3セーブ目(9)
一体どれくらいの時間が経ったのか。
「……行こっか?」
園香の小さな声で、いつの間にかブラスバンド部の演奏が聞こえなくなっている事に気付いた。
「あ、はい」
月照は園香と視線を合わせない様にしていたので、声を掛けられて初めて彼女のはにかんだ笑顔が目に入り、またドキリとさせられた。
「どうかした?」
園香の方は月照と違い既に平静だ。というか元の無駄に明るい感じがなくなり、今まで見た中で一番落ち着いた雰囲気だ。
(気にし過ぎないようにしよう。でないともう心臓が止まる……)
時間が余れば本当に走り込む予定だった月照だが、多分予定通り走ってもここまで心臓に負荷は掛からなかったと思う。
「ほら、散々暇したんだから急ご」
落ち着かない月照を置いて園香は律儀にドアから教室を出た。まあすり抜けたので律儀とは言えないかも知れないが、とにかく月照も慌てて後を追う。
園香は言葉もなく振り返りもせずに渡り廊下を通って特別教室棟に入り、廊下を進む。
淀みない足取りに置いて行かれそうになる、というほど彼女の足は速くないが、さっきまで「相手の霊の思考が理解不能」と散々迷惑な悩み方をしていたとは思えない、迷いを感じさせない勢いある前進をしている。
そんな程度の悩みならどうしてあんなに怖い目に遭わされたのかと文句を言いたいが、ブラック化されたら嫌なので月照も黙って彼女の後を追う。
だが、一段抜かしで上った階段の踊り場で彼女の足が唐突に止まった。
なぜか採光の窓がないこの踊り場は、休日なので電灯が点いておらずかなり薄暗い。
「先輩?」
「ねえ……」
月照が話しかけるのとほぼ同時に園香が声を掛けてきた。彼女の視線は壁につけられた大きな鏡に向けられたままで、そこに映る自分の姿を凝視している。
こんな変な場所に鏡がある理由は、移動教室で遅刻しそうになって階段を全力疾走する生徒が絶えないので事故防止の為らしい。要するにカーブミラーだ。
「私ってどんな姿なのかな?」
抑揚の無い声で園香が聞いてきた。視線は変わらず鏡を見つめたままだ。
「……は? え?」
声の調子からブラック化を警戒した月照だったが、彼女は笑顔ではなくなったものの、どうやら冷静なままの様だ。
「質問の意味が……鏡見ながら言われても何の事だかさっぱりですよ?」
率直な意見を言うと、園香は少し頬を膨らませてようやく視線を月照へと動かした。
「言ったよね、私は霊感が無いから霊の姿は見えないって。変身すれば鏡にも映るけど、それは変身した姿だから、悪霊としての私の姿じゃないから……」
なるほど、霊が見えない霊は鏡に映る自分も見えないらしい。新発見だ。ちょっと吸血鬼を連想するが、月照には鏡の中の園香もバッチリ見えている。
「あれ? 変身って実体化の方ですよね?」
「え? 『方』って何?」
ブラック化の事ではないらしい。
「あ、いや! でも変身って言ってもただ姿見せて物触るだけですよね? 別にひらひらしたコスチュームになる訳でも、髪が金色になってツンツン逆立ててパワーアップする訳でも無いでしょ? 何も変わらないですよ?」
まあブラック化しても顔立ちは美人で且つ可愛いままなのだが。
「へ? ……え、ち、違うよね? 私今ほら、きっと悪霊らしい――……」
反論した園香の声が徐々に小さくなっていく。言葉に比例するように彼女の顔の角度が徐々に下がっていく。
「霊、じゃなくても…………」
園香の声は更に暗く沈んで、小さく聞こえなくなった。
(今度こそ来るか!?)
