4セーブ目(9)
職員室のドアというのはなぜこうも開け辛いのか。
物理的には教室の物と全く同じはずなのに、心理的には二呼吸くらい覚悟を決める時間が必要だ。ましてや怒られる為に呼び出される頻度が高い勉には、尚更分厚い壁の様に立ち塞がっている。
中にお目当ての教師がいるかどうかも、ドアの窓が磨りガラスなので外からは分からない。
(――しゃっ!)
勉は気合いを入れて一気にドアを開け放った。
対照的に中にいる教師達は気楽なもので、机に向かっていた数人が戸口に視線を向けた以外は談笑を続け、放課後のまったりタイムを満喫中だ。食事をしている教師が一人もいないのは、職員休憩室で食べているからか家に帰ってから食べるつもりなのか。
まあ勉にとってはそんな事どうでもいい。
自分を見た数人の中に目的の人物がいた事だけで充分だ。
「大谷せんせー、いいっすか?」
「ぎゃん!?」
変な返事が返ってきた。
一瞬職員室が静まって全員の視線が大谷に集まるが、本人がなんでもないアピールをした事ですぐに元の和んだ空気に戻った。
大谷はおびえた表情を隠そうともせず、ふらふらと戸口にいる勉の所まで歩いてきた。普通の教師なら生徒が自分の元に来るのを待って用件を聞くのだが、涙目の彼女にそんな威厳だの尊厳だのの話をするのは酷だろう。
「な、なんでしょうか、岸島君……?」
「音楽室の鍵借りたいんすけど、いいっすか?」
大谷が消え入りそうなか細い声で二メートルも離れた所から話しかけたが、勉は毎度の事なのであまり気にせず用件だけを伝えた。
「は、はははい、分かりました! 鍵ですね! 鍵だけですね!」
一体どんな用件を想像していたのか、大谷は簡単な用件だと分かると急に元気になって壁際のキーホルダー掛けを見た。特別教室や体育館なども含めた、校内殆どの鍵がきちんと分かり易く分けてぶら下げられている。
鍵を持ち出す時はその横にあるホワイトボードの該当箇所に持ち出した時間と理由、利用者氏名等を記入すれば、生徒が独断で持ち出す事も一応許されている。だがやはり教師の許可を取ってから借りていくのが当たり前で、本当に生徒が無断で鍵を持ち出すのは教師が一人もいなかった時くらいだ。
だから逆に、教師に頼んで借りた場合はホワイトボードに何も記載しない生徒も多い。
特に「忘れ物をしたから取りに行く」という数分程度の借用なら、教師が自ら「とっとと行ってこい」と記載させない事もよくある。
「か、鍵ですね! 音楽室! 鍵!」
大谷は音楽室の鍵の定位置を見て、そこに何もぶら下がってない事に気付くとホワイトボードに目を向けた。
だがそれの音楽室部分は空白のままだ。
「あえ?」
口を閉じるのを忘れた様にポカンとなって、しかしすぐに顔から血の気が引いていった。
「か、鍵は!? あ、あれ? おお音楽室ですよね!? あ、あれ? あれ!?」
誰かが間違えた場所に仕舞ったのかと、他の場所の鍵に付いてあるタグを一つ一つ確認していく。
気持ちは焦るが、何十個かぶら下がっている鍵を一つ一つ確認するとなると結構な量だ。全く見付からずに時間だけが過ぎていく。
「あるっすか?」
「ひゃぃ!?」
勉が何気なく掛けた声に過剰に反応して一人勝手に心理的に追い込まれていくが、どれだけ探しても見付からない。見落としがないかと二周目のチェックをしてみたが、やはり見付からない。
(ど、どこどこどこ!? どうしてこんな時に鍵が無くなってるの!? なんで、誰が無くしたのよ~!?)
