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第二章 甘い檻

 琴葉は久米に小刀で切られた頬の傷が無事に治ったことを安心しながらも、同時に萩尾の袖を引いて抱きしめてもらったという事実を思い出しては目をぐるぐる回していた。

 時間が経つと子供のように泣いて、抱きしめてもらって……顔から火が出るほど恥ずかしくなってきたのだ。


 あの時は、突然のことで目の前の状況が理解できなくて、萩尾さんを見てとても安心したというか……だからといって抱きしめてもらわなくてもよかったような。

 萩尾さんのファンの子たちに見られなくてよかった。



 あの日、萩尾は定例集会を抜けられない水澄がかわりに縁談相手がどういう人なのかを見てきてほしいと言われたらしく、近くを通ったついでに立ち寄ってくれたとのことだった。

 さらに久米が持っていた小刀が妖刀だったこともわかった。

 突然人が変わったように暴れ出した久米は所謂、あやかし化をしていたのだ。


「はぁ……」


 琴葉が見た小刀から出ていた紫色の炎。あれは、間違いなく妖炎(ようえん)だったのだ。


 なんで、いきなり見えるようになったのかな。


 無能である琴葉には今まで一度も見えたことがなかったものだった。


 何年も前、琴葉は水澄に聞いたことがある。


『水澄兄さん。通常の刀と妖刀ってどう見分けているんですか?』

『妖刀は紫色の炎を纏ってるんだよ。妖炎って言うんだけど、異能持ちはそれで見分ける。紫色の炎が人に移ってしまったら、すぐにあやかし化してしまうから対処は早い方がいいな』

『私は紫色の炎すら見えないから……本当に何も異能がないんですね』


 琴葉の何気ない言葉は水澄の表情を曇らせるだけだった。それ以来、琴葉は水澄に異能に関する話を一切していない。



「琴葉——」


 玄関先から水澄の声がして慌てて出迎えると、隣に萩尾も立っていた


「おかえりなさい。あれ、萩尾さん?」

「お邪魔します。琴葉ちゃん、ほっぺはもう大丈夫? 傷は少し残っちゃうかな」


 萩尾がさらっと自然な手つきで琴葉の頬に手を添えてきた。

 やかんが沸騰する様に似て琴葉の体温が急激に上がり、慌てて距離を取った。


「残っても大丈夫です!」

「大丈夫じゃないでしょう?」

「近いです、萩尾さん!」

「伊吹、琴葉で遊ぶな」

「遊んでないよ。今日は大事な話をしに来たんだから」

「大事な話、ですか?」

 


