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第21話

長持の蓋が重々しい音を立てて閉じられ、太い麻縄で幾重にも縛り上げられた。


中に入っているのは、極秘裏に仕上げた特殊な火縄だ。南蛮渡りの樹脂と油を丹念に染み込ませ、水に濡れても火種が落ちない細工を施してある。東軍の使者には「材料の乾燥が追いつかない」と言い訳を重ねて引き延ばしてきたが、すべてはこの日のためだった。


「甚兵衛、荷立ての確認が済んだわ。手配できる最速の早馬と足の速い人足を選りすぐってある」


帳面を小脇に抱えたお凛が、額の汗を拭いながら工房の奥から歩み寄ってきた。普段の華やかな着物の上から動きやすい上張りを羽織り、その表情には商人としての張り詰めた気迫が宿っている。


「ご苦労。予定通りの刻限に出せるな」


「ええ。美濃への街道は各所で封鎖されているけれど、藤吉が集めてくれた裏道を使えば、東軍の本陣近くまで抜けられるはずよ」


俺は頷き、荷車の脇に立つ大男を見上げた。

身の丈を超える巨大な野太刀を背負い、無精髭を撫でながら退屈そうに欠伸を噛み殺している又八だ。彼が率いる腕利きの傭兵たちが、荷車の周囲を隙なく固めていた。


「又八。道中の案内はお凛がつけた道案内人に任せるが、荒事はお前の役目だ。荷には指一本触れさせるな」


「言われなくても分かってるさ、若旦那。これだけの前金を積まれたんだ。俺がくたばらねえ限り、荷の縄一本ほどかせやしねえよ」


又八は野太刀の柄を親指で弾き、鯉口をわずかに切って見せた。獰猛な光を宿した瞳には、これから始まる危険な道程への恐れなど微塵もない。


「頼んだぞ。東軍の補給掛へ渡す際の割り符は持ったな?」


「ああ、懐にしっかり仕舞い込んである。……へっ、遅れて届いた荷が天下をひっくり返すなんざ、面白え仕事だ」


又八が短く合図を出すと、屈強な男たちが無言で荷車を押し始めた。車輪が砂利を噛む低い音を響かせ、隊列が工房の裏門から滑り出していく。


運命の九月。天下の趨勢を決する大戦が、いよいよ間近に迫っていた。



隊列の背中が見えなくなった後も、俺とお凛はしばらくの間、静まり返った作業場に佇んでいた。


金床や鞴が置かれた工房の中は、数か月間にわたる突貫作業の熱気が嘘のように冷え切っている。床に散らばった鉄粉と木屑だけが、ここで無数の鉄砲と弾薬が組み上げられた痕跡を留めていた。


お凛がふうと小さく息を吐き出し、腰に手を当てて俺を見上げる。


「……ねえ、甚兵衛。本当に、あんたの言う通りになるの?」


「何がだ」


「天候のことよ。美濃の関ヶ原で、本当に雨が降るのかってこと」


彼女の問いには、僅かな迷いと緊張が混ざっていた。無理もない。火縄銃という兵器は、雨天においてはただの重たい鉄の棒と化す。火薬が湿気り、火縄の火が消えてしまえば一発も撃てない。それこそが戦国の常識だ。


東軍にだけ雨天用の火縄を直前に届けるという俺の策は、当日に雨が降らなければ単なる無駄骨であり、納品を遅らせただけの怠慢と見なされかねない。


「降るさ。間違いなくな」


俺は窓枠に手をかけ、北東の空を見上げた。生ぬるい風が頬を撫で、微かに湿った匂いを運んでくる。


職人としての研ぎ澄まされた感覚が、大気のわずかな変化を捉えていた。気圧が下がり、遠くの山並みが青白く霞んでいる。だがそれ以上に、俺の頭の中に刻まれた確固たる記憶が、その事実を告げていた。


