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6 陽本うららは恋を知る

 結局あれから、お母さんは何も変わらなかった。ただ、おかえり、と笑顔で出迎えてくれただけ。きっと何をしていたのか訊けば教えてくれたのだろうけど、あえて訊くことでもないと思った。

 だって、おかえり、と迎えてくれるだけで十分すぎるくらいなのだ。そのうえ笑顔で、今日も大好きだと言ってくれるのだから、私は本当に幸せ者だと思う。



 文化祭が終わり、三年生は本格的に受験勉強をし始めた。私も部活を引退して……まあ、といっても週に一度は行っているのだけど、勉強に励むようになった。

 そして、というべきなのか、けれど、というべきなのか。

 とにかく最近、困っていることがある。


「うらら先輩、何色好きですか」

「へっ!? み、緑かな!」


 反射的に答えてから、しまった、ピンクとか答えるのが普段の私っぽかったかもしれない、と後悔する。

 挙動不審な私に何か言いたげな視線を寄越して、しかし真君はそのままキャンバスに向き直った。


 文化祭に私の絵を出していいか、なんて訊いてきた真君だが、まだまだ完成には遠かった。50号なんかで描くからそうなるのだ。確か50号って、面積的に一平方メートルくらいなかったっけ。

 真君は、大きい画面で私を描く、というのが今更恥ずかしくなってきたらしく、ここ最近は頭を抱えながら背景ばかり描いている。


 完成まで見ない、と言った私だったが、美術室は割と広いとはいえ、まったく見ないなんてできるはずもなかった。一週間くらいは頑張っていたのだが、今じゃもうすっぱり諦めて、何か訊かれれば答えるようにしていた。

 絵を描いている私の絵。美術室の椅子に足を組みながら座って、筆を握り、うーん、と何か考えているような。その私の前に置かれているキャンバスに、真君は緑の絵の具を乗せた。

 まだ私自体にはぼんやりとしか色を塗っていないけど、実物よりよっぽど不細工なのは明らかだ。たぶん完成までにはマシになるだろうけど、真君の満足いく結果にはならないだろう。


 今日の私は絵を描いておらず、ただ真君の見学をしているだけだ。

 平静を取り戻してから、真君に声をかける。


「真君、ちゃんとそれ完成させてね?」

「……そりゃ、部費で買ったキャンバスですし」


 真君の顔がへの字になる。そうじゃなきゃほっぽってしまいたいらしい。


「初の人物画が油絵、しかも50号っていうのが無謀だよねー」

「わかってますよ、んなこと」

「今から塗りつぶして、他の絵描いてもいいんだよ?」

「…………割とマジでそうしたいっす」


 はー、と深いため息をついて、真君は紙パレットに筆を置いた。

 気持ちはわかる。大きい絵を描いてると、気が滅入ってくるのだ。50号は私も一回だけ描いたことがあるが、描いても描いても終わらない……という気分になってつらかった。初挑戦の人物画を描くとなれば、なおさらきついだろう。


「だってこんなの、全然うらら先輩じゃないじゃないっすか」


 そう思っていたのに、真君から飛び出したのは予想外の言葉だった。


「実物ほど可愛くなくても、せめて三割くらいは可愛く描きたいんですけど、このままじゃ一割もいかないです」

「そ、そう……?」

「そうっすよ」


 今の段階でも一割はいってるんじゃないかな……? と主張してみたが、「は?」と冷たい声が返ってきた。

 冷たい……真君が冷たい……!

 というか、なんなんだろう。今じゃもう恥ずかしげもなく、むしろ呼びすぎなくらいうらら先輩と呼んでくるし、可愛いとか綺麗とか好きとかさらっと言うし。後者に関してはまあ、結構前からそうだったのだけど、なんだかつまらない。もっと初々しかったりツンデレだったりの反応が見たい。


