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俺の上司が凄すぎて自称天才エンジニアの俺がポンコツに見える件  作者: 慧梓
第6章結城家帰省編

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第76話:常識はサーバーごとに設定が違う

俺くんブチ切れ回です。

「しーくん、これ、宛名だけ手書きでお願いできる?」


実家に顔を出した俺は、母から一枚の封筒を渡された。


封筒。


宛名。


手書き。


この三点セットを見た時点で、俺の脳内には業務用アラートが点灯した。


――なるほど。

これは、ただの住所記入ではない。


相手は、昔から結城家の商売を支えてくれた取引先だった。

祖父の代から付き合いがあり、親父が頭を下げ、酒を飲み、時には無茶を聞き、時には無茶を聞かせ、そうやって繋いできた相手である。


だが、もうその関係は畳むことになっていた。


正直、親父がいない状態で維持できる取引ではない。

大口だった。

惜しくないと言えば嘘になる。


だが、維持できないものは維持できない。

無理に抱えれば、最後に壊れる。


だからせめて、最後くらいは礼を通す。


印刷ではなく、宛名だけは手書きにする。


古い。

面倒。

効率が悪い。


だが、そういう非効率にだけ宿る礼儀というものがある。


俺は封筒を受け取り、母が差し出したペンを見た。


マイネームペンだった。


「……これ?」


「これしかないのよ」


終わった。


俺は心の中で静かに合掌した。


マイネームペンは、名前を書く道具である。

それも、上履きとか、体操服とか、雑巾とか、そういう人生の序盤装備に向けた道具である。


少なくとも、長年の取引先に向けた宛名を書くための筆記具ではない。


とはいえ、ないものは仕方ない。


俺は息を整えた。


紙質を確認する。

ペン先の太さを確認する。

滲みを想定する。

字間を広めに取る。

住所はやや小さく、名前は大きく。

社名の重心は中央。

役職名は詰めすぎない。


よし。


やるしかない。


「……ふぅ」


俺が一文字目を書き始めた、その時だった。


横から声が飛んできた。


「もうちょっと丁寧な字で書けないの?」


叔母だった。


俺の手が止まった。


室内の空気も止まった。


俺は一度、封筒を見た。

次に、マイネームペンを見た。

最後に、叔母を見た。


「……このペンで?」


「だって、相手に出すものなんだから」


「このペンで?」


俺はもう一度言った。


叔母は少しだけ眉をひそめた。


「だから、もう少し丁寧に――」


その瞬間、俺の中で何かが切れた。


いや、正確には切れたのではない。


切れたように見えた最後の一本は、実際には、昔から何本も何本も積み重なっていた導火線の末端だった。


「うるせぇな」


声が低く出た。


母が「ちょっと」と言いかけたが、俺は止まらなかった。


「じゃあ、あんたが書けよ」


叔母が固まる。


「自分で書かない。道具も用意しない。作業もしない。でも横から文句だけは言う。何様だよ」


「そんな言い方――」


「俺、毛筆四段だけど?」


室内がさらに静かになった。


俺はマイネームペンを持ち上げた。


「俺より綺麗に書けるなら書いてみろよ。このマイネームペンで。書けるんだろ? 丁寧に。相手に失礼じゃない字で」


叔母は黙った。


俺は続けた。


「これはな、字が綺麗か汚いかだけの話じゃないんだよ。印刷で済ませられるものを、あえて手書きにしてる意味があるんだよ」


言いながら、自分でも少し驚いていた。


俺は、ただ字のことで怒っているのではなかった。


父が繋いできたもの。

祖父が続けてきたもの。

もう維持できないと判断したもの。

それでも最後に礼を通そうとしているもの。


それを、横から何も知らない顔で踏まれた。


俺はそれに怒っていた。


「この家の中ではどうか知らん。でも外に出したら、こういうのは礼節なんだよ。全部印刷で済ませればいいってもんじゃない。相手の世代、関係性、畳み方。そういうのを考えてやってんだよ」


叔母は口を開きかけたが、言葉が出なかった。


少しして、ぼそりと言った。


「……まあ、そのペンじゃ書きづらいわよね」


遅い。


遅すぎる。


俺は心の中で思った。


そういう話は、文句を言う前に出せ。


叔母はさらに小さな声で言った。


「はいはい。書けもしないのにすみませんねぇ」


勝った。


いや、勝ち負けではない。


勝ち負けではないのだが、俺の脳内では勝利ファンファーレが鳴っていた。


その後、俺は残りの宛名を書き終えた。


一枚だけ、裏面に少し滲んだ。


気になった。


めちゃくちゃ気になった。


正直、俺個人の美意識としては書き直したい。


だが、これは作品ではない。

これは礼儀である。

そして礼儀としては、十分に成立している。


俺は封筒を並べながら、ふと思った。


常識とは何だろうか。


結城家には結城家の常識がある。

堂条家には堂条家の常識がある。

会社には会社の常識がある。

業界には業界の常識がある。

親族には親族の常識がある。


そして人は、自分がいる場所の常識を、つい世界の標準設定だと思い込む。


だが違う。


常識とは、絶対ルールではない。


サーバーごとの設定である。


結城家サーバーでは、波風を立てないことが正義かもしれない。

堂条家サーバーでは、合理性と火力が正義かもしれない。

会社サーバーでは、相手への礼節と段取りが正義かもしれない。


ならば必要なのは、常識に縛られることではない。


今、自分がどのサーバーに接続しているかを理解することだ。


俺は封筒を母に渡した。


「これでいいよ」


母は少し困ったように笑った。


叔母は何も言わなかった。


俺は心の中で呟いた。


常識は存在する。


ただし、サーバーごとに設定が違う。


そして今日、俺は久しぶりに、結城家サーバーの地雷原で爆発した。


なお、使用武器はマイネームペンだった。

普段は自分の能力(毛筆何段等)を自慢したりしない

俺くんもあまりの叔母の無知っぷりにブチ切れた回でした。

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