どれだけ慌てても無い物は無い。
普通なら今現在誰かが借りているだけだとすぐに思い付くので、勉に音楽室に行くかもう少し待つ様に言うところだ。
しかし今の彼女にはそんな当たり前の思考を巡らせる精神的余裕はない。
生徒の個人情報が入ったメモリースティックを紛失したかの様な焦燥感と絶望感に包まれている。
「無いんすか?」
「ひぃっ!?」
勉がもう一度声を掛けると大谷は小さく悲鳴を上げ、ついでに両手も小さく上げてホールドアップの姿勢を取った。
「どどどどこ行ったんでしょうね!?」
別に銃口を突きつけられている訳ではないのに、後ろを振り返る事もできずに掠れた声で早口になっている。
「あ!」
何か閃いたらしく、大谷の表情に希望が宿った。
「ままま、待ってて下さい! い、今、教頭先生にお願いしてママスターゥキー借りてきますから!」
「え? いや、そこまで――って、聞いちゃいねぇ」
凄い速さで隣接する別室――おそらく教頭室か何かなのだろう――に走り込んでいく大谷に呆れ、勉は腰に手を当ててその後ろ姿を見送った。
「……ママスターゥキーってなんだ?」
マスターキーの事だと分かっていても呟かずにはいられなかった。
(しかし無いなら無いで終わる話なのにあんなに親身になってくれて……。本当に良い奴だな。大谷が担任だったら、俺だってもう少ししっかり進路相談できたかもな)
勉の中では大谷の株が更に上がった。
本当に進路相談――つまり二人っきりで話し合いをする状況になったら、果たして大谷は正気を保てるのかどうか……。
そんな本人の気持ちをまるで知らない気付かない勉が、この学校で一番信頼している教師が彼女だ。
一教科の教師に過ぎないので滅多に会話する事は無かったはずだが、色々とやんちゃして何度も職員室に呼び出される内に、彼女がいつも眉根を寄せて自分を凝視している事に気付いた。
それが自分を気に掛けて心配してくれていると感じた勉は、以降彼女に積極的に話しかける様になった。その度に真剣どころかかなり必死に相手してくれるので、生徒想いの良い先生と認識する様になったのだ。
今も扉の向こうで、教頭に「生徒への貸し出し禁止」のマスターキーを貸す様に嘆願している事に強く感謝している。
(ありがとう、先生。あんたがいるから、俺は最近マジで進学する気になったんだぜ)
勉は大谷の入っていった部屋の扉を見詰め、少し感傷的な自分らしからぬ思考をしている事に自嘲した。
(はは……昔はマジで全員敵認定してたってのに、まさかこの俺が学校のセンコーなんぞに感謝する日が来るなんてな)
その扉の向こうでは教頭に無下に断られた大谷が泣き崩れているのだが、勉はそんな事知る由もない。
勿論、彼女に天敵と認定されている事も……。
結局、大谷がマスターキーを借りて勉に付いて行く事になった。
大谷はそれを大事そうに両手で胸元に握り締めている。絶対に無くすものかという、意地というか覚悟を秘めた瞳で前を歩く勉の背中を見つめて、手に込める力を限界まで高めている。
ギリギリと音が聞こえそうな力で握り締めているが、手はしびれてもうとっくに痛みは感じない。
むしろさっきからずっと胃腸の辺りでその音が聞こえ、酷い痛みを感じている。
「あぁん?」
階段を上りきり特別教室棟の最上階に到着した時、勉が不機嫌そうな声を漏らした。
「ぅひぃっ!?」
ビクリと肩を振るわせ更に強くキーを握り締め、大谷は硬直した。
「あの野郎、待っとけっつったのに帰りやがったのか!?」
更に唸る様に力んだ声を出されて、口から心臓が飛び出しそうになった。
しかし彼女は運が良かった。
もしも今勉の表情が見える位置に居たら、きっと心臓は無事でも魂は飛び出していただろう。それ位眉間に皺を寄せた本気の怒りの表情だった。
「…………ちっ!」
勉は勉で、トラウマの原因に月照無しで会う事になるかもしれない恐怖と格闘中だ。
舌打ちが聞こえて白目を剥いてしまった背後の大谷の存在なんて、とうに頭からすっ飛んでいる。
「くそ! あいつ朝から舐めた態度してやがったが、マジでぶん殴られたいのか!? 見付けたら蹴ったらぁ!」
「みゅっ!?」
悪態をついた際に聞こえた後ろからの奇声で大谷の存在を思い出し、勉は慌てて口を閉ざした。
(やべっ。文字通り教師の真ん前にいんのに、後輩蹴り飛ばすなんて言っちゃまじいな。大谷に余計な心配掛ける訳にはいかねえ!)
それにここで音楽室に行かずに引き返すなんて真似をしたら、わざわざマスターキーを借りて付いて来てくれた彼女に悪いと思い至った。
(くそ、仕方ねえがまだ昼間だ。出る訳がねえ!)
