90.闇の中を
道をふさぐように放置されたヘロンガル家の馬車は、動かず同じ場所にあった。主がいない馬車は、つながれたままの馬たちが雨の中で頼りなげに首を上下させている。馬車が横にどけられた様子はない。この時間、誰もいない馬車を邪魔だと思う通りすがりの人はひとりもいなかったらしい。
そもそも、こんな月のない夜、しかもしっかり雨が降っている時に馬車や馬を出すこと自体、普通はしないのだ。よほどのことがない限り、人々は夜の雨の中を乗り物を使ってまで移動することはない。
馬車にたどり着いたアンジェリンは、ほっとしながら扉を開けた。
これでやっと雨がしのげる。馬車の中にウィレムを入れておいて、馬車を自分で動かせばいい。
そう思ったが、ウィレムが怖がって大泣きでしがみついてしまい、御者をやることは無理だった。抱っこ用の紐もない。
仕方なく息子を抱いたまま、雨の中の道を急ぎ足で歩き出した。馬車の進行方向とは逆の方向へ。早く人を呼んでこないと、怪我をしている人たちが命を落としてしまう。本当は走り出したかったが、先日くじいた足が痛くて走れない。
人のいない暗い道。ここはいったいどこだろう。周囲は森で海の香りはしない。時間的に考えると、王城からそれほど遠くには行っていないと思えるが。
「近くに民家があるはずよ。ウィレム、冷たいけれど、もう少しだけがまんしましょうね」
ウィレムを抱いて雨の中をしばらく歩き続けていると、後ろから馬が走ってくる音がした。
馬はアンジェリンの前で停まった。やってきたのは二人。どちらも雨用の黒く大きなマントを身にまとい、フードを深くかぶっている。馬上でも大きな体格に見え、二人とも男性と思える。
今現れた二人は追手か強盗かもしれない。それでも皆を助けたいならば人に頼むしかない。勇気を振り絞ってアンジェリンの方から声をかけた。
「すみません、近くに、大けがをしている人が何人もいるんです。今、助けを呼びに行く途中でした。お願いです、手を貸していただけませんか?」
二人の大きな男は何も言わず、フードの下からアンジェリンの顔をじっと見ている。
アンジェリンは自分の姿にふと目をやった。ずぶぬれの子連れ、しかもあちこち泥と血だらけ。こんな女が夜に道を歩いていたら気持ち悪いに違いない。
「場所はお越しになった方向ですが、途中の道に誰もいませんでしたか? ひとりでも命を助けられるようどうか――きゃっ!」
アンジェリンはひとりの男にいきなり馬上に引っぱり上げられていた。馬を操っていた男の前に横抱きに乗せられ、ウィレムを落としそうになり、あわてて抱き直した。
「ありがとうございます。手伝ってくださるんですね? あちらです」
案内しようと思ったアンジェリンは首筋に冷たい刃物の感触を覚え、息を飲んだ。
「ひっ……」
「アンジェリン・ヴェーノだな? おまえとその子を捕らえよと命じられている」
そう言えば、エフネートはこのすぐ先にある小屋へアンジェリンを連れていくつもりだったと言っていた。そこにも手下がおそらくいたはずで。手下たちはいつまでも戻ってこない主人を心配して様子を見に行ったに違いない。
雨とも汗ともわからぬ水をしたたらせながら、アンジェリンは気分が悪くなりそうなほどの緊張感を必死で抑え込んだ。ここで取り乱してしまってはあの場にいた全員が危ない。
「エフネート様の配下の方ですか? だったら早くエフネート様をお助けしてください。両足に怪我を負っておられて出血がひどくて、意識を失っておられます」
「状況は把握している」
「じゃあ、今、現場に助けに行っている人はいらっしゃるのですね?」
返事をしてくれない。答える義務はないと思っているのか。
アンジェリンは少しだけ首を動かして自分と馬に同乗している男の顔をちらっと見た。
――この人の顔。
大きな鼻が特徴的で、城で見たことがある顔だった。名前は知らないが、確か、アンジェリンの秘密裁判の時にいたと思う。たぶん警務副総官だ。エフネートの直の部下に違いない。
恐る恐る訊いてみた。
「あのう……失礼ですが、あなた様は前に警務副総官をやっておられた方ですよね? 秘密裁判の時にお見かけしたような」
「今は警務総官だ」
むっとした声が返ってきた。
「失礼しました、警務総官様。私をどこへ連れて行くおつもりか知りませんけど、今はそれよりも怪我人を救助する方が先だと思いませんか?」
男はアンジェリンの言葉を無視しており、首にはまだ刃物が向けられている。
「すみません、危ないからこの剣、しまってください。息子が触ろうとしていて困ります」
ウィレムは、目の前で輝く刃物に興味を示し、小さな手を伸ばそうともぞもぞ動いている。
男はそれでも剣を収めようとしない。
「警務総官様、ここに剣があると困ると言っているじゃないですか。逃げませんからしまってください」
アンジェリンがなおも言うと、男はしぶしぶ剣をしまってくれた。
馬に乗せられたまま先ほど歩いてきた道を戻っていく。誰もしゃべらない。雨が心まで冷やそうとしている。
アンジェリンは震えながらも必死で考えを巡らせた。この男たちは、ザース王子がまぎれていたと報告を受けているのだろうか。あのままでは王子はあの場で殺されてしまう──いや、その前に傷と雨による冷えですでに命を落としてしまっている可能性もある。最悪の場合、あの場にいた全員がすでに死者の国に旅立ったかもしれない。
アンジェリンが捕まってそれほど時を置かないうちに、遠くから複数の馬の足音が聞こえてきた。雨音とは明らかに違う音。今度はアンジェリンが先ほど向かっていた方向からだった。
現れたのは十人以上で、皆、馬に乗り、同じような黒っぽい雨用マントを身に着けている。この人々がどういう集団なのかはつかめない。
アンジェリンを抱きとめている男が舌打ちして剣をすぐに抜けるよう準備をしたことが分かった。
――ということは、今来てくれた人たちはエフネート様のお仲間ではない? もしかして盗賊? それともクレイア王女様の関係者?
