4セーブ目(10)
不敵な笑みを浮かべる着物女が取ったその行動に、月照は絶句した。
「きゃあ!?」
隣の女子が代わりに悲鳴を上げて、手に持つ楽器ケースにしがみついた。
その少し離れた天井付近には、床に転がっていたピアノの椅子が又もふわふわ、律儀に四本の脚を下に向けて宙に浮いている。
「…………」
月照はそのまま数秒、身動きも取れずにその椅子を見上げていた。
「あはは! 今度こそ頭にぶつけてやるわ!」
威勢良く言い放つ着物女の声に合わせて、椅子はゆっくり月照の頭上に移動し――。
ぴょん、ぱしっ。
「喰ら……え?」
彼女が気合いを入れる直前、我に返った月照が椅子の脚を掴んだ。
「…………あれ?」
着物女はぽかんとなった。
音楽室の天井がそんなに高いはずもなく、他の教室同様二メートル半程度だ。椅子の正確な高さは分からないが、五、六十センチ位はある。落下前にちょっと飛んで掴む程度、平均的男子高校生でも造作ない。
「は、放しなさいよ!」
毎度の様に着物女が頭の悪い要求をしてくるが、月照は完全に無視して睨み付けた。
「……お前――」
最近よく捻り出す、ドスの利いた声だった。
「ひっ!? な、何?」
怯える着物女に向かって、月照は声を張り上げた。
「全っ然! なんっにも! 変わってねえだろうが!」
「ひぇ!?」
月照の迫力に怯みはしたが、彼女は無理矢理胸を張って反論する。
「そ、そうじゃない、変わったのよ!」
「どこが!」
「私の気持ちが!」
「何の意味も効果もねえ!」
「でも、例え勝てないとしても絶対に負けないから良いのよ!」
「負けない? 既に色んな意味で負けっ放しみたいになってんのにか?」
「し、失礼な事言わないで! 私がいつお前に負けたのよ!」
自覚があるらしく顔が真っ赤になっているが、そこを突いてもきっと「負けてない」の一点張りで死んでも負けたとは認めないだろう。
水掛け論になったら時間が有り余っている霊が有利なのは自明だ。
「細かいのはカウントしないでやっても良いが、この後は完敗確定だろ」
仕方がないので、月照が折れてやった。
「そ、そんな訳ないでしょ!」
攻撃手段が上から物を落としてぶつけるだけのくせに、それを破られて尚強気な態度を崩そうとはしない。もしかしたらまだ何か奥の手でもあるのだろうか。
月照は椅子を床に降ろしてドッカとそれに座り、さっきから続くポルターガイストに怯えきっている女子と、その女子の頭上に静かに浮いている生首を見た。
(生首一号、意外とまともなんだな……)
話の腰を折る様な横槍発言もしないし、意味があるのかは分からないが一応女子を守れる位置に待機している。
(ちょっと確認しとくか)
「私と会話できるからっていい気にならないで!」
着物女が何か言っているが、月照は無視して生首に小声で話しかける。
「(なあ、お前って霊をぶん殴ったりできるのか?)」
「へ……?」
ポカンとされた。
まあ確かに質問の仕方が悪かった。「殴る」のが不可能なのは一目瞭然だ。
「お前は私には何もできないわ! ただの人間が、物を動かせる霊に対抗する手段なんて無いのよ!」
「(ああ、あの女に攻撃できるのかって話だ)」
噛み砕いてもう一度尋ねると、下でへたり込んでいる女子に気付かれた。怯えた顔で見上げている。
「あ、ああ。そんな事ですかい。残念ですが無理でさぁ。あっしには確かに霊感がありやすが、旦那みたいに霊に触るにはもっと強い霊感か、もしくは相手にもあっし程度の霊感が必要なんでさぁ。あの女にゃあそんな霊感ありやせん」
「(ふーん、そういうもんか)」
しかし敢えて女子の視線を無視して生首との会話を優先した。
今大切なのは、あるかもしれない着物女の切り札からどう身を守って、どう反撃するかだ。勿論自分だけではなくこの女子も守らないといけない。
だから生首が戦力にならないのは少し痛い。
「グーで殴るとか言ってたからびっくりして忘れてたけど、私が見えたところでお前は私に触る事が――って聞きなさいよ!」
「え? ああ、ごめん。ちょっと色々と……」
着物女に怒られたので、そっちに視線を戻した。
「ええと、どこまで言ったかしら……? ああ、そう! お前は私に触る事すら――」
「あ……の……さっきからずっと……。それ……独り言じゃ、無いよね?」
が、今度は女子からの横槍が入った。
「え? ああ、悪いけど霊と会話してるから相手できないな。危ないしちょっと部屋の外で待っててくれ」
だからそっちを優先して答えた。自力で逃げられるならそれに越した事は無い。
「あ、うん」
女子が抱えていた楽器ケースを床に置き、よろよろと体を起こす。
「――って、だから聞きなさいって言ってるでしょ!」
着物女が声を荒げて椅子を持ち上げようとするが、月照が座っているので当然びくともしない。
その声が聞こえない女子は異変に全く気付かず、冷静さを取り戻した様だ。自力で立ち上がり、置いていた楽器ケースに手を伸ばした。
「この……! 舐めないで!」
掴む直前、そのケースが着物女の声と共に宙に浮いた。
「ひっ!?」
反射的に手を引っ込め、女子は倒れ込むように戸口から廊下に飛び出した。結構な距離があったが、なかなかのバネをしているらしい。
ドスン。
「――って、おい、大丈夫か!?」
暢気な感想を述べている場合ではない程響いた痛そうな音に心配して声を掛けたが、返事は返ってこない。ここからでは下半身しか見えないが、すぐにずるずるとその下半身を引き摺って廊下へと這い出していった。
「……打ち身ぐらいで大きな怪我は無さそうですぜ。それと、誰か来やした」
生首が代わりに状態と状況を確認してくれた。
プールでの腹打ちでもあのダメージなのに、廊下でやったら内臓を痛めそうな気もするが……。
取り敢えずは希望的観測で、生首の診断を信じておこう。
「余所見してないで、死になさい!」
着物女がまるで空気を読まずに楽器ケースを月照の頭上に移動させた。
(――こいつっ!)
