軍艦に向け、下関の港から数多の小舟が、波音に紛れて静かに漕ぎ出されていく。
その一艘に、かつて「人斬り抜刀斎」と恐れられ、愛する妻を失って抜け殻のようになった若き侍の姿があった。
緋村剣心。十六歳である。
『新時代を迎えるためには、お前の剣が必要なんだ』
元治の京都で、最愛の妻・巴をその手にかけ、近江の隠れ家で打ちひしがれていた剣心を呼び戻したのは、長州藩の指導者・桂小五郎の言葉だった。
巴の無念を胸に長州へ赴いたものの、今の剣心はただ、機械的に剣を振るだけの存在にすぎない。心はあの日を境に死んだままである。
しかし、巴が命を懸けて守ってくれたこの命。新時代という「光」を人々に届けるための「影」として使い果たすと、彼は固く心に決めていた。
行く手を阻む敵艦の銃座から、容赦ない銃弾が海面を叩く。
その時、長州側の先陣を切る長府藩の精鋭「報国隊」のミニエー銃が一斉に火を噴いた。
続いて山県狂介が指揮を執る奇兵隊の散兵戦術が、闇夜から的確に幕府軍の隊列を次々と突き崩していく。
「今だ! 行け、抜刀斎――ッ!」
長州の主力艦『丙寅丸』の船上から、肺を病みながらも不敵に笑う奇兵隊総督・高杉晋作の怒号が響く。
その声を合図に、剣心は小舟の縁を蹴り、夜空へと高く躍り出た。
嵐のような銃弾をすり抜け、敵艦の甲板へと着地した瞬間、抜刀術の閃光が闇を裂く。
飛天御剣流の神速の刃が敵の指揮官を瞬く間に斬り伏せ、大砲の火薬庫を破壊していく。
夜の海に、巨大な炎の赤が広がった。戦いは長州の完全勝利に終わった。
小倉城の兵たちが自焼退却を始めたその時、高杉は城内で時を告げていた大太鼓を、勝利の証として強引に分捕り、自陣へと持ち帰った。
下関の嚴島神社へと奉納され、報国隊や奇兵隊の志士たちが、歓声を上げてその太鼓を打ち鳴らし、新時代の到来を祝う。
賑やかな光の輪から一歩引いた、境内の暗がりに佇む剣心。
その傍らに、一人の若き報国隊士が、戦利品である小倉城の「営門の銘札」を担ぎながら静かに歩み寄ってきた。
「小倉城陥落。われら長州の正義が、やっと示せたな、抜刀斎」声をかけた者の名は乃木文蔵。のちの乃木希典である。
山砲を率いて小倉口で縦横無尽の武功を挙げた、長府の若き熱血漢であった。年齢は剣心とそう変わらない。
「お主こそ。小倉城一番乗りの活躍だったそうではないか、文蔵」
「ああ。俺はこの命を、新時代の幕開けのために捧げる覚悟だ。そしていつか、高杉さんのような大将になるのが俺の夢さ」
真っ直ぐな信念を持つ、眩しい長州の「光」。一方剣心は、すでに多くの人を斬り、最愛の者を失って心が凍りついた「影」。
「一緒に新しい国を創ろう」キラキラとした目で語りかける同い年の乃木に対し、剣心はうまく返事ができず、ただ小さく視線を落とすことしかできなかった。
「若いもんが日本の未来を語る姿を見れて、儂はほんまに嬉しいぜよ」
暗闇から、場に似合わぬどこか飄々とした、しかし地響きのように太い声が掛けられた。
懐手をし、不敵な笑みを浮かべた背の高い男――。
この四境戦争にユニオン号(乙丑丸)と共に参戦し、激戦ののち、ようやく下関へ錨を下ろして上陸したばかりの坂本龍馬であった。
「……坂本、龍馬殿」高杉らの口からその名を聞いていた剣心と乃木は、思わず顔を見合わせた。
龍馬はふたりの横に並ぶと、懐に右手を忍ばせ、真っ赤に燃える対岸の小倉を見つめた。
「高杉の馬鹿が、軍艦の上で大はしゃぎしちょる。……あいつが長州の光なら、おまんがその影かえ。人斬り抜刀斎」
龍馬の目に映る少年の横顔は、かつて京の街で人斬りとして過酷な運命を強いられ、刑場の露と消えた幼馴染、
――岡田以蔵の面影と、どうしても重なって見えた。
「けんど、おまんらの死線の先に、この日本の夜明けが確かに見え始めてきよったぜよ」
「……夜明け、ですか」
剣心は己の血に塗れた両手を凝視した。その声は、夜の冷たい海風に消されそうなほどに震えている。
「新時代を築くために、拙者はこの手で、いったいあと何人を殺せばいいのか……?
この手が血で汚れるたび、拙者には新時代という言葉が、ただの虚しい呪いに思えてならぬ……」
深く冷たい、絶望の吐露。人を斬ることでしか未来を創れぬ己の業に、十六歳の若き抜刀斎の心は深く沈んでいた.。
それを受け止めた龍馬は、一瞬の沈黙の後、
ハハハと夜空を割るように豪快に大笑いした。そして、その大きな、温かい手で剣心の肩をバシッと叩いた。
「おいおい、抜刀斎! その新時代を生きる若者が、そんな暗い顔をしちゃあいかんきに!
……それに、誰が『これからも人を殺し続けにゃならん』と言うたがじゃ?」
「……え?」予期せぬ言葉に、剣心が小さく顔を上げた。龍馬はニヤリと不敵に笑い、ピストルを懐へ収めると、太い腕を組んで天を仰いだ。
「いっそ、幕府に政権を丸ごと朝廷へ返還させて、犠牲なく新時代を迎えるぜよ」
「……な、何と……!?」あまりに突飛で、あまりに壮大すぎるその言葉に驚く乃木。
そして剣心も思わず口から「おろ……!?」と言葉が漏れた。
人を斬ることしか教わってこなかった少年が、完全に目を丸くして龍馬の顔を凝視している。
当時の常識で言えば、幕府を倒すということは、武力で徹底的にねじ伏せることを意味する。
奇兵隊や報国隊、そして京の闇で動いていた剣心にとっても、それは絶対の前提であった。
それを、この男は「戦わずに、政権を返させる」と言うのだ。驚愕する剣心を見つめる龍馬の瞳には、海のように深く熱い光が宿っていた。
「徳川の歴史に、戦うことなく自ら幕を引かせるがじゃ。朝廷に政権を返し、日本中の藩が一つの国としてまとまる。そうすりゃあ、これ以上、日本人が互いに殺し合う必要はのうなる。
……おまんのような若い凄腕が、罪悪感で身を削るような影の戦さは、わしがこの手で、一足飛びに終わらせてみせるぜよ!
