4セーブ目(8)
「ちぃっ!」
月照は舌打ちしながら音楽室に向かって駆け出した。
「あ、旦那! あっしも行きやすぜ!」
その後ろを生首がなかなかの速度で付いていく。
「おい、大丈夫か!」
開きっぱなしだった音楽室の扉から中に声を掛けると、トランペットか何かの楽器ケースを抱き抱えてへたり込んでいるさっきの女子と、彼女を見下ろして奥のピアノの横に立つ和服姿の女がいた。
太い眉に大きめの鼻、腫れぼったい一重瞼に少しとは言い難い角度にしゃくれた顎。髪は長く真っ直ぐ艶やかで綺麗だが、顔はお世辞にも綺麗や可愛いとは言えない、スタイルも起伏が殆ど無い、小柄な若い女だった。
暗かったのと上下逆さまだったせいで顔は全く記憶にないが、服装と出現場所からして間違い無いだろう、あの女の霊だ。
(てかこいつ、結構若い? 俺と同じくらいか?)
服装のせいでそこそこの年齢かと思っていたが、なるほど恋愛脳の霊に多い思春期の姿だ。勿論それが彼女の亡くなった年齢とは限らないが。
「おぉまぁえぇぇ……」
着物女は月照の姿を見るなり、唸る様な低い声で言った。
「よくもぬけぬけと、私の前にぃぃぃぃ!」
「てめえ、普通に立てるんじゃねぇか! 何であの夜は天井からぶら下がってやがったんだ!」
相手の倍の声量で月照が怒鳴りつけた。
「っ!?」
着物女がびっくりして固まった。
「……いや旦那、今言うのそこですかい?」
遅れて部屋に入ってきた生首が、涙目で身を小さくして震えている女子を見ながら言った。
「あ、いや済まん。俺もあの時、結構気味悪かったからつい……」
色々な霊に見慣れていても、奇行に走っていると不気味に思ってしまうのはどうしようもない。
どれだけ人間を見慣れていても、街中を逆立ちで歩いている人がいたらぎょっとするのと同じ様なものだ。
「な、何をごちゃごちゃと! お前は殺す! あの人との仲を裂いたお前は、お前だけはぁぁぁ!」
着物女が叫ぶと、ピアノの椅子がふわりと宙に浮かび上がった。
(あ? なんだこいつ、スーパーノーコンの癖に物投げつける気か?)
正面から飛んでくるのなら、余程の速度で無い限り簡単に避けられる。
この程度で驚くと思われているのなら、月照も舐められたものだ。
「ひっ!? きゃああああ!」
「うぇっ!?」
しかし、予想外の方向から来た悲鳴で月照は驚いた。
へたり込んでいた女子が宙に浮く椅子を見てパニックになったのだろう。
そのまま大人しく気絶でもしてくれれば楽だったのだが、彼女は微妙に頭が切れるらしい。この場で自分が縋り付くべきは両手で抱いている楽器ケースではない事に気付き、それを投げ捨てて月照の足に抱き付いてきた。
「ちょっ!? おい、邪魔!」
月照は彼女の予想外の行動に対応出来ず、両足同時に抱え込まれてしまった。
「ま、待て待て待て待て!」
この緊急時に転けない事が精一杯で身動きできない体勢にされてしまった。
焦ってつい反射的に椅子が飛んでくるだろう方向に向かって左手を伸ばし、右手で頭と顔を守って目を瞑り衝撃に備える。
(くそ、失敗した!)
生首の言う様に、着物女に突っ込むよりもまずこの女子のケアをするべきだった。
しかし反省してももう遅い。着物女はきっと持ち上げた椅子を渾身の力で飛ばしてくるだろう。
いくらノーコンでも、止まっている至近距離の相手に当てるのは簡単だ。
(とにかく一撃だ。それさえ耐えたら、次はこいつ振り解いて全力でぶん殴ってやる! もう何があっても突っ込み入れる様な失敗はしねえ!)
決意固く防御を固め、じっとその一撃を待ち続け――。
「………………?」
しかしいくら待っても、一向に衝撃が来ない。
「旦那、旦那! 何してんです? 早く逃げねえと、あれに当たっちゃあ情けねえですぜ」
(……? は? 情けない?)