「うらら先輩、自分に自信あるのかないのかどっちなんすか」

「いや、あるけど、それでもなんか、真君は私を過剰評価してるような気がしてならないんだけど。どうしたの最近」

「開き直ったんですよ」


 何を、と訊く前に視線が合ってしまって、慌てて顔をそらす。

 ――困っていること、というのが、これなわけで。

 真君の顔がまともに見れない。声を聞くだけで心臓がうるさくなる。可愛いなんて言われたらもうおしまいだ。今実は、かなり限界に近い。

 こんなことになれば、さすがの私も認めざるをえなかった。


 私は真君のことが、恋愛的な意味で好きなのだと。


 本当に仕方なく、嫌々、渋々、止むをえず! 認めてしまった。昨日。……昨日です。これでも認めないように努力はしたのだが、白旗を上げるしかなかった。

 だって、認めても認めなくても、どうせ真君にどきどきしてしまうのは変わらないのだ。だったらとっとと認めて、バレないようにしたほうが建設的である。さっきと言っていることが逆とか気にしてはいけない。


 散々爛れた生活を送ってきた私だが、これがその、つまりは、初恋なわけだ。漫画とかドラマでよく見るあれなわけだ。まさか実在するとは……とまでは言わないが、私が経験することになるとは思わなかった。

 まあ、少女漫画のような、綺麗な『恋』ではない。両親を見て育った私が、真っ当な恋愛をできるとは思えないから。――でも、どんな感情なのか、ちょっとは理解できた気がして。私は昨日、自分の気持ちを認めてすぐ、松下君に連絡を取った。


 そして、もう一度直接会って、謝ってきた。どれだけ私がひどいことを考えていたか、それをわざわざ説明することはしなかったが、松下君の表情から、そういうところまで察していたんだな、とわかった。私が思っていたよりずっとずっと、松下君は優しい子だった。

 好きな子ができたんだ、と打ち明ければ、「そっか、よかったね」と微笑んでくれた。「知ってたよ」とも。


『あんなとこで俺が告白したの、意味わかんないって思ったでしょ?』


 うなずくと、実はさ、と恥ずかしそうに笑って。


『陽本が真君って子好きなのは、話してればわかったから。そいつに、本気の奴もいるんだって知らせたかったのが半分。どうせ緒川さんが教えるだろうなって思ったし』


 松下君の告白を、なぜ学年の違う真君まで知っていたのか。それがようやくわかって、同時に絵美の暗躍に苦笑いしてしまった。松下君がとっくに気づいていたことにようやく気づいた、情けない自分にも向けて。


『周りの空気に流されてうなずいてくれないかなっていうのが、四分の一?

 で、残り四分の一が……まあ本当はたぶん、これが一番おっきいんだろうけど、陽本が自覚しちゃう前にって焦って、かな。結果は惨敗だったけど』


 ひたすら身を小さくして謝るしかなかった。本当に本当に、私にはもったいないくらいのいい子だ。こんな子の好意に気づかず二年間もセフレでいたなんて、罪悪感で消えたくなった。


『好きだったよ。真君、と上手くいかなきゃいいのにって今でも思うくらい』

『あはは……大丈夫、上手くいかないよ』


 言い切った私を、びっくりしたように、おかしそうに見つめて、松下君は「上手くいくって、絶対」と励ましてくれた。

 ありがとう、と返したけれど――上手くいかないに、決まっているのだ。真君は純粋で、綺麗な子で、私なんかが穢していい存在じゃない。

 だから私がするべきことは、真君に気づかれないうちに、この恋心を消すことなのだ。たぶん、数ヶ月……いや、数週間もすれば勝手に消えるだろう。私にできることは何もないから、せめてそのときが来るまで気づかれないようにしよう、と思っている。あまり真君と目を合わせないようにしなければ。



「うらら先輩、ちょっとこっち見て笑ってくれますか?」

「……君はいったいなんなんだろうね」


 こっちの決意を知りもせず、相変わらずの天然っぷりだ。いや、知られていたら困るんだけど。


「うらら先輩の後輩ですけど」


 わかりきった返答をして、真君は「笑ってくれないんですか?」とちょっと不満げな顔をする。

 別に絵に描くわけでもないだろうに、なぜ。今の私には、真君を見ていつもみたいに笑うなんてめちゃくちゃ難しいんだけど。そこのところをもっとよく考えてほしい。いや、考えられたら困るんだけど……と堂々巡りのような思考をしてしまって、仕方なく真君に向き直る。

 小さく息を吐いて、そっと視線を上げる。それだけで顔が強張ったが、なんとか口角を動かすことができた。できてる、大丈夫だ、これは笑顔だ。


「……そんなんでも可愛いんですからすごいですよねぇ」


 ……一瞬頭が真っ白になってから、ぐおおお、と出てはならない声が出てしまった。なんという不覚! こんな可愛くない声を好きな子の前で! なんて思ってしまうのだから、私は少々、どころではなく頭がやられているのだろう。

 いやでも私は悪くなくない!? これどうにもならないことじゃん、しいて言うなら真君が悪い!