おまんのその剣は、人を殺めるためだけにあるがじゃない。これから生まれる無血の新時代を、その目で見届けるためにあるがじゃ!」
刀ではなく知略と意志で、血を流さずに国をひっくり返す。
龍馬の放った言葉は、凍りついた暗闇の底に差し込んできた、途方もなく眩しい「本物の光」であった。
「この戦況を見たら……本当に幕府は政権を投げ出すかもしれませんね」対岸で激しく燃え上がる小倉城を見つめ、乃木が不敵に笑う。
大砲を率いて前線で戦った彼だからこそ、幕府の限界を肌で感じていた。
「力を失った幕府が、本当に政権を返上する……。そしたらもう、誰も死なずに、新しい時代の幕が上がるのか……」
剣心もまた、その言葉を噛みしめるように呟いた。巴を失って以来、初めてその瞳に、かすかな生の灯火が宿る。
「おい、ぐずぐずしな、こっちに来るぜよ!」
「おろっ!?」
龍馬の大きな手に背中を押され、剣心は乃木とともに、境内の中心に据えられた大太鼓の前へと連れていかれた。
そこには、激しい咳き込みを堪えながら酒を煽る高杉晋作がいた。
「高杉! そのぶんどってきた大太鼓、これからの日本を背負って立つ若者に叩かせるぜよ!」
「おお! おい皆の衆、聞けぃ!! これから飛天御剣流の、華麗なる演奏が始まるぞ!!!」
高杉の冗談交じりの大号令に、集まった志士たちが「おおおっ!」と地鳴りのような歓声を上げる。
「おろ、おろろ……!?」
戦場では神速の抜刀斎が、手渡されたバチを両手に持ったまま、完全に気圧されて目を回している。
しかし、大太鼓に向き合った剣心の瞳に先ほどまでの絶望の影はなかった。
新しい時代を生きる、そして生きて見届けるという、希望の光が確かに灯っていた。
四境戦争の激動がひとまずの落ち着きを見せ始めた頃、緋村剣心は下関の清水家――のちに東行庵と呼ばれる庵にいた。
そこには、持病の肺結核が急速に悪化し、死の床に伏せっている長州の風雲児・高杉晋作の姿があった。
高杉の傍らでは愛人であるおうの(のちの梅処尼)が高杉の額に当てる布を優しく絞り、甲斐甲斐しく病床に寄り添っている。
剣心は小さく膝をつき、声をかけた。「高杉さん……具合は、いかがでござるか」
「良くねえから、わざわざお前を呼び出したんだよ、抜刀斎」
高杉は激しく咳き込みながらも、おうのの手を借りて上体を起こした。
その眼光だけは、病魔に侵されてなお、かつて奇兵隊を率いた時と同じ鋭さを失っていない。
「いいか、よく聞け。これから言うことは、俺の遺言だと思って肝に銘じろ」
「高杉さん……」
神妙な面持ちの剣心の目をじっと見て高杉が続ける。
「あの小倉口の戦いが始まった頃、お前の目は死人のように虚ろで機械のように戦ってるだけだったが、
坂本と会ってから目に輝きが戻ってきたようだな。」
高杉は自嘲気味に、ふっと笑う。
「お前をこんな影の世界に引きずり込んじまったのは、俺と桂さんだ。
だから……お前がちゃんと光の当たる場所へ進めるように道を示すのが、俺の責任だと思ってる」
その言葉を聞き、剣心はきつく袴を握りしめる。
「……俺の血刀の向こうに、誰もが平穏に、笑って暮らせる新時代があるのなら、俺はいくらでも影の道を歩みます。
この手がどれだけ汚れようとも……」
「分かってねえな!!」高杉の怒号が、静かな庵に響いた。激しい咳が彼を襲うが、それでも剣心を睨みつける。
「お前も!! その新時代で笑ってなきゃいけねえんだよ! 」
「……っ!」
剣心は息を呑み、目を見開いた。
新時代のために他人の幸せを奪ってきたと自戒する剣心にとって、
自身の幸せを願われることは、あまりにも衝撃だった。
「坂本が目指す日本の夜明けまで、俺の命は持ちそうにねえ。……だから、抜刀斎」
高杉は、優しく、しかし確かな重みを持って語りかける。
「俺が見届けられねえ分、お前自身も含めた一人でも多くの者が新時代を迎えられるように、これからはその剣を振るえ。いいな!」
剣心の瞳に、迷いのない光が宿る。彼は深く、頭を下げた。
「……分かりました。一人でも多くの者が笑って新時代を迎えられるよう、この剣を振るってみせます」
「その言葉、決して忘れるなよ! 武士に二言はねえからな!」
高杉は満足げに笑い、悪戯っぽく目を細めた。
「これからは語尾に『ござる』でもつけて、
人斬りじゃなく一介の武士として生きると俺に誓え!いいな?」
剣心は一瞬呆気にとられたが、高杉の深い優しさに感謝し、静かに微笑んだ。
「……しかと、誓うでござる、高杉さん」
その時であった。庵の障子戸がバシャンと勢いよく開く。
転がり込んできたのは、剣心と共に清水家を訪れていた乃木文蔵であった。
「た、大変だ! 緋村……! 高杉さん……!」
乃木は十六歳の声を裏返らせながら、顔を真っ青にして叫んだ。
「は、萩の城下から……高杉さんの正妻の、雅様が、御長男の梅之進様を連れてここへ向かっておられる!
もう、門のすぐそこまで来ているんだ!」その報告が響いた瞬間、庵の空気がピキリと凍りついた。
「お、おろ……!?」剣心もその報に驚き心配そうに高杉を見つめる。
「おい、文蔵、緋村……」布団の中から、掠れた声が聞こえた。
見れば、奇兵隊を創設し、長州藩をクーデターでひっくり返した希代の英雄・高杉晋作が、
あろうことか木綿の布団を頭までスッポリと被り、「全力の寝たフリ」を決め込んでいた。
「……高杉さん!? この期に及んで狸寝入りはござらん! 起きてくだされ!」
「うるさい、俺はもう死んでる。あとはお前ら二人で上手くやれ……」布団の中から、あまりに不甲斐ない囁きが返ってくるだけだった。
「ごめんください」凛とした、しかしどこか冷ややかな女性の声が玄関に響いた。高杉晋作の正妻・雅の到着である。
「ひ、緋村……どうするんだ!? 俺はどうすればいい!?」乃木は完全にパニックに陥り、剣心の肩を掴んで激しく揺さぶった。
アームストロング砲を率いて幕府軍の艦隊と戦うときはあんなに勇敢だった少年が、女子の修羅場を前に、完全に涙目である。
「拙者に聞かれても困るでござる! 拙者だって、こういうのは専門外でござるよ!」
幾多の暗殺と死線を切り抜けてきた飛天御剣流の神速を以てしても、決して切り抜けられない絶体絶命の窮地に、二人の少年は追いやられていた。
雅はゆっくりと部屋へ歩みを進めると、高杉の布団の横に静かに座り、その布団を容赦なくガバッと剥ぎ取った。
「あなた。いつまで死んだフリをしていらっしゃるのです。長州をひっくり返した風雲児が、女子二人の前で狸寝入りとは、随分と小さくまとまったものですこと」
「げほっ……! げほごほっ……!」高杉は慌てて本物の激しい咳をぶり返しながら、バツの悪そうな顔で薄い目を開けた。
「……ま、雅か。いや、あまりに頭が痛くてな……なぁ、おうの?」高杉がすがるように愛人を見上げる。
しかし、おうのはすっと目をそらし、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。「いいえ、あなた。先ほどまで少年たちと、楽しそうにお話しされておいででしたよ」
「おい、おうの!? お前まで俺を裏切るか!」高杉が悲痛な声を上げる。
取り乱す高杉を無視し、雅は抱えていた我が子・梅之進をそっと傍らに座らせると、
静かにおうのに向き直り深々と頭を下げた。
「これまで高杉を支えてくださったこと、高杉の妻として、心から感謝いたします。あなたがいなければ、この人はとうに倒れていたでしょう」
「滅相もございません、雅様……。私はただ、このお方の烈しすぎる生き様に巻き込まれ、共に夢を見させていただいただけの、影の女にすぎませぬ。
……今日までこのお方を生かして雅様にお返しできたこと、私の生涯の誇りでございます」二人の女性が、深く頭を下げ合う。
雅は我が子を抱き直しながら、静かに、しかし最高に鋭い笑顔を夫に向けた。
「晋作。聞きましたか。ここから先は、私も妻として、あなたの最期までのお世話をさせていただきます。
……おうのさん、あなたも、これからも一緒にこの人を支えてくださいますね?」
「はい……喜んで、雅様」おうのが立ち上がり、雅の隣へと並ぶ。二人の偉大な女性の、薩長同盟以上の強固なる戦線同盟の結成であった。