生首に言われて目を開けてみると――。
ふわふわゆらゆらのんびりこっちに飛んでくる椅子と、顔を真っ赤にしながら必死にそれをコントロール……というか霊障で持ち上げている着物女の姿。
「…………………………」
月照は言葉を失った。
「よーし、後もう六尺だけ前。あ、そこで右に一尺三寸!」
着物女は何やらブツブツ言いながら狙いを定め、椅子を月照の上まで移動させた。
「よし、ここ!」
そして霊障を切り、自由落下に任せて椅子を落とした。
ガタン!
外した。一メートル位手前に落ちた。
「ああ、もう! また外れた! 何よこれ、真っ直ぐ落ちない様になってるんじゃないの!? もう一回! 次こそは(命を)取ってやるんだから!」
「クレーンゲームか!」
着物女の呟きに、心の底から突っ込みを入れざるを得なかった。
なんというか、花瓶が大外れした理由が物凄く分かり易く実演された。
「重力に頼んな! ダイレクトにぶつけろよ!」
「そ、そんなに力が強いなら直接お前を持ち上げて外に投げ出すわよ! 椅子ってけっこう重いのよ!」
「だったら軽いもん使え!」
「軽かったら落っことしても痛く無いじゃない!」
「だから落っことす以外の選択肢探せっつってっんだ!」
よく分かった。こいつは頭が悪い。
「あ、え?」
着物女がなにやら唐突に目を見開いた。腫れぼったい一重でも結構ぱっちり開くものだ。
月照が妙な事に感心していると、着物女はゆっくりと月照を指差した。
「な、なんでお前、私と会話してるのよ!?」
「口と耳でに決まってんだろ!」
「そういう意味じゃないわよ、馬鹿!」
馬鹿に馬鹿と言われると腹が立つ。
「よし、取り敢えず殴ろう」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 馬鹿って言ったのは謝るから!」
攻守が逆転した途端涙目だ。
着物女は逃げ腰で続ける。
「そうじゃなくて、お前――」
「あ?」
「――……あ、あんた、どうして私と会話できるのよ?」
威圧にいとも容易く屈した着物女が二人称を切り替えた事はすぐ分かったが、肝心の質問の意味がなかなか分からず、月照は首を傾げた。
(……ああ。そういやこいつ、会話不能って花押先輩が言ってたっけ?)
どうやら会話する理性が無いのではなく、普通の人の声が聞こえないだけの様だ。
「旦那、和んでちゃあ情が移っちまいやすぜ」
それにさっきからずっと近くを鬱陶しく飛び回ってあれこれ口を挟んでいるこの気持ち悪い生首にも、今まで一度も視線を向けずに無反応だ。おそらく無関心なのではなく霊感が無いのだろう。
となると実体化していない園香の事も認識できなかったはずだ。彼女が横にいるのに危険な独り言を言っていたのは、理性と知性がぶっ飛んでいたからではなく音楽室が無人だと思い込んでいたからだろう。
(まあ人殺そうとしたんだから理性はぶっ飛んでるし、今のポンコツ攻撃見る限り知性もある意味ぶっ飛んでるが……)
見た目も中身もかなり残念な霊だった。
(ええと……色々状況と情報から推理すると、こいつは恋愛脳で嫉妬深い自己中女って訳だが……)
かなり苦手なタイプだった。
恋愛脳の霊にストーキングされたのも嫌な思い出だし、自己中女には幼少期から今日の三時限目休憩時間に至るまでずっと被害を被っている。
まあ全部が全部嫌な訳では無いが。
恋愛脳の霊はこっちの気を惹く為に何かと役に立とうとして色々世話を焼いてくれたし、自己中女の二人はぶっちゃけ目茶苦茶可愛い。人目が無い所であれば、別にベタベタひっつかれるのも嫌じゃない。いやむしろ――……。
(――って、今はそんな場合じゃない!)
思考が逸れてしまった事に気付いて、月照は慌てて軌道修正をする。
(こいつだ、こいつの事! こいつは相手に尽くす気もなければ可愛い訳でもない、自分勝手に相手に恋愛感情をぶつけて不都合があれば何かのせいにする奴だ)
問題点だけを足し合わせて濃縮したこの着物女は、もしかしたら天敵かも知れない。
(げっ、もしかして会話できる特別な相手って理由で、恋愛脳を発動させたりするんじゃねえだろうな!?)