慶長五年九月十五日。関ヶ原の盆地は、未明から深い霧と冷たい雨に包まれる。


「季節の変わり目だ。黒潮に乗った湿った風が山にぶつかり、濃い霧と雨雲を呼ぶ。空の機嫌を読めない武将たちには分からんだろうがな」


「相変わらず、変なところで自信満々なんだから」


お凛は呆れたように肩をすくめたが、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。


「でも、これで盤面は整ったわけね。西軍には、あなたが売りつけた不純物だらけの粗悪な南蛮鉛が大量に届いている。あんな鉛で作った弾丸じゃ、まともに真っ直ぐ飛ばないわ」


「ああ。命中精度は目に見えて落ちる。しかも、規格を統一した銃を大量に渡してあるから、兵たちは疑いもせずにその弾を込めて撃ちまくるはずだ」


西軍には数を、東軍には質と特殊装備を。

そして納品の時期を意図的に狂わせることで、両軍の布陣と前進速度を堺の工房にいながらにして操ってきた。


「戦場に行くわけでもないのに、何万人もの命運を左右するなんて……本当に恐ろしい鍛冶屋ね、あんたは」


「俺はただの商人だよ。注文通りの品を、こちらの決めた数と刻限に売っているだけに過ぎない」


俺は作業台の上に残された、自分用の短筒を手に取った。手入れの行き届いた黒漆の銃身が、鈍い光を放っている。


戦場で刀を振るうことだけが戦いではない。補給という名の見えない糸を手繰り、最小限の犠牲で勝敗の天秤を傾ける。それこそが、この時代に生きる俺の選んだやり方だった。



◆ーーーー◆



美濃へと続く山間の街道は、鬱蒼とした杉木立に覆われ、昼間でも薄暗かった。


ぬかるんだ土を踏み締めながら、又八率いる輸送隊は驚くべき速度で山道を登っていた。荷車を引く人足たちの息遣いは荒いが、足取りに乱れはない。堺屈指の豪商であるお凛の実家が、破格の報酬で集めた手練れの運搬衆だ。


先頭を行く又八は、肩に担いだ野太刀の重みを感じながら、獣のような鋭い視線で周囲の木立を警戒していた。


空気が湿っている。鼻腔をくすぐる土の匂いに、微かな火薬と鉄の錆びた臭いが混じり始めていた。戦場が近い証拠だ。


不意に、前方の藪がガサリと揺れた。


「止まれ」


又八が低く短い声をかけると、人足たちは即座に足を止め、荷車を道の端に寄せて身を潜めた。流石の手際の良さだ。


木立の奥から、ぼろぼろの具足を身につけた十数人の男たちが姿を現した。手には錆びた槍や刀を握り、飢えた野犬のような濁った目を荷車に向けている。合戦の気配を嗅ぎつけて集まってきた落ち武者狩りか、あるいは統制を失った野盗の類だろう。