「さあ、あなた。お薬の時間です」二人の女性が並んで仲良く高杉に苦い薬湯を飲ませる。
高杉が「苦い! もう勘弁してくれ!これは本当に薬か!?積年の恨みか!?」と本気で泣きべそをかいている姿を、剣心と乃木は部屋の隅で小さくなって見つめていた。
(……文蔵)
(……なんだ、緋村)
(女性とは、戦場のいかなる武士よりも恐ろしく、そして偉大な存在でござるな……)
(ああ……俺も今、深くそう悟ったところだ……)
伝説の人斬りと後の明治の軍神は女性の強さにただただ平伏するのであった。
慶応三年、十月十四日(1867年11月9日)
日本中に、地鳴りのような衝撃が駆け抜けた。
将軍・徳川慶喜による朝廷への政権返上――「大政奉還」の断行である。かつてこの下関の地で、坂本龍馬から聞かされていた夢物語が、ついに現実となったのだ。
下関に置かれた、奇兵隊の本陣陣屋。京からの早馬がもたらしたその大報に、陣屋の周りは志士たちのどよめきに包まれていた。
(本当に……本当に坂本殿は、一滴の血も流さずにこの国を引っくり返して見せた……!)全身の血が逆流するほどの歓喜と驚愕が、十七歳の胸を締め付ける。
「もう、誰も斬らなくていい……」己の血に塗れた掌を見つめ、思わずまじまじと目を丸くして震える剣心の背後から、板張りの廊下を歩く冷徹な足音が近づいてきた。山県狂介である。
大政奉還の報に沸く隊士たちを尻目に、ミニエー銃の在庫目録と弾薬箱の数を点検していた男の目は、極めて冷徹であった。
「随分と、締まりのない面をしておるな、緋村。坂本さんの奇策が成就して、人斬りの役目が終わったとでも思ったか」
「山県殿……。しかし、現に慶喜公は政権を返上された。これで徳川家も一つの藩となり、日本人が互いに殺し合う戦争は回避されたのではござらんか!」剣心はすがるように、いつになく声を大にした。
これ以上人を斬らなくて済むのではないかという、少年の悲痛な願いでもあった。「だからお前は甘いというのだ」
山県が静かに語る「政権という『器』をひっくり返したところで、人間の腹の中にある『執念』と『怨念』はひっくり返らん。
慶喜公が政権を返したとて、徳川家が持つ八百万石の広大な領地と圧倒的な経済力、
そしてこれまで特権を貪ってきた旗本・御家人たちのプライドはそのまま残る。
彼らが『はいそうですか』と大人しく引き下がると思うか?」山県の鋭い眼光が、剣心の瞳の奥を射抜く。
「土佐の連中や坂本さんは、将軍を新政府の首班に加えようと考えておるようだが、
薩摩の西郷さんや、京にいるうちの桂さんが、徳川の巨大な勢力が新政府に居座り続けるのを黙って見過ごすはずがない。
身分制度をぶっ壊す維新回天において、武家政権の権化たる徳川は邪魔なんだよ。
……必ず、徳川の領地と力を根こそぎ奪うための『次の一手』をこちらから仕掛ける」
そうなれば、追い詰められた幕府側の不満は一気に爆発し、本当の「武力」による激突が始まる。
いいか、緋村。すんなりと新時代が始まるわけがない。
この陣屋に蓄えた兵と弾薬、そしてお前のその飛天御剣流の出番も、まだまだ終わりはせんよ。
もう一波乱、いや、これまで以上の巨大な大波乱が必ず来る」
冷徹な、政治と現実の重み。山県が予感していたのは、数ヶ月後にこの陣屋の全軍を率いて京へと進軍することになる
「鳥羽・伏見の戦い」、武力による歴史の暴発であった。大政奉還という一筋の光に歓喜したのも束の間。
山県の釘を刺すような予言に、剣心はただただ時代が間違った方向へと進まないよう祈ることしかできなかった。
慶応三年、十一月。坂本龍馬、京都近江屋にて暗殺。日本中を無血で変えようとした巨星の墜落に、志士たちは激昂した。
そして明くる慶応四年、一月三日。山県の放った不吉な予言は、最悪の形で現実となった。
薩摩・長州を中心とする新政府軍と、旧幕府軍による激突――「鳥羽・伏見の戦い」の勃発である。
その開戦の直前、剣心は下関の静かな丘――奇兵隊の本陣があった、吉田清水山の麓にいた。
そこには、前年四月に肺病でこの世を去った高杉晋作の墓があり、その傍らには、京から届いたばかりの坂本龍馬の遺品が静かに供えられていた。
剣心は二人の前に跪き、そっと手を合わせた。脳裏に、二人の言葉が蘇る。
『おまんのその剣は、人を殺めるためだけにあるがじゃない。これから生まれる無血の新時代を、その目で見届けるためにあるがじゃ!』
『お前自身も含め、多くの人が迎えられるように、これからはその剣を振るえ!いいな!!』
「高杉さん、坂本さん……。時代はやはり、血を流さねば前へ進まぬようでござる。
……ですが、拙者はもう、かつてのようにただ人を斬る『影』ではござらん」
ゆっくりと目を開けた剣心の瞳には、かつての人斬りの冷徹な闇ではなく、武士として生きる確固たる意志が宿っていた。
「これからは一人でも多くの者が笑って新時代を迎えられるように。御一新の光を皆が浴びられるように剣を振る所存にござる」
「緋村様」
背後から掛けられた柔らかな声に振り返ると、そこには、黒い喪服に身を包んだ雅と、
剃髪し尼僧となったおうのの姿があった。
「晋作の、そして坂本さんの遺志を継いで戦ってくださること、心から感謝いたします。
どうか……新しい日本の夜明けを、その目でしかと見届けてきてくださいませ」
雅が凛とした武家の妻らしい声で告げると、
おうのも深く頷き、大切そうに抱えていた高杉の形見の外套を、両手で剣心に差し出した。
「緋村様。生きて、生きて戻ってくださいませ」
剣心はその重みを受け取り、肩へと羽織った。高杉が好んだ異国の香りと、戦場を駆け抜けた男の熱が、まだ微かに残っているような気がした。
「必ず……高杉さんの墓前に、良い報告を持って帰るでござる!」
ふたりの高潔な女性に深く一礼し、剣心は踵きびすを返した。
緋色の髪と、高杉の黒い外套の裾を夜風になびかせながら、闇の中を一直線に疾走していった。
新時代という名の本物の「光」を、今度こそその手で掴み取るために。
慶応四年、一月。下関の夜は、骨まで凍りつくような冷たい雪が舞っていた。
「くそっ……! 動け、動けよ俺の足……っ!」長府藩報国隊の本陣陣屋の一角。
乃木文蔵は、包帯でぐるぐる巻きにされ、添え木を当てられた右足を拳で激しく叩いていた。
天下の一大事、鳥羽・伏見で幕府軍との全面対決が始まったという大報が届き、仲間たちが次々と京へ向けて出陣していく中、怪我により留守居を命じられていた。
己の不覚が、情けなくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
その時、兵舎の裏口から、静かに夜風と共に滑り込んできた緋色の髪の少年。
「……緋村、なのか?」乃木が涙を拭いながら声をかけると、剣心は、静かに乃木の前に佇んだ。
「文蔵、怪我の具合はどうでござるか」
「……見ての通りさ。新時代を創る大戦さだってのに、相撲で足を折るなんて、長州の恥さらしだ!仲間に顔向けができん!」
涙を浮かべ苦悶する乃木に静かに語りかける剣心。
「覚えているか文蔵。あの日、坂本さんに出会った日。拙者は大いなる光を見た。」
「あのときの……」坂本龍馬の屈託のない笑顔がよみがえる。
「お主もその光でござる。真っ直ぐに未来を見据えて歩むべき男でござる。
……だから、京の地獄(影)へ行くのは、拙者一人で十分でござるよ」
剣心はそう言うと、そっと懐から一対の木製のバチを取り出し乃木に手渡した。
「これは……」
「この戦さが終わったら、拙者はただの流浪人として、新時代を生きる人々を守る旅に出るつもりでござる。
だから文蔵。お主もその足が治ったら、今度こそ本物の大将になって、
拙者や、坂本殿が命懸けで切り開く『新時代』を、誰もが笑って暮らせる素晴らしい国にしてくだされ。
……それが、お主と拙者の、あの夜の約束でござる」
「緋村……。」乃木は撥と共にきつく剣心の手を握りしめた。
「応よ! 約束だ、緋村! 俺は必ず、高杉先生や坂本さんのような男になって、
お前が命懸けで切り開いた新時代を、命懸けで守り抜いてみせる!