「……君も和尚さんも、私の事真っ直ぐ見てるよね。二人共慣れてるからだと思うけど、本当はどれ位気持ち悪いかな?」
「へ……?」
ブラック化で襲われると思って身構えていたが肩透かしをくらい、月照は園香の状態を確認する為に顔を覗き込もうとして――。
「…………――先輩の事気持ち悪いなんて言う男は、ムカデやゲジゲジしか愛せないような、『超』だけでなく『絶』まで付く位特殊な趣味の奴だけです」
彼女の両手が顔を覆っている事に気付き、止めた。
「でもどうせ、俺がどんな風に説明したって納得なんてしないんでしょう?」
彼女が若くして命を落とした理由が、推測から確信に変わってしまった。
彼女が悪霊を自称している理由が分かってしまった。
自分も一つ間違えれば、周囲に一人でもそういう人間がいれば、そうなっていたと思うから。
だから分かる。きっと彼女の求めている答えは、彼女が一番聞きたくない答えだ。
(ふざけんなよ……)
そんな事、月照には言える訳がない。ましてや嘘を吐いてまで――。
「ん……。うん、そうかも……ううん、そうだね……」
園香は顔を上げ、辛そうな笑顔を見せた。
「何があったのかは聞きません。でも言いたいなら全部聞きます」
「君は――……優しい、って言った方が良い? それとも、酷いって言った方が良い?」
その目元には、拭っても溢れ出す涙が浮かんでいる。
「どっちでも好きに言って下さい。どうせ霊の気まぐれも我が儘も慣れっこです。ただ――」
月照は睨む様に力強く彼女の瞳を見つめ、誰に向けて良いのか分からない怒りで掌に爪を食い込ませた。
「……ただ?」
園香はほんの少しだけ視線を逸らして、でもすぐに月照を見詰め直した。
「人を傷付ける為の嘘なんて、吐きたくないです……」
「じゃあ、私を傷つけない為の嘘吐いてるんだ」
「違っ!? 何でそうなるんですか! 先輩は美人です! ずっと見てたいくら――……い……」
嘘どころか本音が飛び出し、月照は頬で湯を沸かせそうなくらい真っ赤になって背中を向けた。今日一番心臓が鳴っている。
「ん、んんぅぅぅ~~……」
園香は固まったまま妙な声を漏らしている。
そのまま数秒、いや十数秒。
月照の頬が少し平熱に戻り始めた頃、園香が背中から声を掛けてきた。
「んもう、照れるなぁ……。あの時もだけど、本気で言ってるんだもん」
首をそちらに向けると、園香は再び顔を両手で覆っている。しかし今の声は明るく、さっきまでの落ち込んだ感じは全くしない。
「い、いや……その……ち、違――」
「違うの? やっぱり嘘?」
月照が照れ隠しに否定しようとすると、そう被せられた。
「――ち、がわない、です……」
無理矢理そう言わせた彼女を卑怯と言いたいが、逃げようとした自分の方が卑怯なので諦めて彼女に向き直った。
ただ、やはり直視はできない。
「――……ん? あの時?」
遅れながら、彼女の言葉に変な単語が混ざっている事に気付いた。
「何でもないよ~だ。でも、うん、そうだよね……。あいつらよりたまたま君の方が、絶対絶対信用できるよね!」
園香は自分に言い聞かせる様に、しかしどこか嬉しそうにそう言って両手を顔から離した。
「うん、決めた。話すね、私の事……」
そして、真っ直ぐに月照を見つめて語り始める。
「――でも今はまだ教えな~い。もっと私と仲良くなってくれないと、まだまだ信頼度が足りません!」
と見せかけて語らなかった。
「な、なんですかそれ!?」
「お察しの通り、生前私は苛められてたよ。メチャクチャ言われてた。でも今話せるのはそれだけ。だって――」
「だって?」
「さっきから君、凄い見られてるから」
「……え?」
園香が階段の上を指差し、そちらを振り返ると。
「あいつさっき裏庭にいた奴じゃねえか?」「やっぱ演劇部じゃない?」「一人でぶつぶつ言って気持ち悪ぅ……」「自主練だろ、演劇部の」「うわ、こっち見た!」
部活と片付けを終えた吹奏楽部員達がこちらを見ていた。
(くそったれぇぇぇぇ!)