 琴葉が水澄と萩尾にお茶を出したあと、はい、座ってと面談されるように着席を促された。

 水澄は腕を組んで目を閉じて集中し、萩尾はテーブルに肘をついて指を組んでいた。


「あの~、なにか」

「琴葉はどうしていきなり嫁にいこうって思ったんだ?」

「包み隠さず教えてくれるかな?」

「……いったいこれは」


 琴葉は取り調べを受けるように水澄と萩尾から質問攻めがはじまった。


「怒らないから教えてくれ」

「怒る怒らないも、無能な私がこのお家にいてもごく潰しなだけでしょう? 自分にできることをしようと思って」

「出来ることっていうのは」

「私に異能はないけど、幸い家事は得意ですし……それにいつまでも水澄兄さんと萩尾さんに気を遣ってもらっているのも申し訳ないと思って」

「何度も言うけど、俺は気を遣っているつもりはないし、迷惑だと思ったこともないよ?」


 萩尾は爽やかに可愛らしく首を傾けて琴葉の顔を覗いた。


 そう、いいますよね。萩尾さんはいい人なので……さて、私が何を言っても納得しなさそうな二人になんて言えばいいのかな。


「自立! そう自立したいと思って!」

「なるほど」


 わかってくれたのかな。

 琴葉の目の前でこそこそ水澄と萩尾が話し合っていた。

 水澄の顔がだんだん強張っていくのに反して萩尾の表情は明るくなっていった。


「じゃあ、琴葉ちゃんは誰か好きな人が出来たとか、ただ結婚したいから縁談を受けることにしたというより、自立したいからお嫁に行くことにしたってこと?」

「そう、なります! ね!」

「俺はまだ早いと思うぞ!」

「ふむ……意中の相手はいないのか……——じゃあ俺のお嫁さんになるっていうのはどうかな?」

「はい?」


 今日の夕飯を訊ねるくらいの軽やかな口調で萩尾は琴葉に求婚した。

 突拍子のない提案から救いを求めるように琴葉は隣の水澄を見たが、腕を組んだまま頭をひねってぶつぶつとこぼしているだけだった。


「どこぞの馬の骨より、伊吹の方が何十倍もマシではあるか……? それが一番いいのか? いいのか……」

「水澄兄さん!?」


 萩尾の提案に納得しかけている水澄を見て、琴葉は大混乱のまま慌てて萩尾に反論した。


「待ってください! あの、私を気にかけてくれるのは嬉しいんですが、それは気の遣いすぎといいますか……よくないですよ。萩尾さんは私みたいな無能な子より、もっと力が、あって、可愛くて……卑屈じゃなくて、ちゃんと好いた人と結婚したほうが」


 琴葉は勢い任せに口からぽろぽろ出てしまった自分の短所を改めて実感し、語尾が徐々に弱くなっていった。さらには視線まで下へ下へ下がっていく。


「……」


 急激に冷え切った雰囲気に琴葉の言葉のどれかが萩尾の地雷だと確信があった。

 しんっと静まり返った部屋で恐る恐る顔をあげて萩尾を見ると琴葉を壁に押し付けた日と同じ体温のない瞳で頬杖をついてこちらを見ていた。


「水澄、琴葉ちゃんと二人で話していい?」

「あぁ、部屋にいる。終わったら呼んでくれ」


 今、二人にしないで! と琴葉は水澄を見たが、拳を握って頑張れと口をぱくぱくして出ていった。


「ひっ」


 水澄が部屋を出てすぐ湯呑みを包んでいた琴葉の手の甲を萩尾は長く綺麗な指先で撫でた。


「琴葉ちゃんは俺の事嫌いなの?」

「っ、きらいだなんて、思ったことない、です」

「じゃあ、好きってこと?」

「二択……ぞれは、わ、わかりません……」


 手を握らないで……心臓が手にあるみたい。


 湯呑みがカタカタ震えてしまう。


「萩尾さん……よくないです。こういうの、勘違いさせるみたいに……私の反応見てからかっているんですか。この前からおかしいですよ。これ以上は私だって怒りますよ!?」

「ふうん」


 琴葉の手を湯呑みから剥がすようにして萩尾は琴葉と湯呑みの間に指を滑らせた。そして、琴葉の指先を握って顔をあげさせる。


「へぇ、おかしい、ね? 俺、もうやめようと思って」


 やめる? なにをやめるの……。


 琴葉はねっとりした萩尾の視線を受けてごくんと玉のような唾を飲み込んだ。


「琴葉ちゃんが俺に黙って勝手にお嫁にいこうとするから……明るくて、優しくていいお兄さんでいるのやめるね」


 手遊びを止めない萩尾は琴葉の手を口元に寄せた。


「好きだよ。ずっとずっと前から」

「いきなりそんな」

「いきなり? 言わなかっただけだよ」

「まっ」


 手に萩尾の吐息がかかって、琴葉は手を引っ込めようとするがそれはかなわない。


「琴葉ちゃんは自立したいんだよね? 幸い家事が得意なんだよね? 嫁として受け入れてくれるなら誰でもいいんだよね? 家柄もそれなりで、帝都妖刀管理局に勤めていて、養う力があって、自分で言うのもなんだけど帝都では最強って言われていて、元々面識あるから前の妖刀クソ男みたいなことにはならない。これってもう、俺以外の男と結婚する利点あるのかな? ね、琴葉ちゃん。そうは思わない?」