だから……だからお前も、死ぬなよ! 生きて、生きて戻ってこい!」
「ああ、またあの日のように楽しい太鼓を叩こうでござる」
「慶応四年、一月六日。下関の港は、激しい吹雪によって視界のすべてが白く塗り潰されていた。
「のんびりするな! 弾薬箱は奥へ詰め! 凍えて手が動かんなどと言い訳は通らんぞ!」
小倉口の激戦を生き抜いた軍艦『丙寅丸』の甲板で、山県狂介の怒号が雪を切り裂いていた。
京の鳥羽・伏見で開戦したという大報が下関に届いてから、
山県は寝食を忘れ、長州藩の主力、総勢数百名とミニエー銃、そして山砲やアームストロング砲を軍艦へと詰め込んでいた。
旧幕府軍、一万五千。新政府軍、わずか五千。圧倒的な兵力差を知る山県の顔は、鬼気迫るほどに蒼白く、冷徹に引き締まっていた。
「山県さん。乗船の準備、すべて整ったでござる。」
「ならば良し。船を出せ!」剣心の報告を受け、山県が号令をかける。
ごうごうと黒煙を上げる軍艦は、荒れ狂う冬の瀬戸内海へと漕ぎ出した。
この長州軍の進軍は時間との戦い、まさに一刻を争う状況であった。
「くそっ大事な一戦に遅参とは…、乃木の小僧を笑えんではないか!」
山県率いる長州軍主力は、激しい向かい風と高波が船体を激しく揺らし、決戦のために鮨詰め状態で押し込まれた数百の隊士たちが凄まじい船酔いに苦しむ中、下関から瀬戸内海を東へと一気に突き進む。
船が兵庫の津(神戸の港)へと入港したのは、出航から二日の1月八日の未明のことであった。
陸へ上がった長州軍を待っていたのは、京から届いたばかりの、戦況を覆す凄まじい大報であった。
「山県様! 新政府軍が『錦の御旗』を掲げました! 旧幕府軍は朝敵となり、総崩れとなって大坂城へ退却中とのこと!」
「何……!?」山県の目が驚愕に見開かれた。
五年前、文久三年八月十八日の政変が終わりの始まりであった。
急進的尊皇攘夷思想に手を焼いた朝廷は、薩摩や会津の力を使い長州と懇意の公家を京都から追放する。
そして翌元治元年6月、尊王攘夷の志士たちが捲土重来を合議していた場で起きたのが池田屋事件である。
翌月、池田屋で多くの仲間を失って怒りに沸いた長州本国の過激派が宮中に押し寄せ禁門の変となった。
そこで惨敗した長州は朝敵という汚名を着せられ藩存続の危機に落ちる。
絶体絶命の藩上層部は幕府への絶対服従を誓い、多くの攘夷論者を処刑にした。
なんとか藩のお取り潰しは回避できたものの、長州の維新志士は風前の灯火であった。
さらにそこへ来たのが来たのがイギリス・フランス・オランダ・アメリカによる四国艦隊下関砲撃事件。
長州に止めの一撃が下ったかに思えたとき、立ちはだかったのが高杉晋作である。
四か国との戦後交渉で賠償金を全部幕府に擦り付けた高杉は、藩政を転覆させるため功山寺で決起。
わずか80人から始まった高杉の軍行は、無血で兵穀を明け渡した下関新地の根来。
軍艦を明け渡した三田尻の佐藤らの協力もあり、大田・絵堂には1360人もの志士が集結した。
藩正規軍を打ち破った高杉軍は萩城を囲い、ついに藩主を動かし藩政を幕府への絶対服従から武備恭順に変えた。
そして軍備を整え幕軍に勝利したのが先の四境戦争である。
そして今。長い長い地獄の底から、流れる血の海と屍の山を這い進んだ果て、かつてすべてを失った京都の地で、
再び朝廷から認められ「錦の御旗」を掲げた長州は、ついに時代の先頭に舞い戻ったのである。
「抜刀斎、聞いたか。時代が動いたぞ」
山県が振り返ると、剣心はすでに雪の街道の先を見据えていた。
「……はい。しかし、大坂にはまだ火の手が上がっています!
本隊の進軍の先駆けとして、拙者を大坂に行かせてください!
高杉さんとの約束通り、新時代を多くの人が迎えられるように大坂の治安を守りたい!」
「高杉さんの名前を出されたら何も言えんわ!元々お前は儂の配下ではない!好きにしろ!」
「かたじけない!!軍馬を一頭借りるでござる!!」
高杉の黒マントをなびかせ一騎駆けていく剣心。
その後ろ姿に功山寺挙兵時の高杉を重ねる山県。
馬術も大したものではないかと感心したのも束の間、ある違和感に気づく。
「って!!それわしの愛馬あああああああああああ!!」
六甲山に木霊する山県の怒号を背に、剣心は白銀の街道を疾風のごとく駆け抜けていた。
名馬の健脚は凄まじく、兵庫から大坂までの距離をまたたく間に縮めていく。
しかし、大坂の空が見えるにつれ、剣心の表情は曇っていった。行く手が朝焼けではない不気味な赤色に染まっていたからだ。
大坂城の主・徳川慶喜が前夜に敵前逃亡したという事実は、すでに城下に知れ渡り、街は文字通りの無政府状態に陥っていた。
大坂の北の玄関口である「天満」に滑り込んだ剣心。そこで目にしたのは、寺社や民家に火を放ち、混乱を煽る過激派の姿だった。
「新政府軍が来るぞ!」「今のうちに金目のものを奪え!」
そこは逃げ惑う者や暴徒化した者が入り混じる正にカオスな状態であった。
「やめるでござる!」剣心は馬の背から飛び上がると、
民家に火を点けて回る暴徒の腕を払い、その手から松明を叩き落とした。
「何だてめえは! 邪魔をするなら殺せ!」逆上した暴徒たちが一斉に抜刀し、剣心へ襲いかかる。
しかし、緋色の髪の少年は、その腰にある真剣を抜き放つことはなかった。
ただ鞘のままで群がる男たちを次々と地に伏せさせていく。
狼藉者の鎮圧はできたものの、天満の交差点は、炎から逃げ惑う人々で膨れ上がっていた。
その混沌の渦中、背後から突き刺さるような殺気が剣心の背を刺す。
「赤い髪に左頬の十字傷。人斬り緋村抜刀斎だな」
声の主は大坂に本陣を移していた新選組三番隊隊長斎藤一だった。
ガキィンッ!!!すさまじい金属音が、朝日が照らす天満の空に響き渡る。
「徳川が退いた大坂を、視察にでも来たか?」低く冷たい声と共に第二撃が剣心を襲う。
「久しぶりでござるな。斎藤」刹那のうちに繰り出される第三撃、第四撃をギリギリで凌ぐ。
「悪いが斎藤! 拙者はここに京都での決着をつけに来たのではござらん!
今のこの大坂は、火事場泥棒や暴徒が溢れ、市井の人が怯えている。
拙者はここに、一人でも多くの者が新時代を迎えられるように、暴徒から市井の人を守るために来たのでござる!!」
天満の十字路に剣心の声が響く。その気迫にそれまでごった返していた民衆も息をのんだ。
「斎藤! 新選組は治安警護が本来の役目でござろう! だったら、この大坂の惨状を放っておけるはずがない!」
剣心のまっすぐな瞳を見据え、斎藤は不敵に、そして冷酷に唇を歪めた。
「……幕府がどうなろうと、俺たちの仕事は京や大坂の『御用改め』だ。
火付けや火事場泥棒の好きにさせるために、今まで命を張ってきたわけではない」
「だったら、まずはこの大火を消したい!」そう言って大坂の家々を焼く大火に向かい直し、構えを取る。
「まさか刃風によって火を鎮めるつもりか?」
「お主も手伝ってくれ! 出来ぬとは言わさんぞ!!!」
剣心の横に、苦虫を噛みながら斎藤一が立ち、左片手一本の凄絶な構えを取った。
「飛天御剣流――竜巻閃!!」
「牙突――疾風一刀!!」
幕末最強の二人による剣風の衝撃が真空を生み、一瞬で炎を消し止めた。
その圧巻の光景を前にして、さっきまで騒然としていた大坂の民衆は静まり返る。
舞う煤煙を割って、斎藤一が刀を後方にいた新選組隊士たちへと突き出し、鋭く吠えた。
「新選組全隊士に告げる! これより新選組は大坂の治安維持の任に就く! 大坂を巣くう不逞の輩どもを全員ひっ捕らえよ!!」
斎藤の号令とともに、鳥羽伏見の敗戦で死にかけていた新選組隊士の目に火がともる。
「さすが新選組や!」「やっぱり頼りになるんはあんたらや!」「頼んます、街を守ってや!」
「ほんま男やわ!!」「ほんまもんの侍や!」「おおきに、おおきに……!」大坂の民衆から湧き上がる。
地鳴りのような歓喜の声援を受け、誠を背負った男たちは大坂の街を守るため散っていった。
「斎藤……かたじけないでござる」
「フン。お前に礼を言われる筋合いはない。俺たちはいついかなる時も悪・即・斬だ!
