第2話
善兵衛の残した不穏な空気が、油の匂いと混ざり合って工房に澱んでいる。
太助はまだ作業台の下でガタガタと震えていた。
「おい、いつまで隠れてる気だ。手が止まってるぞ」
俺は手元のヤスリを動かしながら、呆れた声を出した。
「だ、だって旦那ぁ……相手はあの善兵衛ですよ? 堺の顔役をあんな風に怒らせて、明日から鉛や火薬が買えなくなったらどうするんですか!」
「心配するな。必要な手は打ってある」
言い終わるか終わらないかのうちに、工房の引き戸がカラカラと軽い音を立てて開いた。
「オラ! 頼まれていた品、持ってきたよ」
南蛮風の外套を翻し、立派な口髭を蓄えた長身の男が入ってくる。南蛮商人のロレンソだ。彼は背後の荷車を指差し、飄々とした笑みを浮かべた。
「注文通り、不純物の多い南蛮鉛をありったけ買い占めておいた。しかしアナタ、本当に奇妙な買い物をするね。極上の硝石を求める一方で、こんな粗悪な鉛を大量に集めてどうするつもりだい?」
「さあな。使い道はいろいろある」
俺は立ち上がり、荷車に積まれた鉛の塊を一つ手に取った。表面のくすみ具合と重さで、質の悪さがすぐに分かる。これなら、戦場で撃ち出された時に弾道が大きくブレるはずだ。
「相変わらず食えない男だ。まあ、私としては利益が出れば文句はないけれどね」
ロレンソは肩をすくめた。
「それにしても、今日の堺は随分と騒がしい。東と西、両方の使者が血眼になって鉄砲を買い漁っているよ。どこの鍛冶屋も悲鳴を上げている。アナタのところにも、そろそろお鉢が回ってくるんじゃないかな」
ロレンソの言葉を裏付けるように、表の通りからけたたましい馬の蹄の音と、怒鳴り声が聞こえてきた。
「どけ! 東軍からの御使いであるぞ!」
「何を言うか! こちらは西軍の名代だ! 道を譲れ!」
お凛が顔をしかめ、帳面を抱きしめる。
「……噂をすれば、ね。しかも最悪のタイミングで鉢合わせしたみたい」
ロレンソは面白そうに口笛を吹き、「私は高みの見物とさせてもらおう」と店の隅へ退いた。
バンッ、と乱暴に引き戸が開け放たれる。
転がり込んで来たのは、歴戦の傷が刻まれた甲冑を身に纏う筋骨隆々の武将と、西軍の紋をあしらった陣羽織を着た男だった。
「貴様がここの主か!」
東軍の武将が、俺をねめつける。
「拙者は源太夫。鉄砲の買い付けに参った。この店にあるありったけの鉄砲を、直ちに東軍へ引き渡せ!」
「ふざけるな! こちらの買い付けが先だ!」
西軍の使者が横から怒鳴り込む。
「堺の鉄砲をすべて西軍に納めよとの仰せだ。一丁たりとも東へ流すことはまかりならん!」
狭い工房の中で、二人の使者が互いを牽制し合いながら火花を散らす。強大な権力を背負った圧力が、物理的な重さを持ってのしかかってくるようだった。
太助はついに悲鳴を上げて奥へ逃げ込んだ。お凛も息を呑み、俺の背後に回る。
俺は手元の布でヤスリの粉を払い、ゆっくりと二人に向き直った。
「いらっしゃいませ。お二人とも、随分と威勢がいいですね」
「商人風情が、呑気な口を叩くな!」
源太夫が一歩踏み出し、床板を軋ませた。
「戦は目前に迫っておるのだ。貴殿のような若い鍛冶屋が、どれほどの腕を持っているかは知らん。だが、四の五の言わずにありったけの鉄砲を出せば、相応の金は払ってやる」
「金の問題じゃありませんよ」
「先日も堺の顔役相手に同じことを言ったばかりでしてね。どうも偉い人たちは、鉄砲をただの筒としか思っていないらしい」
俺は工房の目立つ場所に飾ってある、一丁の鉄砲を顎でしゃくった。一見すると普通の火縄銃だが、銃身が極端に薄く作られている他所製の不良品だ。
「数さえ揃えばいいというなら、あんな粗悪品でも買っていくことだ。だが、俺が精魂込めて鍛え上げた本物の筒は、その真価を理解できない者には絶対に渡さない」
源太夫の太い眉がピクリと跳ね上がった。