勉は自分にそう言い聞かせ、振り返って大谷に声を掛けた。
「せんせー、取り敢えず音楽室行こうぜ」
「ひゃいん!?」
飛びかけた意識を勉の声で何とか引き留められた大谷だったが、いっそ飛んでしまった方が本人にとっては幸せだったかも知れない。
奇声を返事と受け取った勉は、大谷を一瞥してから廊下を歩き始めた。
普通なら彼女の目元の涙や蒼白になった顔色でその精神状態に気付かないのはおかしいのだが、元々人を慮る事を知らない勉が頼みの綱の月照を失って、トラウマ相手の度胸試しになってしまったのだ。
彼女がぶっ倒れでもしない限り、何も異常に気付かないのは仕方がなかったのかもしれない。
(ううぅ……吐きそう……。でもここで彼の機嫌を損ねたら、きっと怒られる……『蹴ったらぁ!』って勢いよく蹴られる……)
大谷は細くて小柄な身体の割に根性があるが、それ故に自らを余計な苦行へと導いている事には気付かない。
勉の後ろをゾンビの様にふらふらと、半ば無意識で付いていく。
ドスン!
その二人の視線の先、一番奥の部屋から廊下に何かが勢いよく飛び出した。
「な、なんだ!?」
「きゃあ!?」
驚いて二人とも声を漏らした。
勉は最初、何も無いと思っていた所から急に何かが飛び出してきたのでびっくり箱的に驚いただけだったが、そこが目的地、鍵が掛かっているはずの音楽室だと気付いた瞬間、本能的に後ろに逃げようとした。
しかし更にその飛び出してきたのが髪の長い女だと気付いてしまい、踏ん張りきれずに腰が抜けて廊下にドスンと尻餅をついた。
「へ? ――……ああっ!?」
大谷はその勉の様子に少し呆然として、遅れもう一度驚きの声を上げた。
そして前へと駆けだした。
「だ、大丈夫!?」
音楽室から飛び出してきたのは女生徒だった。と言っても女子の制服を着ているからそう思っただけで、顔は長い髪が被さっていて見えない。
その女子は少しだけ廊下に俯せに倒れ込んでいたが、すぐに這ってこっちに移動し始めた。
髪の間から一瞬だけ見えた目は見開かれており、明らかに尋常ではない。
「う、うわぁっ!? 来るな、来るなぁ!」
勉はその姿に恐怖を覚えた。
昔見た映画で、テレビから這い出してきた女が丁度こんな感じの動きをしていた事を思い出す。
力の抜けた足で廊下を押して後ろに逃げようとするが、自分の物とは思えない弱々しい動きでキュッと嫌な音を立てて滑るばかりでまるで進まない。
一方大谷は、その女子生徒に駆け寄って助け起こした。
「大丈夫!? 一体何が――……」
しかし状況を把握しようとした大谷は、掛けた声を途中で途切れさせ目を見開いた。
「あ……ああ……」
視界に飛び込んできたそのあまりの出来事に、彼女は悲鳴も上げられずに恐怖で喉を振るわせた。
恐慌状態だった勉も、やがて女子が生者だと理解すると、金縛りの様に動けなかった身体が動く様になってきた。
しかしそうなると、今度は代わりに動かなくなった大谷の様子が気になってきた。
(な、なんだ? センセーは何を見た? 音楽室に一体何が!?)
カクカクと震える膝を何度か叩いて、無理矢理立ち上がる。
(くそ、何ビビってやがる! 動け、前に進め!)
力が全く入らず、根が張った様に動かない両足を無理矢理一歩、手で動かして――。
(男だろ! 恩師を見捨てんのかよ!)
自らを鼓舞し、一度だけ大きく深呼吸をして――。
「おらあ! 何があった!」
気合い一喝、意を決してダッシュし大谷の横をすり抜けて、一気に音楽室の中まで駆け込んだ。
そこで最初に目に入ったのは、月照らしき男子生徒の姿。
「おう、咜魔寺! いたのか! どうやって入った!?」
本当に月照なのか確認する前に怒鳴りつけた。
勉の中では彼は月照なのだ。恐怖をはね除ける為、唯一頼れる存在の月照であって欲しいと、心がそれ以外の可能性を排除したのだ。
そのまま心が折れる前に、勢いに任せて喋り続ける。
「てかお前、何や……って……」
だが、ほんの一瞬で気勢を削がれた。
いた。
「それ」が、男子生徒の向こう側に。
「お……ご……あ……」
自分を見るなりにやりと笑った「それ」の姿に、勉は声を出すどころか呼吸が止まった。
取り戻したはずの四肢の力は既にどこにもなく、何もできずにその場で頽れた。