言い出したのはお前だ! 遅れをとるな!」
「心得たでござる!」
緋色と浅葱色、本来ならば決して交わるはずのない二つの影が、大阪の街を縦横無尽に駆け抜ける。
二人が次の現場に向かっていると、天満の交差点のすぐ先――八軒家の船宿『京屋』へと続く街道から、
まるで一陣の涼やかな風が吹き抜けるように、浅葱色の羽織をなびかせ、一人の青年が颯爽と姿を現した。
「……酷いなぁ二人とも。僕を置いて、そんな楽しそうな真似をするなんて」
どこか場違いなほど屈託のない、澄んだ声。黒煙の残る霧を割って現れたのは、
愛刀『菊一文字』を腰に帯びた青年、新選組一番隊組長・沖田総司であった。
「沖田君! 起き上がってきて大丈夫なのか!」あの冷徹無比な斎藤一の顔が驚愕に激しく歪み、思わず声を荒らげて一歩前に出た。
しかし沖田は、病魔に蝕まれながらも辛い顔一つせず、いつものように不敵で柔らかな微笑みを浮かべてみせた。
「斎藤さんの号令を聞きました。……治安維持。確かに新選組の存在意義はそこにある。
鳥羽伏見で何もできなかった償いに、この任、一番隊隊長として死んでもやり遂げますよ」
「沖田殿…、肺を病んでいると聞いたが」
「おやおや、人斬りに心配してもらえるなんて、贅沢な御用改めですね。でもそれには及びませんよ」
沖田は剣心の心配をよそに、愛刀の柄に手をかけた。
「牙突――旋風三段突き!!」
沖田の身体が陽炎のようにブレたかと思った瞬間、目にも留まらぬ神速の三連突きが空間を鋭く切り裂いた。
その鋭利な剣風が三方の空間に真空を生み出し、天満の街をなおも包もうとしていた残りの火災を、一瞬にして完全に消し去ってみせた。
「……!」その圧巻の神速を前に、剣心は言葉を失い息を呑んだ。
斎藤もまた、不敵にニヤリと笑いながらも、その瞳に「これぞ新選組一番隊組長」という絶対の誇りを宿らせる。
愛刀をチャキ、と鮮やかに鞘に収めた沖田は、何事もなかったかのように振り返った。
「さぁ、行きましょうか、二人とも」沖田を中央に挟み、三人は大坂の街を風のように駆け抜けた。
新選組豆知識(牙突誕生物語)
かつて壬生の狼といわれていた時代
近藤が各隊の隊長を集め合議する。
「俺たちはそれぞれ流派がバラバラだ!そこで新選組の結束を固めるために共通の技作らないか?」
「いいですね!壬生の狼に相応しい狼斬りをみんなであみだしましょう!」
「狼斬り(おおかみぎり)!?もっとマシな名前はないのかよ!」
「じゃあ狼斬り(ろうぎり)?」
「狼斬は?」
「牙突はどうだ」
「それだ!」
こうして斎藤の案が通り、それぞれ突き技の研究に励むのであった。
生真面目に突きの一撃を追求する斎藤。
突き技の連続技で最大九段突きを出す沖田。
神道無念流と合わせ敵を脳天から突き刺す永倉。
天然理心流と合わせて突きのあと旋回し、敵を細切れにする土方と近藤。
大坂の大商店街や金融街を暴徒や炎から人々を守りながら、夜頃にようやく天王寺の新選組屯所へと到着した三人。
天満でのいきさつを部下から報告された新選組副長・土方歳三が姿を現す。
土方は、浅葱色の羽織の間に立つ剣心を一瞥すると、腹を抱えて大笑いした。
「ハッハッハ! さすが天下の極悪人、人斬り抜刀斎!
我らが朝敵、賊軍になったとたん入隊希望か! 大いに結構、歓迎してやるぜ!」
「……土方殿……拙者はただ――」言葉に詰まる剣心に、
「ガハハハハハ!新人だからって遠慮することはないぞ抜刀斎!」新選組二番隊隊長・永倉新八が現れ剣心の肩に手を置く。
「みんな聞いてくれ、木津川口での軍艦の手配ができた!撤退の準備に取り掛かってくれ。」
「でかしたガムシン!あとは城に残っている近藤さんを迎えに行くだけだ。野郎ども、行くぞ!」
土方の号令で新選組一同が近藤を迎えに動き出そうとした、まさにその瞬間だった。
――ドォォォォン!!!五人の鼓膜を破らんばかりの、凄まじい大爆発音が夜空に轟いた。
地響きと共に振り返った一同の目に飛び込んできたのは、大坂城の本丸付近から天を衝くように吹き上がる巨大な火柱と黒煙だった。
「……大坂城が、爆発した!?」剣心が目を見開く。
「ちっ、上様に捨てられてトチ狂った幕臣どもの仕業か!? 近藤さんが城の中にいるんだ、走れぇ!!」
土方の鋭い怒号が響き渡る。五人の剣士たちは、燃え盛る大坂城へ向かって急ぎ駆け出した。
大坂城・本丸御殿。炎と煙が立ち込める一室へ、土方と沖田が障子を蹴破って突入する。
そこには、右肩の負傷でまともに刀も握れぬ身体でありながら、
「大坂城を死守して新政府軍を迎え撃つ!」
炎上する大阪城の中にあって、なおも必死に幕臣たちに徹底抗戦を叫ぶ新選組局長・近藤勇の姿があった。
「近藤さん。もうやめろ」土方が静かに、しかし絶対の拒絶を込めて前に出た。
「前線を見てきた俺だから言うんだ。これからは刀や槍の時代じゃねえ。大砲や鉄砲の時代だ。
今の状態でこの城に籠もっても、ただの的にされて全滅するだけだ。
……生きて江戸へ帰り、軍備を整え直して出直すべきだ」
その現実的で、かつ盟友の命を誰よりも想う土方の言葉に、近藤はガクリと膝をつき、悔し涙を床に落とした。
「新選組はまだ終わっていませんよ近藤さん」沖田が近藤の肩を抱え言う。
「近藤さんの掲げた『誠』の御旗は錦の御旗なんかに絶対に負けない!」
「総司・・歳・・」多摩の道場から長年連れ立った二人の言葉に気持ちを新たに奮起する。
「あいわかった!戦況芳しくない大坂は捨て、江戸にて再起する!
新選組全隊士に撤退の命令を下す!!」
「承知!!」副長と一番隊隊長が局長の号令に呼応する。
――その説得が裏で行われている最中。
爆発の衝撃で崩れかけた本丸の廊下や台所付近では、もう一つの修羅場が幕を開けていた。
「新政府軍に城を渡すくらいなら、すべてを灰にしてくれるわ!」「今のうちに金目のものを奪え!」
主君の脱亡に絶望し、自暴自棄になって城にさらなる火を放ち、略奪に走る幕臣や旗本、御家人衆。
旧幕府軍直参による大坂城での狼藉に、二つの影が猛然と立ちはだかる。
「城を焼いて大坂を混乱の渦に沈めることは、拙者が許さんでござる!」剣心の大きな瞳が、かつての人斬りの鋭さを取り戻す。
「国を憂うでもなく、ただの八つ当たりか。見苦しいゴミクズどもめ」斎藤一が刀を低く構え、冷酷な笑みを浮かべた。
「おいおい、俺を置いてくなよ! 景気よく暴れて近藤さんを安心させてやろうじゃねえか!」
永倉新八が愛刀を肩に担ぎ、不敵に牙を剥いた。
「邪魔をするな下郎ども!!!」数十人の暴徒たちが一斉に刃を剥いて襲いかかる。
ガキィン!!!剣心の刀が、先頭の男の刀を容赦なく叩き折る。
「飛天御剣流――双龍閃!」抜刀術からの連続攻撃が、次々と男たちの武器を弾き飛ばし、意識を刈り取っていく。
「悪・即・斬――牙突一式!」その横を、斎藤の身体が滑るように疾走する。
「幕臣のお偉方、根性見せろよ!牙突――神道無念流式!!」さらに背後から飛び出した永倉新八が凄まじい剛剣を唸らせた。
三人の剣劇が荒れ狂う幕臣たちをまとめて叩き伏せ、頑丈な本丸の壁へと豪快に吹き飛ばす。
――だがその乱戦の最中。斎藤一の鋭い眼光は、隣で剣を振るう宿敵の「異変」を鋭く捉えていた。
(……何だ、あの太刀筋は)斎藤は心の中で舌を巻くと同時に、強烈な違和感に眉をひそめた。
襲いかかる暴徒の群れを次々と地に伏せさせていく抜刀斎。
その神速の身のこなしは間違いなく本物だ。だが、その剣には「致命の冴え」が決定的に欠けていた。
長州の影を支えた最強の人斬りならば、一太刀ごとに首を撥ね、血の海を作っているはず。
しかし、今の抜刀斎の剣は、当たる直前でわずかに軌道を変え、あるいは刀身を傾け、すべて「峰打ち」か「柄頭での打撃」で敵の戦闘不能だけを狙っている。
剣心はまるで、一人も殺さぬと心に決めているかのように動いていた。
「血統書付きの直参が見苦しいにもほどがあるぜ」
永倉が切った啖呵と共に、大坂城の大廊下に撃ち臥せる暴徒の上で三人は刀を鞘に納める。
ピクリとも動けず床に転がる直参たちであったが、まだ息があった。
「狂ったか、抜刀斎。戦場で敵を生かすなど、ただの自殺行為だ。
……それとも、その生ぬるい剣が、貴様の目指す『新時代』の答えだというのか」
斎藤の冷徹な観察眼で宿敵の『流浪人への兆し』を見抜いていた。
「言ったはずでござる。拙者は一人でも多くの者が新時代を迎えられるようにここに来たと」
チッっと舌打ちを鳴らす斎藤の横で
「よっ!千両役者!」永倉が笑いながら膝を打った。
それぞれの信念が交錯する中、本丸の廊下には静寂が戻った。
そして彼らは延焼を最小限に抑え、城内に残された人々を無事に城から脱出させることに成功したのである。
一月九日の夕暮れ。大坂城を背に、近藤・土方・沖田を乗せた第一便の軍艦が、大坂を後にして江戸へと出発しようとしていた。
木津川口の波止場。タラップを上がろうとする彼らの背中を見送りながら、剣心はふと、心に生じた問いを口にした。
「お主たち。江戸に戻ったら、また新政府軍と戦うでござるか?