「……何だと?」
「言葉通りの意味です。東軍だろうが西軍だろうが、俺が納得しない相手には一丁たりとも売りません」
「貴様、自分が誰に向かって口を利いているか分かっておるのか!」
西軍の使者が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「大名の命に逆らうというなら、力ずくでこの工房を接収するまでだ!」
「やれるものなら、やってみればいい」
俺は全く動じず、二人の武将を交互に見据えた。
「ただし、俺がいなくなれば、この堺で最高品質の鉄砲を揃えることは不可能になる。あんたらの軍は、湿気った火薬と歪んだ銃身で戦うことになるぞ」
「おのれ……!」
源太夫の顔に怒りの朱が走った。実直な武人である彼にとって、商人にコケにされることは耐え難い屈辱なのだろう。
チャキ、と鯉口を切る音が工房に響く。
源太夫の手が刀の柄にかかっていた。
「その減らず口、二度と叩けぬようにしてやろうか」
殺気が肌を刺す。
だが、俺は視線を外さなかった。ここで引けば、俺はただの言いなりに成り下がる。戦の行方をコントロールし、無駄な命が失われるのを防ぐという目的は、永遠に果たせなくなる。
一触即発の空気が極限まで張り詰めた、その時だった。
「お待ちくださいませ、使者殿!」
お凛が俺の前に進み出た。上質な絹の着物を揺らし、毅然とした態度で源太夫の前に立つ。
「何だ、娘。邪魔立てする気か」
「邪魔など滅相もございません。ただ、ここで刀を抜かれれば、お名前に傷がつくかと存じます」
お凛は商人らしい丁寧な口調で、しかし一歩も引かずに言葉を紡いだ。
「甚兵衛は腕は確かですが、職人気質で口が悪いのが玉に瑕なのです。どうか、今日はお怒りをお収めください。後日、改めてきちんとした交渉の場を設けさせていただきます」
「交渉の場だと?」
「ええ。お互いに納得のいく取引をするための場です。その時までに、甚兵衛にも頭を冷やさせておきますから」
お凛の言葉に、源太夫は忌々しげに舌打ちをした。
「……よかろう。無用な血を流すことは好まん。だが、次は逃げ口上など通用せんぞ」
源太夫は刀から手を離し、俺を鋭く睨みつけた。
「後日、必ず貴殿の真意を聞かせてもらう。覚悟しておくのだな」
西軍の使者も「我らも黙ってはいないからな」と捨て台詞を吐き、二人は踵を返して工房を出て行った。
嵐が去った後のような静寂が戻る。
「……はぁぁっ」
お凛がその場にへたり込み、深い溜息をついた。
「あんたねえ……本当に殺されるところだったのよ? 少しは愛想笑いの一つでもできないの?」
「俺は職人だ。愛想を売る気はない」
「もうっ! 私が間に入らなかったらどうするつもりだったのよ!」
お凛は涙目で俺を睨む。彼女がどれほど店と俺の命を心配しているか、痛いほど伝わってきた。
「悪いな、助かった」
俺は素直に礼を言い、再び作業台に向かった。
「あら、珍しく素直じゃない。……で、どうするの? 後日改めて交渉するって約束しちゃったけど」
「問題ない。あいつらが欲しがっているものを、見せてやるだけさ」
俺の言葉に、お凛は不安げに眉を寄せた。
源太夫は実直な武人だ。小手先の誤魔化しは通用しない。
彼を納得させ、かつ俺のペースに巻き込むためには、圧倒的な何かを提示する必要がある。
店の隅で黙って成り行きを見ていたロレンソが、ニヤリと笑った。
「お手並み拝見、というところだね。若きマエストロ」
後日の交渉の場で、俺は源太夫に何を突きつけるべきか。
戦火の足音が刻一刻と近づく中、俺の頭の中ではすでに、次の一手が組み上がり始めていた。
だが、相手は数万の軍勢を動かす大名の使者。
一歩間違えれば、この工房ごと吹き飛ばされる。
重苦しい不穏な空気が、夏の熱気とともに堺の街を覆い尽くそうとしていた。