 熱くなった顔を両手で覆って、沈黙する。三秒だけこうさせてほしい。ちゃんと取り繕うので。……今更だけどそんなんでもって何。私、笑えてなかったんだろうか。


「ところでうらら先輩、昨日、松下先輩? に話しにいったそうですね」

「…………絵美だな!」

「ザッツライト」

「そしてそれは私の真似のつもりかな!? どうせならThat's rightって言ってよ!」


 突っ込まなくていいほうに突っ込んでしまった。

 絵美は私のプライベートをなんだと思っているんだろう。どうしてよりによって真君に情報を流すのか……私が真君のこと好きだって知ってるからなんだろうけど。

 がっくりうなだれて、思わずスマホを取り出してしまう。真君といるときにスマホを弄ることは今までほぼなかったが、許してほしい。アプリを立ち上げて絵美に即座に「言ったな」と送る。既読はすぐついて、てへぺろしたクマのスタンプが返された。……てへぺろじゃないよ!!


 ま、まあ、松下君に話しにいったってだけじゃ、一番重要な部分はわからないだろうし、そこは松下君が絵美に伝えないと真君に伝わりようがないのだ。

 ……待て、待てよ。なんか嫌な予感がしてきたぞ。

 松下君はいい子だけど、この私のセフレを二年くらいしていたわけで。自分の告白に関して『どうせ緒川さんが教えるだろうなって思ったし』なんて言っていた松下君が、絵美に伝えていないって……ある? ないと思いたいけど、思いたいけど……。


「……真君?」

「はい、なんですか?」


 にっこり笑うその顔に、あ、終わってた、と撃沈する。終わった、じゃなくて、終わってた。これは、確実に、すべてがバレている。

 どうする。知らない振りをしてくれている、のか知らないが、何も言ってこない間に何か考えなくては。せっかく態度でバレないように気をつけていたのに、絵美のせいで台無しだ。

 冷や汗が流れるのを感じながら、ひとまずこの場は退散しよう、とそうっと立ち上がる。


「うらら先輩」

「はい!」


 が、名前を呼ばれてしまったものだから、ぴょんっと思わずその場で跳ねてしまった。しかし、真君はどこか緊張したように口を開け閉めして、なかなか話し始めない。

 この隙に出て行っちゃ駄目かなぁ、と美術室のドアに目を向けると、「うらら先輩」とまた呼ばれた。逃がしてくれる気はないらしい。


「……あー、っと、ですね」

「……は、はい」

「その、なんつーか、」


 何を言われるのだろう。先輩の絵も好きだし先輩のことも好きだけど、そういう意味では好きじゃありません、とか? ……めちゃくちゃありえそう。そうなったらそうなったで話が早くて助かるなぁ。元から、付き合いたいだなんて全く思ってないし。

 だって真君は、セックスという単語さえ言えないような子だ。先輩後輩付き合い、百歩譲って友人付き合いまではできたとしても、恋人付き合いは無理だろう。絶対真君は疲れるし、うんざりするはずだ。真君を困らせたくはない。

 私と真君では、人生観、のようなものが違うのだ。


 しばらく待っても、真君は口ごもったままだった。……真君の性格を思えば、そりゃあそうか。優しいしなぁ。振ったら私を傷つける、とか思ってるのかもしれない。

 だとしたら、私がやるべきことは。


「あのね、真君。こんなクズに同情なんてしなくていいんだからね? きっぱり振っちゃってよ」


 へらりと笑うと、真君は「……クズ?」と訝しげに眉をひそめる。


「それって、うらら先輩のことっすか」

「え、そうだけど」

「……もしかして、俺が前にクズって言ったこと気にしてました?」

「いや、別に。だって事実でしょ」


 クズとか中身が残念とか、真君には色々言われてきたが、気にしたことはない。真君からすればそりゃそうだろうな、と納得しただけだ。

 なのに。


「……すいません」


 なぜか今、真君のほうが傷ついたような顔をしていた。


「うん? 何が?」

「すみません」

「もー、どうしたの? ここは振られる側の私が落ち込むとこでしょ? まあ、真君に振られたくらいじゃ落ち込んだりしないけど」


 そう言っているのに、真君はまた「すみません」と謝ってきた。……謝らなくていいのになぁ。むしろ謝らないでほしかったけど、たぶん、このすみませんは先輩の気持ちは受け入れられません、という意味も含んでいるんだろう。