この二日間のようには、我々と共に歩む道を考えては――」その言葉を遮るように土方が吠える。
「しゃらくせえ!!!」そしてニカっと笑いながら剣心を睨み返す。
「新時代大いに結構! だがな抜刀斎、てめえら小賢しい薩長の作る国は御免こうむる!
新しい国を作るってんなら、俺ら自身の手で作らあ!!」
土方の未来の瞳には、まだ見ぬ北の大地、函館・五稜郭の共和国の景色がはっきりと映っているようだった。
「そういうことだ、相容れないものは、どこまでいっても相容れねえのよ」
船の甲板から近藤勇が静かに、しかし重みのある声で土方の言葉を継いだ。
その横では、沖田が「僕は緋村さんのこと嫌いじゃないですけどね~」といつもの悪戯っぽく肩をすくめている。
押し寄せる時代の波に逆らい、己の誇りのために死地へと戻っていく漢たち。
汽笛の音と共に動き出した軍艦は、夕闇の海へと消えていった。剣心はその白波を、ただじっと見つめていた。
そして、翌日の一月十日。残る大坂の動乱を対処し、平静を取り戻した同じ木津川口の波止場に、
後発組の斎藤一と永倉新八、そして緋村剣心の姿があった。
永倉新八がニカッと豪快に笑いながら剣心に声をかける。
「儂らは江戸、お前は花の都だな。末はどんなお大臣様になるのかねえ、抜刀斎」
「拙者は政府に入る気など毛頭ござらん。流浪人にでもなって、今日のように目の前の人々を守るだけでござる」
剣心の迷いのない答えに、永倉は少し意外そうな顔をした後、嬉しそうに目を細めた。「ほう、見直したぜ抜刀斎」
そんな永倉と斎藤の隣に立ち、剣心はまっすぐにその横顔を見つめた。
「……どんな時代になっても、市井を守る狼の牙は必要でござる。くれぐれも、死に急ぐようなことはしないでくれ」
昨日は土方たちに突き放されたが、心からの願いを同じように述べる剣心。
斎藤一は冷徹な、しかしどこか満足げな笑みを浮かべてタバコに火をつけた。
「ふん。言われずとも、俺の『悪・即・斬』は死なん。貴様こそ、その生ぬるい考えで、いつまで生き残れるか見ものだな」
二人は背を向け、軍艦のタラップを上がっていく。
飛沫を上げて大坂を遠ざかる軍艦の船内。
客室の窓から去りゆく大坂の夜景を眺めながら、永倉新八はぽつりと、心の内を吐露するように呟いた。
「わしは大砲の打ち合う戦場なんかより、刀一本で命を懸ける世界が好きだった。
……抜刀斎が言ったように、儂も流浪人にでもなろうかねえ。お前はどう思う、斎藤?」
暗闇の中で煙草の煙をふうっと吐き出しながら、斎藤一の鋭い眼光が夜の海を射抜く。
「フン……俺の矜持は、いついかなるときでも『悪・即・斬』ですよ」
組織がどうなろうと、時代がどう変わろうと、己の信念は牙の如く研ぎ澄まされたまま変わらない。
斎藤の静かな、しかし絶対の覚悟がこもった言葉に、永倉はフッと笑って目を閉じた。
九日と十日に分かれた船出は、その先短い生涯を終えることになる近藤、土方、沖田。
激動の明治を永く生き抜くことになる斎藤、永倉の分かれ道のようであった。
新選組の軍艦が大坂の海を出立したのと、まさに時を同じくして。
ようやく兵庫の津からの進軍を終えた長州軍主力――山県狂介の本体が、息を切らせて大坂へとたどり着いた。
「緋村! お前のおかげで大坂、思ったより平穏だな。暴徒どもに焼き払われているかと肝を冷やしたが……
よくぞ一人で持ちこたえてくれた」思いのほか静けさを取り戻している大坂の街を見渡しながら、剣心に感嘆の声をかける。
しかし、剣心は静かに首を振ると、軍艦が消えていった水平線の先を愛おしそうに見つめた。
「いえ、拙者一人の力ではござらんよ。この街には、最後まで己の誠を尽くして治安を守った、
不器用で熱い武士たちがいたのでござる」
「まさか、あいつらと共闘したとは言わんよな?」山県が怪訝そうに眉をひそめる。
「さて、どうだったのでござろうか?」
海の向こうへ消えていく黒煙を、並んで見つめる剣心と山県であった。
激動の三日間の余韻に浸り、静かな感動が二人を包み込もうとした、まさにその時――。
「……ところで緋村。儂の愛馬はどこに繋げてある?」山県の至極もっともな言葉に、剣心はハッと我に返り、
周囲をキョロキョロと見回した。天満から天王寺、そして大坂城の修羅場を駆け抜ける中で、馬の存在を完全に忘れていたのだ。
「おろ!? そういえば……どこかで道草でも食っているのでござらんか!?」
「貴様! まさか人の愛馬をそこらで乗り捨てたのではあるまいな!!」
大坂の空に、再び山県の怒号が木霊した。
――後日。天満付近の空き地で、むしゃむしゃと、
文字通り暢気に「道草」を食っていた山県の愛馬が無事に見つかり、心の底からほっと一息つく剣心であった。
慶応四年、二月。
新政府軍の大阪統治を見届け、剣心と山県は京都の長州藩邸に赴いた。
屋敷の奥で待っていたのは、長州の指導者・桂小五郎――いや、新政府の参与として名を改めた「木戸准一郎」であった。
「よくぞ来てくれた、山県、そして……緋村」
木戸はやつれた顔に安堵の笑みを浮かべ、二人を迎え入れた。
「桂さん… いや、木戸先生。お怪我はございませぬか」
「私は無事だ。抜刀斎……、いや、緋村剣心。
お前の血刀の先にあるという誰もが笑える未来。もうすぐ見られそうだな」
「はい。拙者、そのために馳せ参じたでござる!」
まだ慣れる改名の中、言葉を交わす二人に、山県が横から冷ややかに口を挟む。
「木戸先生。江戸へ逃げた徳川をどうする。我ら長州本隊は、すぐにでも東へ向かう準備があるぞ」
木戸は山県を見据え、厳かに告げた。
「焦るな、山県。薩摩の西郷君とも話し合ったが、我々はこれより『東征軍』を組織し、東海道、東山道、北陸道の三方から江戸へ向けて進軍する。
先駆けは鳥羽伏見に出遅れた面目躍如か、土佐の板垣君らが買って出てくれた。
さらに江戸城攻略の前には、名古屋や紀伊と言った御三家の調略も残っている。江戸への総攻撃となれば早くて三月だ。
山県、お前は一度長州に戻り、諸隊をまとめた大大隊を編成し、最終決戦の準備をしてくれ」
「応、望むところだ」山県の目が、軍人としての鋭く光る。
「そして、抜刀斎」木戸の視線が、再び部屋の隅に佇む剣心へと向けられた。
「幕府軍は敗走したが、京には新選組の残党や見廻組の生き残りが、未だに洛中の暗がりに潜み、新政府の役人を狙っている。
政府の人間だけではなく、大坂のように京の市井の人々を守ってくれ」
「心得たでござる」
東征の作戦会議が終わり、剣心が部屋を出ようとしたまさにその時、
藩邸の廊下から「あー、疲れた!」「もうクタクタじゃ!」と、だらしない声が響き、二人の男が部屋に転がり込んできた。
のちの初代総理大臣・伊藤俊輔(博文)と、初代外務大臣・井上聞多(馨)である。
「桂さん! じゃなくて木戸先生!聞いてくださいよ!