人を平気で怪我させ、命を奪う事に対しても何の躊躇いもない事。
なるほど、これは聞くのと目の当たりにするのとでは全然違う。ここまで人の身体に、自分の行為に、無関心で無責任な霊に会ったのは初めてかもしれない。
園香があれだけ動揺していた理由が、ようやく本当の意味で理解できた。
通り魔や暴漢のニュースを、他人事としてテレビなどで聞いた時とは次元の違う怒りが沸いてくる。
着物女に対するものだけではない。
防げなかった自分の無力さ、そこに繋がるまでの自分の行動の関連性など、不甲斐ない自分自身も腹立たしい。少なくとも自分がとっとと本気でこの霊を取り押さえていれば、彼女は痛い思いも怖い思いもせずに済んだのだ。
「――ひっ!?」
月照の表情を見た着物女が、顔面蒼白になって息を呑んだ。
弾みで集中が切れたらしく、楽器ケースが落ちてきた。目の前五十センチほどの距離だったので、月照は立ち上がって両手でそれをキャッチし、丁寧に床に降ろした。
行動は冷静だが、その表情は怒りを通し越して殺気立っている。激情のままにこの霊を叩きのめしてやりたい。
「大丈夫!? 一体何が――……」
その時、廊下で大きな声がした。女性の声だ。
月照が反射的に振り返ると、誰かがさっきの女子を助け起こし戸口から中を覗いていた。
「あ……ああ……」
その人物は月照を見るなり声を失い、女子を抱えたまま恐怖の表情で固まった。
(あ、やべ。教師睨んじまった……)
英語教師の大谷だった。
いくら苛立っていても理性が飛んだ訳ではない。月照は教師、しかも人よりも恐がりな大谷を殺気立った目で睨み付けた事を反省した。
とはいえこの馬鹿な霊の相手をしなければならないので、フォローをいれるのは後回しだ。下手にそちらを優先すれば、またさっきの女子の様に巻き添えにしてしまいかねない。
「(こ、殺さないで……)」
月照が着物女に向き直ると、後ろから掠れた小声で何か聞こえた気がしたが、あまり深く考えないようにしよう。
「そ、そんな怖い顔で睨んだって、こここ怖くないいんだから!」
目茶苦茶声を震わせながら、着物女が後ろにさがって距離を取った。よく見ると涙目になっている。
(睨んだだけで女を次々と恐怖のどん底に突き落とす俺って、一体……)
勉の方が怖いと思っていたが、もしかしたら自分の方が怖いのだろうか……。
人より目付きが少し悪い気がしていたが、これは「少し」では済まないレベルかもしれない。
月照のコンプレックスが一段階悪化した。
「お、お前はどうせ、私に触る事なんてできないんだから!」
「……ん?」
着物女が自信満々に言った言葉に、月照は首を傾げた。
「生きた人間は霊には触れない。これは常識よ! そんな事も知らないで、グーで殴るとか捕まえて売り飛ばすとか、よくも好き勝手言ってくれたわね」
……売り飛ばすは言ってない。
言ったのは自分だろ、と突っ込みたくなったがなんとか我慢できた。
(それにしても、こいつのあの余裕の正体それかよ……まあ知らないから仕方ないんだろうが)
長年霊をやっていれば、経験則で自分に触れる人間なんていないと思い込んでも仕方がない。
「じゃあ顔、思いっ切り殴っても問題無いな」
まあ教えてやる義理もない。
月照はつかつかと無造作に着物女との間合いを詰めて、左拳を思いっ切り握りこんだ。右で思いっ切りだと、まだ怪我が痛むかも知れない。
「「だだだ、駄目!」」
着物女は咄嗟に力一杯拒否した。なかなかの危機回避能力だ。
(――って今、なんかもう一人分声したか?)