 琴葉の指はいつのまにか萩尾の指に絡めとられていた。にぎにぎと握られて琴葉は視界がぐらぐら揺れている。

 身体は仰け反って距離を取りたいのに、指が絡まって引き寄せられる。


 萩尾さんが私を好きらしい。しかも、ずっと前から……それにもっともらしい理屈になにひとつ反論できない。


「俺が一番適任だって、そう思わない? 琴葉ちゃん」

「そ、うかもしれません」


 徹底的に囲われて、逃げ場がなくて、私は結局、頷くしかなかった。



◇◇◇

 


 萩尾からの求婚を受け入れて一ヵ月もしないうちに琴葉の私物は全て萩尾の住居へ運ばれていった。

 与えられた部屋で多くはない私物の整理をしている琴葉の元に萩尾が足取り軽くやってきた。


「本当にいる! 琴葉ちゃんが俺の家に二十四時間一緒……」


 萩尾は部屋の中の酸素を全て吸いこむように呼吸し大げさに噛みしめていた。


「何か手伝うことはあるかな?」

「荷物も多くはないので大丈夫だと思います」

「なんでも言ってね。高いところは俺がやるからね」

「あの、萩尾さん」


 琴葉の嫁入りは不貞腐れていた水澄を除いて誰に反対されることなく、流水の如く順調に進んでいった。しかし、琴葉は物事が順調に運びすぎて、かえって不安だった。


「ご両親からしっかりご納得いただいたとは聞いてますが、萩尾さんのご家族は本当に私なんかをお嫁に迎えて問題なかったのでしょうか?」


 私の知らないところで萩尾さんが悪く言われていたらそれは本意じゃない。


 萩尾は思い当たることがない様子で琴葉の手元の食器を包む紙を開きながら首をこてんと傾けていた。


「全く問題ないよ。俺は……萩尾の重要な子じゃないからね〜~。萩尾家に泥を塗らなければ何をしても怒られない」

「そう、ですか……」


 帝都最強の異能持ちだと……そういう、もの、なのかな。



 荷物の整理を終えた琴葉は家の中をまわり優しく日が差し込んでる縁側に座って考え事をしていた。


 意外だなぁ。


 琴葉は想像していたよりだいぶこぢんまりとすっきりしている萩尾の家屋に静かに驚いていた。

 名家の萩尾家。

 それも帝都最強の異能持ちと謳われる萩尾の家はお世辞にも広いとは言い難く、部屋の数も家具も必要最低限しかなかったからだ。

 萩尾家は鏡家に並ぶ名家のはずなのに女中一人、姿がなかった。けれど掃除は行き届いてるようだった。


 陽だまりの中で少しだけうとうとする琴葉に萩尾は声をかけた。 


「ひなたぼっこ? この縁側いいよね」


 萩尾は琴葉の隣に身体をぴたったり寄せて座った。


「萩尾さんはお一人でここに?」

「そうだね。管理局に近いし、家事も嫌いじゃないよ。あぁ、使用人一人もいないのかって話?」


 意外だなと思っただけ。それよりも、私が伝えたいのは一つだけだった。


「あ、いえ。思っていたより静かなお家だったので……え」


 萩尾は琴葉の肩を押して、縁側に座る彼女を押し倒した。

 萩尾はやわらかく琴葉に差し込んでいた陽だまりを遮った。逆光で表情が見えづらいが重力で萩尾の髪がさらっと流れるのが見えた。


「名家の萩尾家にしては、質素だった? こんな家いや? 結婚したの後悔してる?」

「ちょ、萩尾さん」

「鏡にはもう返さないよ」


 萩尾が琴葉に顔を寄せた。口づけされる近さになり琴葉は慌てて言葉を紡いだ。


「不満じゃないです! むしろ私にはとても息のしやすい素敵なお家だなって思ったんです! 鏡のお家はとても立派で、不満一つないほど広いのにいつも息苦しさがあって……縁側でうとうとなんてしたことありません」