「へへっ、運が良いぜ。こんな山奥に、護衛もろくにつけねえ大荷物が転がり込んでくるとはよ」


先頭の男が下卑た笑みを浮かべ、槍の穂先を又八に向けた。


「命が惜しけりゃその荷を置いて消えな。東軍西軍どちらの荷か知らねえが、山を越える通行料として全部頂いていくぜ」


又八は深いため息をつき、首の骨をポキリと鳴らした。


「おいおい、勘弁してくれよ。俺ぁ今、天下分け目の大仕事の真っ最中なんだ。テメエらみてえな雑魚の相手をしてる暇はねえんだよ」


「あんだと、この野郎!」


激昂した槍持ちが、切っ先を突き出しながら突進してきた。


だが、その足が泥を蹴った瞬間、又八の姿が掻き消えた。


「がっ……!?」


槍が空を切ると同時に、又八の無骨な拳が男の鳩尾に深々とめり込んでいた。男の身体がくの字に折れ曲がり、泡を吹いてその場に崩れ落ちる。


又八は倒れた男の槍を踏み折ると、背中から野太刀を一気に引き抜いた。重厚な刃が空気を切り裂き、鈍い銀色の残光を描く。


「悪りいが、この荷は堺の若旦那から預かった命より重い品だ。かすり傷一つつけさせるわけにはいかねえ」


野太刀を構えた又八の纏う空気が、一変した。

先ほどまでの怠惰な態度は消え失せ、歴戦の傭兵としての圧倒的な殺気が周囲の空気を圧迫する。野盗たちが思わず一歩後ずさった。


「ひ、怯むな! たった一人だ、囲んで殺せ!」


残る十数人が一斉に刃を振り上げ、四方から襲いかかってくる。


だが、又八の動きに一切の迷いはなかった。大振りに見えた野太刀が、信じられないほどの精密さで軌道を変える。右から迫る刀の刃先を峰で弾き飛ばし、その回転の勢いのまま、左から突っ込んできた男の脛を薙ぎ払った。


悲鳴が山林に木霊する。


泥を蹴立てて間合いを詰め、刃の届かない至近距離に潜り込んできた相手には、分厚い鉄の鞘を振るって顎を打ち砕く。無駄な太刀筋は一つもない。最小限の動きで相手の急所を的確に破壊し、一人、また一人と行動不能に追い込んでいく。


護衛の傭兵たちが加勢に入るまでもなく、わずか瞬く間の出来事だった。


立っている野盗は、もはや最後の一人だけになっていた。男は腰を抜かし、泥まみれになりながら震える手で後退る。


「ば、化け物め……」


「命を拾いたけりゃ、仲間の傷の手当てでもしながら山を降りな。若旦那から無駄な殺生はするなって言われてるんでね」


又八は野太刀を振って血糊を払うと、無造作に背中の鞘へと納めた。その足取りには息乱れ一つない。


「さあ、行くぞ! 刻限に遅れたら若旦那とお嬢に何を言われるか分からねえからな!」


又八の号令に、息を呑んで戦いを見守っていた人足たちが力強く応じた。再び荷車が動き出し、険しい山道を力強く進んでいく。


峠の頂に差し掛かった時、視界が一気に開けた。

眼下に広がる美濃の盆地。そこには、数万の軍勢が蠢く無数の陣旗が、まるで巨大な生き物のようにうごめいていた。


そしてその上空には、甚兵衛が告げた通り、鉛色の不気味な黒雲が低く垂れ込め始めていた。



◆ーーーー◆



堺の工房で、俺は静かに茶をすすっていた。


お凛が窓辺に立ち、外の様子を伺っている。街を行き交う人々の足音も、心なしか普段より重く、ざわめきが波のように広がっていた。遠く離れた美濃で何かが起ころうとしている気配を、商人たちも肌で感じ取っているのだ。


「……又八たち、今頃どのあたりかしら」


お凛が呟くように言った。帳面を握る指先には、微かな力がこもっている。


「あいつの腕なら、野盗の二、三十人程度に後れは取らない。道案内が確かなら、今頃は東軍の陣のすぐ手前まで着いているはずだ」


俺は湯呑みを台の上に置いた。


西軍には、粗悪な鉛で鋳造された弾丸と、整備の行き届かない鉄砲。

東軍には、計算し尽くされた特注の長筒と、この雨の中で唯一火を噴くことのできる防水火縄。


物資の偏りと納品のタイミングによって、戦力差はすでに戦う前から決定づけられている。あとは、天候という最後の一振りが盤面に落とされるのを待つだけだ。


ぽつりと、乾いた瓦に最初の雨粒が落ちた。


工房の屋根を打つ、小さな音が響いた。


一つ、また一つと、乾いた瓦を濡らす水滴の音が重なっていく。やがてそれは途切れることのない雨音となり、堺の街全体を包み込んでいった。


「降ってきたわね……」


お凛が振り返り、驚きと畏怖の入り混じった瞳で俺を見つめた。


「ああ。向こうも同じだろうよ」


俺は立ち上がり、黒漆の短筒を腰の帯に差した。


遠く関ヶ原の地で、歴史を揺るがす大戦の火蓋が切られようとしている。

雨煙に霞む戦場で、俺の仕掛けた罠がどのように牙を剥き、武将たちの思惑を打ち砕くのか。


すべての答えは、あの黒雲の下にあった。

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