「あ、ちょっと! どこいくの!?」
涙目で階段を駆け下りる月照を、園香も慌てて追いかけていった。
「凄えダッシュ。運動部じゃねえの?」
「え~、あれで演劇の練習じゃなかったら怖すぎじゃね?」
「変な薬やってそう……」
「誰か、今度こそ写真撮った?」
「あ、すまん。呆気にとられて忘れてた」
「私も~」
月照達が走り去ったのを確認してから、吹奏楽部員達はその話題で盛り上がりながら階段を降りていく。
「あいつって一年だよな? 知らないの?」
その最後尾で、三年生の男子が一年生の女子に尋ねた。
男子の方は背の高い優男で、にやついた様な笑顔と茶髪、着崩した制服という見るからにチャラチャラした印象だが、重いチューバを背負ってもフラつかないだけのしっかりした体幹はあるらしい。
「へ!? あ、いえ……。名前は知ってます、クラスメイトですから……。話した事ないですけど」
女子は逆にピシッと整った着こなしで、艶のある黒髪をうなじのあたりで飾り気のないゴムで止めている。切れ長でも鋭過ぎない目元が印象的で「クールで真面目」を絵に描いたよな雰囲気を纏っている、なかなかの美少女だ。
「へえ、やっぱ変な奴なのかな?」
男子が問いながら顔を近付けると、女子は露骨にそれを避けてから答える。
「ええと……。凄い可愛い幼なじみの彼女がいるのに、上級生にも男女問わず手当たり次第手を出してるって噂です」
「え、あんな奇行してる奴がそんなモテんの?」
大して興味無さそうなのに無理に話を続けようとする男子に、女子は嫌そうな顔を隠そうともせずに答える。
「噂、ですけど……。まあ、上級生が最近毎日彼に会いに来てますので、信憑性もそこそこかもしれないです」
「いや待って、今男女問わずって……」
聞き逃してはいけない一節に気付いたらしく、男子の頬に冷や汗が流れる。
なるほど一応ちゃんと話は聞いているのかと、女子は少しだけ表情を和らげた。
「噂です。女子の制服着た男子みたいな人が一番来る頻度高いんで、女装じゃないかって」
「あ、ああ……。そいつ三年だろ?」
「え? あ……そう、かもしれません。確認してませんが」
少女はまた元の嫌そうな顔に戻った。
目立っているから目に付くだけで、一々相手がどんな人かなんて調べる訳がない。彼が誰と会おうが、自分とは関係無い。
まあ三年の河内山という先輩なのは、リボンの色や彼がそう呼んでいたから知っているが。
「あいつかぁ……そう見えるよな」
男子が納得げに言った。
「心当たりあるんですか?」
「ああ、背が高い奴だろ。河内山つって、去年おんなじクラスだった。一応ちゃんと女子だ。まあクラス全員に抱き付いてたけどな」
「え、痴女!?」
「そういや教師にも抱き付いてたな。顔は良いんだけど筋肉質だしでかいしで、抱き付かれても誰得って感じでみんな気持ち悪がってたな。女子がどう噂してたかは知らないが、男共はみんな罰ゲームって言ってた」
「罰ゲーム……」
彼女と会う時の彼の様子を思い出すが、とても嫌がっている様には見えなかった。
彼はいつもよく分からない。
あまり覚えていないが、中学の頃も変な目立ち方をしていた気がする。
今もそうだが、いつ見ても大体一人でいるのに、たまに大勢の中心にいたりする。
(でも、私は……)
だけど自分はそこにはいない。
中学で三年間、高校に入ってからもまた同じクラスになったのに、彼どころか彼の周りに集まる誰とも、自分には接点がない。
(こういうの、なんて言うんだっけ……)
女子の胸の中にモヤモヤしたものが湧き上がる。
「確かオカ研だったかな。そうか、『類は友を呼ぶ』って奴だな」
「あぁ、それです」
男子の言葉ですっきりして、女子は階段を降り始めた。
「それって……なにが?」
男子は意味が分からず首を傾げるが、他の部員がもう誰も残っていない事に気付いて慌てて女子の後を追いかけた。