 想像していたよりもショックだと感じる自分に、苦笑を零す。


「真君の気持ちもわかったことだし、私、今日はもう帰るね」


 明日提出の課題あるの忘れてた、と言い訳のように続けて、帰り支度を始める。え、と真君は途方に暮れたような声を出した。


「まっ……ま、待ってください! わかったってなんですか!? 絶対わかってないんすけど!」

「言葉にしなくても伝わることってあるんだよ。いいから、帰らせて」

「やです!」

「帰りたいんだってば」

「帰らないでください! まだ俺の話は終わってません!」


「――今、真君の傍にいたくないの!」


 口にしてしまってから、はっと真君の顔を見る。驚いたように目を見開いていた。

 何か言わなくちゃ、と思って、けれど何も思い浮かばなくて、ただ時間だけが過ぎていく。帰り支度なんて、あとはもう鞄のファスナーを閉めるだけで終わるのに。それが、できなかった。

 ……ショック、なんだろうな、私。悲しいのだ、きっと。

 真君の傍は居心地がよくて、好きだった。傍にいたくないなんて思ったのは、初めてだった。

 唇を少し噛んで、小さく開いて、固く閉じて、そしてまた、小さく開く。


「……ごめんね、帰らせて」


 懇願するような声が出た。

 今日は何の覚悟もしていなかったから、こんなことになってしまったけど。だけど、大丈夫だ。一晩寝れば、こんな気持ち忘れてる。真君を好きだったという気持ちだって。


 だって、恋なんて、すぐに消えてしまうものなんだから。


 お母さんはお父さんに一目惚れをして、騙すようにして私をお腹に宿して、お父さんと結婚した。だけど私が産まれる頃にはもう、お母さんはお父さんのことを好きじゃなくなってたって。お母さん自身が、そう、笑って言っていた。

 絵美だって去年、四ヶ月だけ彼氏がいた。付き合う前までは、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになるような話を頻繁に聞かされていた。付き合い始めてからも、毎日楽しそうだった。でも、それでもたった四ヶ月だったのだ。四ヵ月後、気づいたら絵美は彼氏と別れていた。


 恋なんて、そんなものなのだ。


 ……そんなもの、だけど。今は確かに、私は真君のことが好きで。

 だからきっと、今拒絶されてしまえば立ち直れなくなる。私は案外、強くないのだ。


 ぐいっと鞄のファスナーを閉めて、紐を肩にかける。

 それじゃあ、と何とか笑って歩き出したところで、真君が立ち上がった。「あーもう」と自嘲気に吐き捨て、私の正面に立ちふさがる。

 目が、合ってしまった。


「なんで俺が振るって思ってるんですか!? やっぱ先輩、自分に自信ないんじゃないすか!」

「そ、それとこれとは話が別」

「じゃねーですよ!」


 何を言うつもりだろうか。

 徐々に自分の体温が上がっていくのを感じながら、こくりと唾を飲み込む。……目が合うだけでこれだ。不便すぎるな、なんてことをぼんやりと考えた。現実逃避、なのだろう。

 真君が私を、キッと睨むように見つめる。




「――愛の告白ってやつをしてやりますよ! すればいーんだろ! ああちっくしょー、すぐに言えなかった俺が悪いんですけど、こんな逆ギレみたいな感じ最悪だ!」




 素っ頓狂な声が漏れた。

 あいのこくはく、とは。いったい。


 何かが落ちた音。私が鞄を落としたのだと、一拍遅れて気づいた。

 ぐるぐると、真君の言葉が頭の中を回っていく。わけがわからなくて、でも猛烈に恥ずかしいことを言われたことだけはわかって、じり、と一歩下がる。――すぐさま一歩詰められた。


「な、え、へ、まこ、」

「キレたついでに言いますけど、あんたわかりやすすぎるのに自覚するの遅すぎじゃないですか!?」

「えっ、わか、わかりやす、わっ!?」


 思考はまだ正常に戻らない。


「前々からもしかしてとは思ってたんすよ! まあ単に!? 遊ばれてるだけだと思いましたけど!? でも緒川先輩やけに俺に絡んできて、うららのことどう思ってる、なんて探ってきますし!」

「絵美ほんっと何やってるの!?」

「でも最近はマジでわかりやすかったっすよ! やっと気づいたのかと思ったら、自覚したのがまさかの昨日! 俺がどんだけびっくりしたかわかります!?」

「わかんないよ!」


 何から何まで筒抜けとかどういうこと!?