兵庫の港で備前(岡山)の奴らがフランスの水兵と撃ち合いなんか始めおって!
フランス公使のロッシュは真っ赤になって怒るわ、英国公使のパークスを巻き込むわで、もうめちゃくちゃですわ!」
「全くだ! 英語ができるからって、俺と俊輔ばかり最前線に放り込みやがって。
フランス公使の野郎、やたらと早口のフランス語でまくし立てるから、何を言ってるかさっぱり分からん! 通訳を挟む暇もありゃしねえ!」
剣心達が新選組の船出を見送り、大坂の平定作業をしていた一月十一日、伊藤と井上は三田尻からイギリス船に乗り神戸へと着いていた。
そこで新政府軍側に着いた備前藩の兵の前をフランス軍が横切ったことで発砲騒動となり、神戸が一時フランス軍に占領されていたのであった。
それを伊藤と井上が持ち前の英語力で必死にイギリスに介入を求め、なんとかフランス軍を神戸から撤退させることに成功した。
泥だらけの羽織を脱ぎ捨て、愚痴をこぼしながら畳にひっくり返る二人を見て、木戸は困ったように、しかし愛おしそうに笑った。
「ははは、すまなかったな、俊輔、聞多。鳥羽伏見が片付いたと思えば、今度は神戸でフランス軍相手の外交工作か。
新政府の外国事務は、英国留学を経験したお前たち二人がいなければ1日も持たん。実によくやってくれた、感謝するよ」
山県「フンっ、相変わらず大袈裟だな、お前たちは。
大坂の我々とて、いつ爆発するか分からん火薬庫の真上で暴徒相手に命を張っていたのだぞ。
それに比べれば、毛唐(外国人)相手に口喧嘩をするなど、お気楽なものではないか」
「何だと狂介! 言わせておけば、軍人はこれだから野蛮で困る! 剣を振り回すより、国際条約を盾に化け物みたいな英国公使と怒鳴り合う方が、遥かに寿命が縮むわい!」
「まあ、お前が大坂の火を消して神戸まで火の子を散らさなかったら、俺たちも交渉がしやすかったのは事実だ。お互い様さ」
「そうそう! 終わり良ければすべて良し、だ!
木戸さん、せっかく長州の身内がこれだけ揃ったんだ。今夜は神戸の美味い牛肉でも突つきながら、一献奢ってくださいよ!」
「これこれ、まだ仕事は山積みだぞ。……まあ良い、今夜ばかりは長州の男児の意地を見せたお前たち全員に、とびきりの酒を振る舞うとしよう。
緋村、お前も今夜だけは付き合え」
「かたじけないでござる。ご相伴にあずかるでござるよ」
「そりゃあいい!パークスから神戸でもらった肉があるんで牛鍋パーティーと行きましょう」
伊藤が後の神戸牛を風呂敷から見せ目を輝かせる。
その時、部屋の障子がバンッ!と凄まじい勢いで蹴破られた。そこに立っていたのは、返り血と硝煙で泥だらけになった軍服をまとい、
般若のような形相をした小柄な青年――長州軍・京口先鋒総指揮の山田市之允(顕義)であった。
「……揃いもそろって来るのが遅いんですよ!!
鳥羽・伏見で、たった一人で旧幕府軍の一万五千を相手に大砲をぶっ放し、寝る間も惜しんで戦線を支え続けたのは、この俺(山田)ですよ!!」
山県:「お、おい市之允、落ち着け。人聞きが悪いぞ、こっちも寝る間もなく下関から大坂まで……」
山田:「山県さん! こっちは鳥羽・伏見の初戦から御所の守備まで、休む暇もありゃしなかったんだ! 挙句の果てに、戦が終わってようやく息が抜けると思ったら、
俊輔さんと聞多さんは神戸でフランス軍と撃ち合いを始めて国際問題を起こすわ!右を向いても左を向いても、長州の先輩方は揃いも揃って破天荒が過ぎるでしょうが!!」
日頃は冷静沈着な天才軍師の、あまりに正論すぎる大爆発に、のちの初代総理(伊藤)、初代外相(井上)、陸軍大将(山県)の全員が、借りてきた猫のように小さくなって正座した。
「緋村、お前もだ。大坂の治安を守ったのは褒めてやるが、
山県さんの馬を放り出したせいで、僕のところまで『馬を探せ』って憲兵から連絡が来たんだぞ!」
「おろろろ……! 山田殿、それは本当に面目ないでござる……。」剣心も山田には頭が上がらないのであった。
木戸すらも、この剣幕に苦笑いしている。
「す、すまなかった、市之允。お前が鳥羽伏見で完璧に幕軍を押し戻してくれたからこそ、我々はこうして錦の御旗を掲げて新時代を始められたのだ。
……お前の大功、この木戸、終生忘れん。本当に……一人でよく頑張ってくれた」
木戸から最上級のねぎらいを受け、山田は「ふん」とそっぽを向くと、ドカッと畳に腰を下ろした。
「……まあ、木戸さんに免じて今回は許します。ですがね、今夜の牛肉と酒は、僕が一番高いやつを一番多く食べますからね! 」
そうして、木戸・井上・伊藤・山県・山田、そして剣心という豪華な面々が一同に会し牛鍋を囲む。
さらにこの後、もう二人登場し、長州オールスターが勢揃いすることになる。
長州藩邸の宴席は、酒が進むにつれてますます賑やかさを増していった。
「なあ木戸先生、聞多さんばかりずるいですわ!