大至急、本気で嫌われる手段を講じよう。
美人に弱い月照だが、彼女が相手なら容赦無く斬り捨てられる。
……人権団体の人に聞かれたらネットで吊し上げられそうだが。
「ね、ねえ……さっきからどうなってるのか、説明して……」
その時、足にしがみついている女子が腕の力を強めながら、こちらを見上げてか細い声で話しかけてきた。
がっちりホールドされているのに存在を忘れていた。
「まず離せ。椅子が飛んできてたらどうする気だったんだよ」
月照が不快感を露わにすると、女子は慌てて手を離し横に転がっていた楽器ケースを抱き締め直した。
「ご、ごめん」
「ええとだな……」
素直に言うべきか少し迷ったが、彼女も宙に浮く椅子は見ていた。さっき嘘に対して釘を刺されていた事もあり、月照はありのまま事実を伝える事にした。
「悪霊がいて、俺を殺そうとして椅子を使ったんだ。力不足で全然駄目だったけどな」
「そ……」
女子は何か言いかけたが、そのまま黙り込んでしまった。
中学時代に彼女がどの派閥にいたのかは分からないが、目の前で怪奇現象が起こっている状態で霊の話をされたのだ。派閥に関係無く反論の余地が無くなったのだろう。
まだ何か言いたそうにしているが、静かにしていてくれるならそれに越した事は無い。
月照は着物女をビシッと指差した。
「おい! 俺は自分を殺そうとする相手を許すほど甘くねえし、人権のないお前等相手なら一切容赦無く殺すつもりでぶん殴るからな! 何発でも!」
「ひぃっ!? わ、私があんたを殺すなんて滅相もないわ! こ、これは、その……そう、方言よ! 私が生まれ育ったこの町では、『殺す』っていうのは相手の息の根を止めたい時に使うのよ!」
「標準語じゃねえか!」
駄目だ、この霊が残念すぎてちょっと楽しくなってきた。どうにも憎みきれない。
そう言えば、惚れた相手へのアピールが「暗がりで天井から逆さにぶら下がって、じっくり時間を掛けて徐々に相手に見える様になる」だった。剛胆を売りにしていた勉でさえ、あわや再起不能という精神的ダメージを受ける恐怖だ。
今の様に普通に立っていれば、もう少し反応も変わっていただろうに……。
いや、暗がりでじっとこっちを見てたらどう足掻いても怖いか。
「え、ええとね、ち、違うのよ!? わ、私が言いたいのはあんたを殺したいって事であって、別に死んで欲しいとか息の根を止めたいって思ってるだけなの!」
「殺意隠すつもりないよな!」
「ああっ!? 正直すぎる自分が怖い!」
「本当に怖いぞ、そこまで本音が漏れると……」
死んでからこうなったのか、元々こうだったのか……。
それを知る術は今の月照には無いが、そんな事でこいつに同情しては自分が危険に晒されるだけだ。
月照は一度着物女から視線を外し、気持ちを切り替える。
「ん?」
その視線が、横でへたり込んだまま不安げに自分を見上げる女子を捉えた。
(あれ……? こいつ、そう言えばなんで悲鳴上げてたんだ?)