ちらりと後ろを見ると、大谷が目を瞑って顔と頭を両手でガードしていた。
「……いや、先生を殴るなんてしませんから安心して下さい」
こんな位置から、助走を付けて教師を殴る様な生徒だと思われているのだろうか……。
「そ、そうよ! 私を殴るなんて以ての外よ! どうせ殴れないんだから諦めなさい!」
殴らないと伝えた大谷がそのままガード中なのに、なぜか殴ると伝えた着物女が踏ん反り返って安心している。
心底腹が立つ相手だが、やはりこの間抜けさのせいで憎みきれない部分もある。
ごっ!
でも躊躇無く殴った。
左のノーモーションで放ったパンチなので思ったほど威力が出なかった。これで上手く体重を乗せて破壊力を出すには、ボクシングや空手の経験が必要そうだ。
「――っ!!!????」
しかし小柄な着物女をひっくり返すには充分な威力だった。尻餅をついて驚愕と言うか混乱している。
(あれ? でも思ったほどリアクション無いな?)
顔を押さえて痛がる訳でもなく、ただ目を見開いている。どうやら何が起こったのか理解できなかったらしい。
霊の物理ダメージは気分次第の要素が大きい。本人が殴られたと理解しないと、こんな風に痛みを感じない事もある。
「ちっ、不意打ちが裏目に出たか」
不満の声を漏らしながら、月照は座り込む着物女の横に移動した。この位置なら腹を思いっ切り踏める。
「ちょっ、ちょっと待って! え? 今殴られたの!?」
ようやく事態を理解したらしい着物女が、両手で顔を押さえた。
これはチャンスだ。いくら悪霊とはいえ、相手が痛み苦しむまで何度も腹を踏みつけるなんて真似、流石に寝覚めが悪い。
まあそれでもやろうとしたのだが……。
しかし本人が殴られた事をきちんと理解したのなら、後味なんて気にならない方法が取れるかもしれない。
「ああ、思いっ切り殴った。だからお前の鼻ひしゃげてるだろ。なんか右目の眼球半分飛び出してるけど大丈夫か?」
鼻の辺りを指差しながら平然と嘘を吐くと、着物女は一瞬で青ざめた。
「ひゃげぇ!?」
更に変な悲鳴を上げ、両手で顔を覆って床をのたうち回り始めた。
(一子相伝の何とか神拳みたいになったな……)
霊の肉体的ダメージが本人の気分次第なら、本人に「お前はもう、怪我している」と宣言して大ダメージを喰らったと思い込ませれば、勝手に自爆してくれるだろうと考えたのだ。
とどのつまりただの暗示なのだが、着物女は頭が悪く思い込みも激しいので効果覿面だ。
ちなみにここで調子に乗って、「お前はもう、死んでいる」などと言ってしまうと、相手は「あ、はい……」としか反応しようが無いので注意が必要だ。
更に数十秒、声も出せずに悶え苦しんでから、着物女はやっと顔をあげた。
「ひ、ひげぁぁぁ……」
絞り出された声が凄く不気味だった。
「ぐわ!?」
そして向けられた顔はもっと不気味だ。
月照の言った通り――いやそれ以上に、鼻が抉れて凹み、左目の眼球がボロンと零れ落ちて何やら赤い紐の様なものでぶら下がっている。それどころか前歯も全部折れていて、顔中血みどろでダラダラと血が滴って着物を赤く染めていく。
これは想定の遙か上を行く効果だ。
……むしろ痛々しくて直視できないというか、本能的な嫌悪を感じるレベルの外傷だ。やり過ぎ感が半端ではない。
「――って、逆! 目、左右逆だ馬鹿!」
不気味さに負けて、月照はつい叫んでしまった。
(なんで潰れた目を間違えるんだよ!)
右目と言ったのに、左目が零れている。
しかしその一言に、流石の着物女でも違和感を覚えたらしい。
「げぁぁ……あえ?」
取れた目が途中で左右逆になるはずはない。しかし月照が見間違えていたのなら、そんな突っ込みは入れずに「あ、逆だった」と無言で自分を納得させるはずだ。
(……つまり私、担がれた!?)
ショックを受ける間に地獄の激痛の事は忘れてしまったらしい。左目をぷらぷらさせながら肩をぶるぶるさせている。
「おらあ! 何があった!」
突然、気合いの入った声と共に勉が音楽室に飛び込んできた。
「おう、咜魔寺! いたのか! どうやって入った!? てかお前、何や……って……」
そして月照に文句を言いかけ、着物女に気付いた。
着物女も勉に気付いて一瞬驚いたがすぐに取り繕い、口を開いて笑顔を向けた。勿論見せる前歯も無ければ左目もぷらぷらのままだ。
「お……ご……あ……」
その陰惨な霊の姿に、勉は腰を抜かしてへたり込んだのだった。