 叫んでいて息切れしたのか、真君は肩で息をしている。そしてやっちまったと言わんばかりに額を手で押さえた。

 ……ええっと、あれ、今私たちは何を。何をしてるんだ。愛の告白、とやらはどこへいった。というか愛の告白って、え、脳内の漢字変換間違えてる……? そもそも聞き間違え……? 


「いや、今違うんですよ、そーゆうこと言いたいんじゃなくて、つまり」


 つまり、ともう一度言って。

 真君は――


「――キスもセックスも、先輩とがいい。先輩でいいんじゃなくて、先輩がいい」


 そんなことを、真剣な顔で言い放った。そしてすぐに真っ赤になって、「うわあああ……」と呻き始める。

 ……あいのこくはく、やっぱり私、何か変換ミスか聞き間違えしたんじゃないか? 告白、今の、告白? 告白、かな? かろうじて?

 さっきとは別の意味で頭が混乱してきた。真君、今噛まずにセックスって言えたな。頑張ったな、なんて、また現実逃避してしまう。


「……先輩、言ってたじゃないすか」


 この状況に合わない悲愴な顔つきで、真君が口を開く。


「この人でいいじゃなくて、この人がいいって思える人に会えて、相手にもそう思ってもらえるって奇跡みたいだ、って、そんな感じの」

「……ああ」


 確かに言った、と思い出す。

 ……言った、なぁ。そっか。なるほど。だから今、キスもセックスも、私()いいんじゃなくて私()いいって言ったのか。


「一応先輩に合わせた告白ってことで言ってみたんすけど……なんか……思ったより最低な告白になりました……すいません……」


 そういえば私は。とっくに、真君がいいって思ってしまっていたんだった。この気持ちに気づくよりも前に。

 そしてたぶん、それより更に前に――出会ったときから、私はこの子のことを好きだったんだろう。私の絵なんかに惹かれてくれた、この子のことが。……いや、それは流石に言いすぎかなぁ。


 うなだれていた真君が顔を上げて、私を見てぽかんとする。


「……え、先輩、今ので嬉しいんすか? なんかめっちゃ可愛い顔してますけど」

「かわっ……かっ、わいくないよ私、いや客観的に見て美少女なのは知ってるけど今ぜっっったいひどい顔してるから見ないで!」


 ひどい顔だ、絶対。にやけそうで泣きそうで、恥ずかしくて、嬉しくて、信じられなくて。こういうときにどんな顔をすればいいのか、知っている人なんているんだろうか。

 くるりと真君に背を向け、顔を両手で隠してしゃがみこむ。こんな顔見せられない、見せたくない。

 なのに真君は、「先輩、こっち見てくださいよ」なんて、笑いを含んだ声で言う。さっきまで君も真っ赤になってたくせに。


「あー……一応、俺の理想の告白っていうのもやってみますけど」

「やらなくていい! っていうかやらないで!」


 思わず振り返ると、私と同じようにしゃがみこんだ真君が、すぐ後ろにいた。そしてまた、さっきみたいな真剣な顔で、私を見た。


「好きです。愛してます。俺と、付き合ってください」


 心臓が止まるかと思った。

 これならさっきの最低な告白のほうがよっぽどいい! 別に、さっきのが最低だなんて、私は思わないけど。

 でもだって、なんか、ほら、最近稼動しまくりな涙腺が、勝手に涙を出してしまって。私みたいな奴が、こんな幸せな思いをしていいのかな。ぼろぼろあふれる涙を拭いながら、そう思う。好きな人と両想いになれるなんてそんな奇跡、信じてなかったのに。


