第76話:常識はサーバーごとに設定が違う
俺くんブチ切れ回です。
「しーくん、これ、宛名だけ手書きでお願いできる?」
実家に顔を出した俺は、母から一枚の封筒を渡された。
封筒。
宛名。
手書き。
この三点セットを見た時点で、俺の脳内には業務用アラートが点灯した。
――なるほど。
これは、ただの住所記入ではない。
相手は、昔から結城家の商売を支えてくれた取引先だった。
祖父の代から付き合いがあり、親父が頭を下げ、酒を飲み、時には無茶を聞き、時には無茶を聞かせ、そうやって繋いできた相手である。
だが、もうその関係は畳むことになっていた。
正直、親父がいない状態で維持できる取引ではない。
大口だった。
惜しくないと言えば嘘になる。
だが、維持できないものは維持できない。
無理に抱えれば、最後に壊れる。
だからせめて、最後くらいは礼を通す。
印刷ではなく、宛名だけは手書きにする。
古い。
面倒。
効率が悪い。
だが、そういう非効率にだけ宿る礼儀というものがある。
俺は封筒を受け取り、母が差し出したペンを見た。
マイネームペンだった。
「……これ?」
「これしかないのよ」
終わった。
俺は心の中で静かに合掌した。
マイネームペンは、名前を書く道具である。
それも、上履きとか、体操服とか、雑巾とか、そういう人生の序盤装備に向けた道具である。
少なくとも、長年の取引先に向けた宛名を書くための筆記具ではない。
とはいえ、ないものは仕方ない。
俺は息を整えた。
紙質を確認する。
ペン先の太さを確認する。
滲みを想定する。
字間を広めに取る。
住所はやや小さく、名前は大きく。
社名の重心は中央。
役職名は詰めすぎない。
よし。
やるしかない。
「……ふぅ」
俺が一文字目を書き始めた、その時だった。
横から声が飛んできた。
「もうちょっと丁寧な字で書けないの?」
叔母だった。
俺の手が止まった。
室内の空気も止まった。
俺は一度、封筒を見た。
次に、マイネームペンを見た。
最後に、叔母を見た。
「……このペンで?」
「だって、相手に出すものなんだから」
「このペンで?」
俺はもう一度言った。
叔母は少しだけ眉をひそめた。
「だから、もう少し丁寧に――」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
いや、正確には切れたのではない。
切れたように見えた最後の一本は、実際には、昔から何本も何本も積み重なっていた導火線の末端だった。
「うるせぇな」
声が低く出た。
母が「ちょっと」と言いかけたが、俺は止まらなかった。
「じゃあ、あんたが書けよ」
叔母が固まる。
「自分で書かない。道具も用意しない。作業もしない。でも横から文句だけは言う。何様だよ」
「そんな言い方――」
「俺、毛筆四段だけど?」
室内がさらに静かになった。
俺はマイネームペンを持ち上げた。
「俺より綺麗に書けるなら書いてみろよ。このマイネームペンで。書けるんだろ? 丁寧に。相手に失礼じゃない字で」
叔母は黙った。
俺は続けた。
「これはな、字が綺麗か汚いかだけの話じゃないんだよ。印刷で済ませられるものを、あえて手書きにしてる意味があるんだよ」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
俺は、ただ字のことで怒っているのではなかった。
父が繋いできたもの。
祖父が続けてきたもの。
もう維持できないと判断したもの。
それでも最後に礼を通そうとしているもの。
それを、横から何も知らない顔で踏まれた。
俺はそれに怒っていた。
「この家の中ではどうか知らん。でも外に出したら、こういうのは礼節なんだよ。全部印刷で済ませればいいってもんじゃない。相手の世代、関係性、畳み方。そういうのを考えてやってんだよ」
叔母は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
少しして、ぼそりと言った。
「……まあ、そのペンじゃ書きづらいわよね」
遅い。
遅すぎる。
俺は心の中で思った。
そういう話は、文句を言う前に出せ。
叔母はさらに小さな声で言った。
「はいはい。書けもしないのにすみませんねぇ」
勝った。
いや、勝ち負けではない。
勝ち負けではないのだが、俺の脳内では勝利ファンファーレが鳴っていた。
その後、俺は残りの宛名を書き終えた。
一枚だけ、裏面に少し滲んだ。
気になった。
めちゃくちゃ気になった。
正直、俺個人の美意識としては書き直したい。
だが、これは作品ではない。
これは礼儀である。
そして礼儀としては、十分に成立している。
俺は封筒を並べながら、ふと思った。
常識とは何だろうか。
結城家には結城家の常識がある。
堂条家には堂条家の常識がある。
会社には会社の常識がある。
業界には業界の常識がある。
親族には親族の常識がある。
そして人は、自分がいる場所の常識を、つい世界の標準設定だと思い込む。
だが違う。
常識とは、絶対ルールではない。
サーバーごとの設定である。
結城家サーバーでは、波風を立てないことが正義かもしれない。
堂条家サーバーでは、合理性と火力が正義かもしれない。
会社サーバーでは、相手への礼節と段取りが正義かもしれない。
ならば必要なのは、常識に縛られることではない。
今、自分がどのサーバーに接続しているかを理解することだ。
俺は封筒を母に渡した。
「これでいいよ」
母は少し困ったように笑った。
叔母は何も言わなかった。
俺は心の中で呟いた。
常識は存在する。
ただし、サーバーごとに設定が違う。
そして今日、俺は久しぶりに、結城家サーバーの地雷原で爆発した。
なお、使用武器はマイネームペンだった。
普段は自分の能力(毛筆何段等)を自慢したりしない
俺くんもあまりの叔母の無知っぷりにブチ切れた回でした。