音楽室に入った直後に悲鳴を上げ、物音が聞こえた。だから月照は生首と一緒に急いでやってきた。
しかし彼女は月照と違って、着物女に狙われる様な事は何もしていないはずだ。それなのに狙われたとなると、これはちょっと看過できない。
恋愛感情も何も関係無く無差別に人を傷付けるというのなら、一切の容赦は要らない。更に言えば、ただぶん殴って済ますのではなく、住職の所に連れて行って大いに反省を促す必要があるだろう。
「おい、着物女。この女子に何をした?」
少しドスを利かせた声を出すと、着物女は気を付けの姿勢になった。
「ひえっ!? い、いえ、全く何も全然してないわ!」
ブンブンと首を振って否定しながら続ける。
「誰かが置き忘れていった楽器をぶつけてやろうとしたけど、完全に外れたもの!」
「やったんじゃねえか!」
「ち、違う違う違う! その女が勝手に、楽器を受け止めようとしてひっくり返っただけよ! だから私は何もしてないのよ!」
嘘を吐いた上にバレたら自己正当化して開き直った着物女に、月照は一気に頭に血が上った。
「屁理屈にもなってねえ! 楽器が急に飛んできたら誰だってびっくりしてひっくり返るし、それが自分の楽器だったなら壊れない様に受け止めようとするに決まってんだろ! いくらすると思ってんだ!」
ずい、と前にでて睨み付ける。
「だだ、だって! その女がこの部屋の鍵をもっと早く持ってこなかったせいで、彼が中に入れなかったのよ!」
着物女は怯みながらも反論してきた。
「なんだその言い訳! その『彼』ってつとむん先輩か? 反省しねえならぶん殴んぞ! 利き腕のグーで!」
「な、何よ! 女に手を上げようっての!」
「上げねえよ! 腰入れて水平に振り抜くだけだ!」
ボクサーの構えを真似てファイティングポーズを取る。
「言い回しよ! って、え? 『グー』!? ななな何それ、ささ最低!」
強気な口調とは裏腹に、着物女は少し横を向いて両腕で頭部を守る姿勢をとった。
「ざけんな! てめえは二度も俺を殺そうとしたんだろうが! 完全に正当防衛だ! 覚悟しろ!」
「に、二度じゃないわ! 三度よ!」
「なお悪いわ! ……ってか、花瓶と今と、あと一回はどこだよ?」
知らない内に死の危険があったらしい。ちょっと確認しておいた方が良い。
「あ、あんたと初めて会った時よ! あの時私達の逢瀬を邪魔したから、そこに掛けてある音楽家の額縁をぶつけてやろうと思ったけど、地震対策でしっかり固定されていたせいで壁から外れなかったのよ!」
「ああ、そういう感じかぁ……」
如何にもこの着物女らしい間抜けな話だが、もしかしたらそれが一番危なかったかもしれない。ダメージはともかく、あの暗がりで額縁がのんびり飛んできたらまるで気付かなかっただろう。
まあどうせ当たらないだろうが。
「……というかさ、俺の前に三組程ここ訪れたよな? あいつらは何でスルーされてんだよ?」
「確かに邪魔だったけど、あいつらは自分が出て行ったからいいのよ。でもあんたは、彼をここから追い出したじゃない!」
まあ、確かに結果だけ見れば月照が勉を追い出した事になる。
でもやはり納得できない。
「……まあ、正直に話してくれた礼だ。三回全力でぶん殴って、ある人の前に連れて行くだけで許してやる。覚悟しろ」
「誰よその人!? まさかあんた、私を怪しい業者に売り飛ばす気じゃ――」
「幽霊買い取る業者がいたら本当に怪しすぎるわ!」
道端で「死霊買い取ります! 価格応相談!」なんて業者の看板を見かけたら二度見するのは間違い無い。
(あいつらなら電話番号メモしそうだな……。いや、メモだけじゃ済まないか)
双子なら電話番号を登録して住所も確認し、一度くらいは自分の目で見たいからと月照を無理矢理誘ってその業者を訪れそうだ。
(……まさか本当にあったりしないだろうな、そんな業者)
ちょっと怖くなってしまった。
「ん?」
月照が妙な事を考えていると、着物女が小さく声を漏らした。
「待って……待ってよ……」
そのままなにやら一人ブツブツ言い始めた。
「そう、そうよ!」
しばらくしてから何かを確信したらしく、急に大きな声を出すと月照を指差した。
「お前なんかが、この私を好きにできると思わないで!」
相当自信のある事らしく、二人称が「あんた」から「お前」に戻った。まあ正直差が分からないので、月照もそこは全く気にしていない。ただ、この含みのある笑みが不気味だ。
「そうよ。会話できたせいで調子が狂ったけど、お前がどれだけ乱暴者でも私には勝てないのよ!」
「あぁ?」
「ひぃっ!? い、いいえ、お前は私には何もできない! ここからは私が一方的にお前を攻撃する! そうよ、最初からお前には勝ち目なんて無かったのよ!」
高笑いしそうなくらい胸を張って、着物女は月照を見下した。
さすがにここまで自信ありげだと少し警戒せざるを得ない。隣にはへたり込んだままの女子もいる。
「ふふ、顔色が変わったわね。さあ、恐怖しなさい! 私の真の恐ろしさを目の当たりにして!」
叫ぶ様に大声を出し、着物女は身構える月照を嘲笑う様に、ずいとその足を踏み出したのだった。