 もしも数ヵ月後、真君のことが好きじゃなくなっても。真君が、私のことを好きじゃなくなっても。

 それでも今、そんなことを気にせず、この気持ちに素直になりたかった。ならなくてはいけない、と思った。うん、もういい……開き直ってしまえ。


 私は真君のことが好きだ。

 真君に、恋なんていうものをしてしまっている。


 泣いたまま、落としてしまっていた鞄からあるものを取り出す。持ち歩きやすい、小さめのスケッチブック。その中の一枚を、ぷつ、ぷつ、と丁寧にリングから外した。涙のせいで紙の端が濡れてしまったけど、大した問題ではない。

 ぐい、と押し付けるように真君に差し出す。


「……真君、これあげる」

「はい? いやあの、俺今一世一代の大告白したんすけど。答えはわかりきってますけどやっぱり返事ほしいです」

「童貞君のくせにその言い方生意気。そして図々しい」

「えっひど!?」

「いいから、はい」


 軽口を叩ける余裕が出てきた。

 真君はおそるおそるそれを受け取って、目を落とした。そしてすぐ、その綺麗な形の目がまん丸になって、私に戻される。


「……先輩、人の顔描かないんじゃなかったんすか」

「綺麗だと思えないものを描かないって言ったんだよ」


 私が差し出したのは、真君を描いた絵だった。作品とは呼べない、ラフなものだけど。私はあまり写真を撮らないが、それでもスマホの画像フォルダには、真君の写真が数枚入っていた。それを見返していて、そして昨日、気付いたらこれを描いていた。

 だから、認めるしかなかったのだ。好きになっちゃってたんだなぁ、と。


「……マジっすか。ヤバイ。死にそう。死ぬ」


 真君は泣きそうに笑った。


「語彙力どこにやったの、もー」

「や、はい、その、ありがとうございます、大事にします。これも、先輩も」

「……そっかー」


 私が鞄を持って立ち上がると、当然のように真君も立ち上がる。

 目が合って。ちょっと怯んだように身を引く真君に、私はぷっと笑ってしまった。ああよかった、やっぱり真君は真君だ。たぶんもう、セックスなんて単語言えないにちがいない。

 はー、とため息のような息を吐く。うん、よし。落ち着いた。鞄を近くのテーブルに置き、改めて真君に向き直る。


「好きだよ。気づくの遅くなってごめんね?」


 きょとんとした真君の顔は、再びだんだん赤くなった。


「……ほんとっすよ」

「ごめんごめん。……あー、と。今の告白、真君に合わせたんだけど、どうせなら私も、私らしい告白しようかなぁ」


 さて、私らしい告白とはどんなものだろうか。

 緊張したように待つ真君に、ぴん、とひらめく。


「……I'm crazy for you」


 きょとんとする真君の唇に、私は自分のそれを重ねた。ただ、ふれるだけのキス。

 少しかさついた感触に、男の子だなぁ、となんだかおかしくなってしまった。

 重ねたのは、ほんの一瞬。目を閉じる間もなかった。はっとして裏返った声を出す真君の口を、もう一度塞ぐ。今度は三秒くらい。それでも私は目をつぶらなかったし、真君も私を見たままだった。


 こんなキス、もう随分長いことしていなかった。噛み付くような激しいキスとか、しつこいくらいに舌を絡めたり、上あごや頬の内側をなぞったりするようなキスとか。そういうキスのほうが気持ちいいと思っていたから、そういうキスばかりしていた。ただ快楽だけを求めていた。

 なのに、なぜか――いや、なぜか、なんてわかりきってる。相手が、真君だから。

 こんなお子様みたいなキスで、こんなにも幸せな気持ちになれる。心臓が高鳴る。顔に熱が集まって、頬が勝手に緩んでしまう。


「……さっきの、どういう意味っすか」

「さあ、なんでしょう。自分で調べてね?」


 ええ、と真君は不満げな顔をする。


「今度は君からしてよ。Kiss me」


 唇に指を当てて顔を近づけると、真君はものすごい勢いで私から離れた。一気に二メートルくらい間が空いた。……おい。それはさすがにショックだぞ、私。

 なんだか悔しいので腕組みをしてじいっと見つめると、観念したようにそろそろ近づいてくる。耳も顔も真っ赤だ。最近は私が翻弄される側だったので、ここまで恥ずかしそうな顔は久しぶりに見た気がする。