「ぁ……えっと、そっか」


 萩尾は呆気にとられた顔で琴葉の顔を見ていた。

 萩尾は力を抜くように大きく息を吐いてごろんと琴葉の横に寝転んだ。


「琴葉ちゃんのそういうところ大好き.....俺の家(・・・)、気に入ってもらえるといいな」

「精一杯、萩尾さんを支えられるように頑張りますね!」


 萩尾は琴葉の方に身体を寝返らせて、微笑んだ。


「ねぇ、その萩尾さんってやめない? 琴葉ちゃんも萩尾さんだよ?」


 それは、そうなんですけど。


「……ぃぶきさん」


 萩尾は琴葉に名前を呼ばれてとても照れ臭そうに目を泳がせた。

 この家にいる萩尾さんはどこかいつもとは違う見たことのないあどけなさがあった。





◇◇◇




 萩尾との一つ屋根の下での生活が始まってようやく慣れてきたある日の早朝。

 非番の萩尾は台所に立っている琴葉を椅子に座って眺めていた。


「おはよう、琴葉ちゃん。朝早いね」

「おはようございます。すみません、まだご飯できていなくて」

「うん?」

「こんなところにいなくても居間でお待ちいただいたほうが……」

「琴葉ちゃんが料理するの見ていたくて、もしかして邪魔?」

「邪魔ではないですけど、きっとつまらないですよ?」


 超絶技巧を駆使して料理を作っているわけでもないし、腕前が一流料理人というわけでもなく、並みの力量しか持ち合わせていない。


「つまらなくないよ。琴葉ちゃんの頑張ってる背中見てるの好きだもん」


 寝起きの伊吹さん……だもんて……かわいい言葉つかうんだ。



 包丁がまな板を跳ねる音、鍋が煮だった音、お米の炊ける匂い。

 萩尾は琴葉の調理を邪魔することは一切なく、ぼんやりとしているだけだった。

 琴葉は背中に視線を感じながらも料理を黙々と続け、ついに朝食が完成した。


「お待たせしました。盛り付けますね」


 琴葉の言葉を聞いてから萩尾はぎしっと椅子から立ち上がった。そして、ゆったりとした速度で琴葉に歩み寄った。


「どれどれ? あ、お魚?」


 萩尾は琴葉の肩に手を置いて、背後から鍋をのぞいた。


「気合を入れて煮つけてみました!」

「味見したい」

「もうご飯食べられますけど」

「今がいいな」


 萩尾が口を開けて琴葉にせがんだ。

 戸惑いながらも琴葉は菜箸で魚を一口分切って、萩尾さんに差し出すと彼は髪を耳にかけ、少し屈んでそのまま口に運んだ。


「……幸せの味がする」


 萩尾の感想は独特だった。

 琴葉には美味しかったのか、まずかったのかわからない。しかし、萩尾の表情が幸せそうだったため都合よく解釈するしかなかった。


「それは……お口にあったってことですかね?」

「好きな味」


 萩尾と一緒に暮らすようになって琴葉は気づいたことがある。


 伊吹さんはたまに遠くを見ていることがある。物理的な話じゃない。私を通してどこかずっと遠くを見ている。

 そして、そういう目をした後は決まって存在を確かめるようにぎゅうっと顔を寄せて抱きしめてくる。何かの癖?


