第一章──拗隠の国
《プロローグ》
犲という狡狗はポツンと立っていた。今しがたまで一緒だった錫雅尊はもういない。白の国への抜け穴を求めて邪身玉となって飛んで行ったのだ。
「旦那…絶対助かってくださいにゃ!…あぁ…この気持ち──なんという清々しい気持ちでしょう…。これも旦那のおかげですにゃ…。オレ様がもし生まれ変わることができれば、この改心した気持ちのまま生まれてきたいもんですにゃ…」犲という名の狡狗の目に初めて涙が溢れた。
第一章──拗隠の国
「オレ様は狡狗にゃ…………なのに涙が…?────こんなものがオレ様にあったとは…」それからも時間を忘れて立ち尽くしていた犲は、今まで一度も感じたことのない違和感を抱いた。「拗隠の国をこんなに居心地悪く感じたことはないにゃ…」
「そうであろう──狡狗でありながら悪心が消えてしまったのだからな…」
犲の心に誰かが語りかけた。
「誰にゃか?」
「私は拗隠の国を司る神」
「神?──そんなものがこの拗隠の国にもいるにゃか?」
「神はどこにでも存在する」
「そんな偉いお方がオレ様になんのようにゃか?」
「かつてお前のような狡狗は存在しなかった。狡狗は悪心から生じたモノだから良心を秘めてはいなかった」
「そう言われても自分でも分からないにゃ…」
「一つ聞こう──さっきお前は晶晶白露を手にして錫雅尊を邪身玉にしたな。あのときどうして晶晶白露を錫雅尊に返したのだ?そのままお前の物にもできたのに…」
「あー…あれですか…。オレ様も旦那が邪身玉になる寸前まで考えたにゃ…。あの短刀一本あれば、オレ様も小さな国の支配者になるくらい簡単だからにゃ。でもオレ様を信じて晶晶白露を手渡した錫雅の旦那を裏切ることがどうしてもできなかったにゃ…。そのとき思ったにゃ…この狡狗のオレ様にも埃くらいの良心があると…。旦那はそれを見抜いて…そして信じてくれたんだにゃ…」
「それが錫雅尊が邪身玉になる寸前に晶晶白露を返した理由か?」
「そうですにゃ。そうすると自分の中で何かが変わったのですよ。例えて言えば、今まで覆っていた黒い雲が消えて暖かい光に照らされたような感じでしょうか…」
「それでお前は錫雅尊の無事を願い──そして涙を流した…そういうことだな?」
「へい…今まで感じたことのない清々しい気持ちでしたにゃ」
「狡狗にも良心があったということか…。どのような魂でも愛する心を忘れない錫雅尊が引き出した妙技…」
「あの旦那は不思議な方だ──あのお方の側のいるとホッとする…」
「そうか…。…………ところで…悪心の消えたお前はもう狡狗ではいられない…」
「えっ!?──どういう意味にゃか?」
「悪いがお前を消さなければならない」
「消されてしまうにゃか?」
「そうだ…狡狗は本来邪神の塊──その邪神が消えたお前は狡狗ではいれらないのだ」
「そうですか──ええですとも…。心が晴れた今のオレ様は何があっても動じたりせんにゃ」
「それなら話が早い──お前は違う生き物として生きることになる…」
「違う生き物…?」
「良心を得た狡狗はお前が初めてだ。違う生き物にするなど私も初めての試みだ…。何が起こるか分からんが…とにかくやってみよう」
それから一瞬光が差した。瞬時に犲という狡狗は消えた──。