 私に顔を近づけようとして、しかし手の位置をどうしていいかわからないのか、困ったようにうろうろ動かしている。まったく、これだから童貞君は。

 彼の首に手を回す。身長がほとんど変わらないから、背伸びをする必要がないのがありがたい。


「ね、ぎゅってして?」


 えええええ、とか細い声を上げる真君はもはや涙目だ。しかしちゃんとぎゅっとしてくれるのが素直。可愛いなぁ、もう。


「……キス、してくれないの?」


 拗ねたように耳元で囁くと、一瞬だけ怯んだような顔をした後、目をつぶってがん、と口をぶつけてきた。

 ……そう、ぶつけてきた。歯がぶつかった。


「いったぁ」

「す、すいません!」

「ちょっとー、唇切れたんだけど。これたぶん、真君黒歴史になるよ。セカンドキスで彼女に怪我、させ、るって、ふ、ふふ、もう、何それ、あはははっ」


 謝る真君に文句を言いながら、我慢できずに笑い出してしまった。

 じくじくと唇が痛いけど、その痛みさえ愛おしい。思い切り笑えば、真君は情けない顔でもう一回謝ってきた。

 その顔が可愛かったので、今度は私からキスを一つ。血の味がするのがおかしい。身を硬くする真君に、また笑いたくなった。今ここでその唇を舐めたら、きっと驚いて口を開くだろう。そこに舌を入れたら、どんな反応をしてくれるだろうか。気にはなったけど、やめておく。

 もう一度、ふれるだけのキス。

 だってこれで、十分気持ちいいのだ。


「……確かに、真君が言ってたとおりかもね」


 たったこれだけのキスで、真君は思考がまともに働くなっているらしい。ふわふわした顔で首をかしげている。可愛いなぁ。


「キスとかは、好きな人同士がやるものだって言ってたでしょ。……こんなキスとも言えないようなキスで、こんな気持ちいいんだもん。そりゃー、好きな人同士でやったほうがお得だよね」

「……お得って」

「うん、お得。ちゃんと言っておくけど、この先私、真君以外とはキスしないしセックスもしない」


 言った途端、痛いくらいに抱きしめられたので真君の顔は見えなかった。でもたぶん、また可愛い顔をしているんだろう。それが見えないのは残念だな、と思ったが、どうせこれからいっぱい見れるんだしいいかなー、とも思った。

 真君の体温、匂い、感触、息遣い、鼓動。こうして私が今感じているものが真君も感じているものだと思うと恥ずかしかったが、結局抵抗はせずに、数分間抱きしめられていた。もしかしたら、それは数秒だったのかもしれないけれど。


 体が離され、至近距離で真君と見つめ合う。照れ隠しというわけでもないが、私はえへ、とわざとらしく笑みを浮かべた。


「全部リードしてあげるから安心してね? 真君はマグロでいいから」

「…………今言うことじゃねーと思います」

「ふっふっふ、残念でした。開き直ってしまえば、もう目を合わせるだけで恥ずかしがるような可愛い私ではないのでーす」

「顔赤いっすけど」

「……今は、目を合わせただけじゃないし。ぎゅってしたし、キスもしたし。好きな人とそんなことをすれば体温が上がるのは当然だし、別に恥ずかしがってるわけじゃないというあれだよ」


 どれっすか、と言いながら真君がふはっと笑う。たぶん私の顔より君の顔のほうがよっぽど赤いと思うんだけど、まあそこは指摘しないであげよう。先輩の優しさだ。


「その、先輩。少なくとも俺が卒業するまでは、健全なお付き合い、っていう、わけには……?」

「ん、わかった」

「すいません、そうっすよね、無理ですよね……はい?」


 驚いた顔をする真君に、いったい私のことをどう思っているのかと物申したくなる。……あー、ビッチか。そりゃあしょうがないな。


「真君のペースに合わせるよ。好きなんだから、それくらい我慢できる」

「うらら先輩……」

「ただしがんがん誘惑はしていくからそのつもりで!」

「そうだったあんたそういう人だったッ!」


 調子が戻ったようで何よりです! と嫌味っぽく言う真君に、「知ってたでしょ?」と片目をつぶってみせる。それから彼の唇をぺろりと舐めると、悲鳴を上げられた。あー可愛い。