 その流れが二人の日課になりつつある。


 伊吹さんは抱きしめるのが好きなのかな。



◇◇◇



 萩尾の琴葉への抱きしめ癖は日に日に時間が長くなっていった。

 琴葉も少しずつ慣れてきて抱き着かれて驚いて狼狽えるということは少なくなっていった。


 居間で読書をしながらうとうとしている琴葉が時計をみるともう日付の変わる時間だった。


「あ、いけないいけない寝ちゃってた。伊吹さんまだ帰られないのかな」


 最近、萩尾の帰りが遅い。

 よほど仕事が立て込んでいるようで帰宅するときは見るからに疲れきっていて、ぼろぼろ、よろよろとしている。

 それはご飯を食べながら眠ってしまったり、玄関で寝落ちてしまうほどで琴葉は萩尾を心配し、帰宅を寝ずに待つようになった。

 ガラっと玄関の戸が開く音がして琴葉は慌てて出迎えに走った。


「ただいま」


 相変わらず、萩尾の表情は疲れ切っていた。

 眠そうに目を擦っていた。


「おかえりなさい。随分お疲れですね。先にお風呂入られますか?」

「一緒に?」

「おひとりで!」

「残念だなぁ。でも、うん。入ろうかな」

「あ……」


 話す分にはいつも通りだが、日課になっていたはずの抱きしめられるということがないほど余裕がない様子で萩尾は琴葉の横をすうっと通り過ぎ浴室に向かっていった。

 琴葉は萩尾を見て反射的に両手を控えめに広げてしまったことを恥ずかしく思った。


 反射でつい……慣れって怖い。いやいや、それはもういいから着替え、持って行かないと……。


 萩尾の着替えを持って脱衣所の戸を叩いて声をかけると入っていいよと声が戻ってきた。


「失礼します。お着替え、置いておき……」


 戸を開けると半裸の萩尾がいた。ぼやっとした視線で琴葉を見ていた。


「なっ! 伊吹さん!」

「ありがとう、着替え」

「お着替え中なら言って、ってあれ……ひっ!」


 琴葉は着替えを萩尾へ手渡す前にばさっと落としてしまった。

 萩尾の上半身が紫色の炎に包まれていたからだった。


 妖炎……どうして。


 今この瞬間も萩尾の皮膚を妖炎がじくじくと焼いているように見えた。その禍々しい揺らめきに息を飲んだ。

 琴葉の視線に気づいた萩尾は久々に体温のない瞳を向けた。

 ぎしっと床が軋み、萩尾は琴葉を脱衣所の隅に追いやっていく。琴葉がじりじりと後退し脱衣所の隅の壁にぶつかって、萩尾の身体の妖炎を間近で見て驚きずるっと腰が抜けた。


「あっ」

「もしかして、これ視えてるの?」

「え……」

「どうして、無能であるはずの琴葉ちゃんがこれ視えるの……」

「……ぶきさ」


 萩尾は琴葉に覆いかぶさるようにして、問いただしていった。


「ねぇどうして黙ってるの。俺にずっと隠してたの? 嘘ついてたってこと? いつから?」

「ちがっ」


 ただ無慈悲に問いただしてくる萩尾の視線が恐ろしく感じた琴葉は両手を顔の前に置いて、萩尾の視線を遮った。しかし、萩尾は琴葉の両手を壁に押さえつけ、動けないように縫い付けた。


「怖い? 気持ち悪い? ……嫌いになった? ……答えろよ」

「わたし……」

「ずっと視えなきゃよかったのに」


 萩尾が捨て吐いた言葉に琴葉はじわじわ涙が溢れてしまった。


 伊吹さんの妖炎が気持ち悪いだとか、怖いだとかこの瞬間まで頭の中には一切なかった。

 ただ、心配だった。それは私が伊吹さんの事を好きになっていたからだと今気づいた。だから、視えなきゃよかったのにと言われて思い至ってしまった。


「はぎおさんは……私が無能だから好きになってくれたんですね……そう、ですよね。私なんかを理由なく好きになってくれる人なんているわけないんです」


 琴葉が声を震わせて伝えると萩尾が息を飲む音がした。

 琴葉が腕を引くと力強く拘束していた萩尾の手はすんなり外れてしまった。


「まって、琴葉ちゃん」


 琴葉はするっと萩尾の横を抜けて溢れる涙を手の甲で拭いながら脱衣所の戸に手をかけた。


「隠していたわけじゃないです……小刀で頬を斬られた日。私は突然……視えるようになったんです。ただ、それだけです。それ以外はなにもないんです」

「琴葉ちゃ」


 琴葉は脱衣所を出て、逃げるように自室に飛び込んだ。布団の中で丸くなって眠りについた。


 今までのすべてが音を立てて崩れていったような気がした。耳鳴りが止まらない。

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