俺だって英語ができるし、高杉さんの決起に伊の一番に駆け付けたの僕ですよ。
俺も早く『参与』に役職を上げてくださいよ!」
酒で顔を真っ赤にした伊藤俊輔が、木戸の袖を引っ張りながらくだを巻き始めた。
『参与』という言葉に山県の目も光る。
「高杉さんから奇兵隊を引き継いだのは儂です!東征後の暁には儂にも推挙を」
「何言ってるんですか!鳥羽伏見第一の軍功第一は紛れもなく私山田市之允!私にも!!」
三人に言い寄られ困り顔の木戸。
「……ずいぶんと景気がよろしいようですな」
スッと襖が開き、暗がりから、まるで氷水をぶっかけられたような、平坦で冷徹な声が響いた。大きすぎるおでこに、鋭い眼光。
長州軍の総司令官から新政府の軍務官副知事となった――大村益次郎である。
「国家の命運がかかった東征の直前に、役職の品定めですか。
参与というものが、酒の肴になるほど軽いものとは知りませんでした」
大村の登場に山県と伊藤、そして山田の顔が青ざめる。
しかし、大村の襲来はほんの「前座」に過ぎなかった。
大村が静かに一歩下がると、その背後から、まばゆいばかりの品格をまとった一人の若き貴公子が姿を現した。
長州藩の世子、つまり彼らにとっての絶対の主君――毛利定広である。
木戸を囲って我先にと参与を言い合っていた三人が剣心以上の神速で平伏す。
「……大村、そう堅いことを言うな。皆、大坂に京都に神戸にと、実によく働いてくれた。
木戸、良い宴ではないか。私も混ぜてはくれぬか?」
鈴の鳴るような澄んだ声で定広が微笑んだ。
「こ、これは定広様……! 拝顔の栄を賜り、恐悦至極に存じ上げます! 」
木戸は上座を定広に譲り、仰々しく定広の持った盃に酒を注ぐ。
盃を手に、定広は平服する皆の前で告げる。
「皆の者、面を上げよ。
まず、木戸、そして顕義。鳥羽・伏見の戦い、見事であった。
あの時、我が藩はまだ『朝敵』の汚名を着せられたままであったというのに、
お前たちは一歩も退かず、新政府の先鋒として旧幕府の大軍を打ち破ってくれた。
木戸が京の都で諸藩をまとめ、顕義が戦場で鮮やかに指揮を執ったからこそ、
我が長州の無実が証明され、新時代の扉が開いたのだ。その功績、まことに天晴れである」
「ははっ、身に余るお言葉にございます!」
弱冠二十三歳の山田顕義が、胸を熱くして深く平伏する。木戸もまた、静かに目頭を熱くしていた。
「そして、狂介、緋村。
すぐさま大坂へ兵を進め、速やかにこれを平定した働き、見事であった。
大坂は天下の台所であり、ここが乱れれば新政府の足元が崩れる。
大坂の街を狼藉者や大火から守り、治安を維持できたからこそ、
朝廷も我らも安心してこれからの東征へ兵を向けることができる。
そなたたちの軍功、深く感謝する」
「……もったいなきお言葉にござる」思わず声を震わす剣心。
「これからの東征、命に代えても成し遂げてご覧に入れます!」山県も目に熱い物を滲ませ応える。
「最後に、俊輔、聞多。
よくぞ神戸の危機を救ってくれた。
鳥羽・伏見の戦いで勝利し、大坂を平定したまでは良かったが……
まさかその直後に、外国軍による神戸占領というこれほどの国難が待ち受けていようとはな。
新政府が産声をあげたばかりのこの脆い時期に、一歩間違えれば日本は異国に呑まれておった。
それを、お前たちの言葉と度胸だけで、見事に戦を止め、解決へと導いてみせた。
実に見事な働きであった。長州の誇りである」
「定広様……!」
井上と伊藤の目は涙でいっぱいである。
「皆、本当によくやってくれた。
久坂に高杉。そしてなにより、松陰先生。
今宵のそなたたちを天国から誇らしげに見ていることであろう」
長州藩世子の有難いお褒めの言葉と、その口から出た名前に、面前の一同の涙は止まることがなかった。
「では、改めて。
長州の、いや、新政府の輝かしい門出に――乾杯!」
「はは――!!!」
定広の祝杯に長州藩邸から今日一番の歓声が上がった、
「やれやれ、酒は一人二合までと言いたいところですが、今夜だけは、特別に三合まで許可しましょう」
座敷の奥でしぶしぶ盃を手に取る大村であった。
激動の(?)長州藩邸での宴席から数日後。
(拙者の……『人斬り抜刀斎』としての役目は、これで終わった……)
鳥羽伏見の戦後処理が終わり、ようやく平静を取り戻しつつある京都。
その片隅で、一人静かに剣を鞘に収める緋村剣心の姿があった。
「京を発つのか、緋村」木戸(桂小五郎)が手元の書類から目を離し、ぽつりと呟いた。
部屋の隅に佇む緋村は、ただ静かに首を縦に振る。
「はい。幕軍の残党も去り、京は平穏を取り戻しました。しかし官軍と幕軍の戦は、これから全国で展開されるはず。
その戦禍で苦しむ人々を、拙者――官軍ではなく、一人の流浪人として守っていきたいでござる」
木戸はその瞳を見て、息を呑んだ。かつて京都の暗夜で、冷酷に人を斬り続けていたあの「死人の目」は、もうそこにはなかった。
かつて下関で、坂本や高杉、そして文蔵たちと交わした未来への「光」が、その瞳の奥に、確かな己の意志として灯っている。
「だが緋村、山県は江戸城決戦の切り札として君に期待をかけている。ここで君に抜けられては……」
「木戸さん」剣心は木戸の言葉を、静かに、しかし断固とした力強さで遮った。
「新時代を呼び込むための影の役目は、これで終わりでござる。
拙者はこれまで、新時代のためにと大義を掲げ、多くの人の命と、その向こうにある幸福を奪ってきた。
……これ以上、誰かの命令で人を殺めることは、拙者の魂が、そして……巴殿が許さぬのでござるよ」
「……っ」巴の名が出た瞬間、木戸は言葉を失った。
彼女と剣心を結びつけ、夫婦として暮らさせたのは他でもない、木戸自身である。
そして近江の庵で、巴の亡骸を抱いて打ちひしがれていた剣心を、再び戦へと駆り立てたのもまた、木戸自身だったのだ。
「お前には……あまりに重い業を背負わせてしまったな……」
絞り出すような木戸の言葉を受け止め、剣心はゆっくりと腰の刀に手を添え、真っ直ぐに見つめ返した。
「拙者は、木戸さんや山県さん、そして高杉さんや坂本さんが命を懸けて創ろうとした新時代を、決して否定はせぬ。
……ですが拙者はこれより、刀を『人を活かす道具』へと持ち替え、己の犯した罪を償うために歩みたいのでござる。
大義という大きな国のためではなく、拙者の目の届く範囲の、名もなき小さき人々の笑顔を守るために。
それが、拙者の見出した『正義』でござる」
部屋を通り抜ける冷たい夜風が、剣心の緋色の髪を揺らす。
かつて長州の奇兵隊屯所で、ただ鋭い眼光を放っていた少年は、木戸の想像を遥かに超えて、強く、気高い一人の「武士」へと成長していた。
木戸は深く、深く溜息を吐き出し、自嘲気味に微笑んだ。
「……ふふ。大義名分でしか人を動かせぬ私に比べ、君はなんと、遥かに気高い答えに辿り着いたのだな。
分かった、緋村。君の行く道を、私はもう止めはしない。山県には私の方から上手く報告しておこう」
そこで言葉を区切り、木戸は政治家ではなく、一人の「兄」のような眼差しで剣心を見た。
「ただ……生きてくれ。君が戦場を離れ、ただの流浪人として、誰もが笑える世界を歩んでくれること……
それだけが、君を地獄へ突き落としたこの私の、唯一の救いになるのだから」
「かたじけない、木戸さん。……御一新の光、頼んだでござる」
剣心は深々と一礼すると夜の闇へと消えていった。
人を守る生き方を模索し、一人京の郊外を歩む剣心。
「探したぜ、抜刀斎!」剣心を呼び止めるその声の主は、希代の殺人奇刀匠と名高い新井赤空である。
赤空はその不敵な面構えに笑みを浮かべ、腰から一本の不気味な刀を抜いてみせた。「倒幕の仕上げに相応しい、最高の一本を打って持ってきてやったぜ!」
赤空の手に握られていたのは、刃に刻まれた無数の細かい鋸刃が、敵の脂を吸ってどこまでも燃え上がるという凶器――のちに志々雄真実が手にする「無限刃」であった。
しかし、剣心はその殺気を帯びた刀身を見つめ、静かに首を振った。「赤空殿。申し訳ないが……その刀は受け取れぬでござる」
「あん? まだ鳥羽・伏見で勝っただけだ。維新回天の戦さはこれからだってのに、刀も持たずにどこへ行くつもりだ?」
「木戸…桂さんからは、すでに許可を貰っています。拙者はこれから……もう二度と人を斬ることなく、新時代に生きる人々を守る道を探すつもりでござる」
「フッ、ハハハ! 人を斬りまくった抜刀斎が、人を斬らない道だと? そんな綺麗事の道があるなら、是非俺にも教えてもらいたいねえ」
刀匠と人斬り。共に剣の深淵に生きた者同士、多くを語らずとも互いの魂の奥底は察し合えるものがあった。
赤空は自嘲気味に鼻で笑うと、無限刃を収め、代わりに背負っていた袋から、もう一振りの布に包まれた刀を無造作に投げ与えた。
「おい、これを持っていけ」受け取った剣心が布を払うと、現れたのは奇妙な構造の刀であった。
刃と峰が逆に打たれた、人を決して斬ることのできない構造。「……これは、刃と峰が逆に……?」
「刀を人殺しの道具ではなく、人を活かすための道具に、か。
……お前がその抜けた寝言を本当に貫き通せるか、その玩具で見届けさせてもらうぜ」
赤空のぶっきらぼうな期待を胸に、剣心はその刀を深く腰へと差した。
かつて時代を血で染めた天才暗殺者は、刀を「逆刃刀」へと持ち替え、己の犯した罪を償うため、そして今度こそ大切な人々を守るため、
ただの「流浪人」となって新時代の雑踏へと歩み出すのであった。
『るろうに剣心誕生編』――終幕。