 真君が文句を言う前にノイズが鳴り始め、下校時刻十分前を知らせる放送が流れた。

 勢いを削がれたせいか、真君は諦めたように嘆息する。


「……帰りますか」


 真君が絵やイーゼルを片付け、筆を洗い終えるのを待つ。十分しかないと、時間的にかなりぎりぎりだ。美術室は割と昇降口から遠いので、普段なら遅くとも十五分前には片付け始めるのだ。

 真君の帰り支度までできたところで、残り時間は二分だった。


「走らなくてもいいかな?」

「んー、先生に遭遇したら走ってるっぽくするってことで」

「はーい。あっ、恋人繋ぎしようよ。私まともに恋人繋ぎしたことない。初恋人繋ぎー!」


 歩き始めながら右手を差し出すと、なぜかまたため息をつかれた。


「自覚なしのとき、マジでタチ悪いっすよね」

「お、おぅ……可愛い顔してた?」


 うなずかれてしまったので、自分の頬をむにむに引っ張ってみる。無自覚でそんな顔を晒すのは私としても不本意だ。

 気を取り直して、バッグの紐を肩にかける。真君がリュックを背負ったのを確認して、ちょっとためらった後もう一度手を差し出すと、普通に握られた。普通に。……恋人繋ぎじゃない。


「……あのね、真君。いくら真君のペースに合わせるって言っても、これはちょっと」

「言っときますけど、こっちは恋人繋ぎどころか女子と手繋ぐのも初なんすからね!!」

「つまりはさっきのキスも初めてで、これから私とやることはぜーんぶ初めてだと。ふむふむ」


 悪いっすか、と拗ねたように言う真君に、「ううん、最高」と満面の笑みを浮かべる。大好きな人の『初めて』をたくさんもらえるなんて、嬉しくってたまらない。私が真君に捧げられる『初めて』が少ないのはちょっとだけ申し訳ないけど。

 ……真君相手なら、バージンロードを処女(バージン)で歩くことを夢見たってよかったかもなぁ。


「わっ? どうしたんすか? やっぱりその、そういう繋ぎ方じゃないとダメっすか……?」


 ばっといきなり手を振り払った私に、真君が不安げな顔になった。


「ダ、ダメじゃないよ! ダメじゃないですとも! さあ、手を繋いで帰ろうじゃないか!」

「何キャラっすか」


 なんだろうね! と適当に返事をして、それ以上何か言われる前に無理やり手を繋ぐ。恋人繋ぎじゃなく、普通の繋ぎ方で。

 私今何を考えた。なぜ結婚まで思考を飛ばした。しかもそんな、今まで一切思わなかったような! う、う、も、猛烈に恥ずかしい、ぽろっと言葉にしてしまわなくて本当によかった。


「……やっぱりなんつーか、わかりやすいっすよね、うらら先輩」

「はい?」


 上ずった声を上げる私に、真君は「なんでもありません」とくすくす笑う。……なんかやっぱり、私のほうが翻弄されている気がする。

 むーっと唇を尖らせると、真君は私からさりげなく目を逸らした。


「……わかりやすいっていうなら真君のほうだよねぇ」


 大方私の唇に目がいって、さっきのキスを思い出して恥ずかしくなったとかそういうことだろう。

 もう昇降口まで来ていて、他に人もいるのでキスはできない。私は別にしてもいいんだけど、たぶん真君が怒るから、代わりに繋いだ手をちょっと引っ張った。

 それに誘導されるように私を見た真君に、とびっきり甘い笑顔を向ける。


「好きだよ、真君」


 ――もしも数ヵ月後、真君のことが好きじゃなくなっても。真君が、私のことを好きじゃなくなっても。

 それでも今この瞬間、この感情は確かに恋と呼べるもので。


「……俺も好きですよ、うらら先輩」


 真っ赤な顔で答えてくれる彼に、ふんわりと胸が温かくなる。

 恋、恋だ。私は真君に恋をしていて、真君は私に恋をしている。そう思うと、なんだかたまらない気持ちになった。


 だから、怒られちゃってもいいかなぁと。

 私はまた、ただふれるだけのキスをした。











「ねえハニー?」

「なんすかその呼び方。つーか俺がハニーなんですか?」

「だって私よりよっぽどハニーって感じだよ、真君。可愛いし」

「……大好きですよ、ダーリン」


「…………今そういう流れじゃなかったと思うんだけど!」

「そういうとこめちゃくちゃ可愛いですよね、ハニー」



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