アンジェリンは『助けて』と大声を出したい衝動を必死でこらえた。何者なのかわからない相手に、今ここで声を上げることが正しいのかどうかわからない。警務総官が、逆上して剣で息子ともども首を掻き切れば終わり。
「そこの者、止まれ」
謎の集団の先頭にいた者がエフネートの配下に声をかけてきた。
「突然集団で現れて、いきなり止まれとはなんだ。盗賊か?」
「我らは王太后様直属の白花隊に属する者。国王陛下と王太后様双方のご命令で女性と子供を探しております。見たところその女性が我らが捜している母子のようですね。母子をお引渡しいただきたい」
――白花隊! 彼も王太后様も私がいないことに気が付いてくれた!
アンジェリンは喜ぶのもつかの間、さっと、剣が抜かれ、警務総官が再びアンジェリンの首元に剣を突き付けた。
「自分は警務総官だ。一緒にいる者は治安を守るため働く兵である。いかにも、これはお探しの母子に間違いない。しかし、この女は陛下をたぶらかしただけでなく、この子が陛下のお子だなどと、とんでもない嘘を吐いた重罪人。この女にはティアヌ・バイスラー殺害容疑もかかっている。我々は城から逃亡したこの女をやっと捕まえたところだ。正規の手続きを踏まぬ限り、罪人の管理は我々の管轄。白花隊はそれを承知しておられるか」
「先ほども申しましたが、母子の保護は、王太后様だけでなく国王陛下のご命令でもあります」
「では正式な命令書をご提示いただきたい。お持ちでないならこの女を渡すことはできぬ」
アンジェリンは、ウィレムをぎゅっと抱きしめた。
膨らみかけていた希望がしぼんでしまった。
今自分を捕まえている男は、現役の警務総官。罪人を捕らえ処罰する権限を持つ者。白花隊といえども警務関係者の治安維持のための仕事には口出しはできない。白花隊は、本来は王太后マナリエナを守るための軍であり、こんな場所までやってきたこと自体、あきらかに管轄外だ。このままでは白花隊が何もできないまま連れ去られてしまう。これでは怪我人を救うどころか、またフェールの足手まといに。
──もしも、エフネート様の配下の手を離れて、白花隊の方へ逃げることができたなら。
ここにいるエフネートの配下はアンジェリンを捕まえている男を含めても二人しかいない。対する白花隊は十人以上いる。逃げることは決して不可能ではない。
──まずは情報を渡さなきゃ。
何も伝えないまま殺されてはたまらない。
アンジェリンは、ぐずる息子を軽く揺すってあやしながら、できるだけ大きく声を出した。
「白花隊の方々、ユヒラマ様がお命にかかわるほどのお怪我をなさって重体です」
白花隊の人々の顔ははっきり見えないが、明らかに動揺が走ったのがアンジェリンにも伝わった。この人々は、王太后マナリエナの命令というよりも、ユヒラマと名乗っているザース王子が、水面下で自由に動かしていた部隊のようだ。
アンジェリンの腹に回されている警務官の手が、ぐい、と爪を立てた。それでもアンジェリンは続けた。
「この先の馬車が放置してあるあたりの左の藪の中です。そこで戦いがありました。他にもエフネート・ヘロンガル様、クレイア王女様もいらっしゃって、いずれも重傷です。早くお助けしてください。生きておられるかどうかも――」
警務総官が横から口をはさんだ。
「今、我々が救助に当たっている。おまえはよけいなことを言うな」
白花隊の後方にいた数人が無言でさっと動き、横を抜けてアンジェリンが指示した方向へ向かった。
「陛下と王太后様にも今すぐ報告してくださいませ」
アンジェリンの声を受けてさらに人が減り、その場にいる白花隊は五人になってしまった。
──これで五対二……無理かもしれないけれど。
アンジェリンは、大きく息を吸った。
「私、殺人とか関係ありませんから、勝手に罪人にしないでください。私は白花隊の方と一緒に陛下の元へ戻ります。警務総官様も、私を捕まえるための正式な書類をお持ちではないですよね?」
「書類はなくても、我々は罪人をその場で捕まえる権限がある」
そう言うと思った。それでもあきらめない。
ウィレムを強めに抱きしめる。
「えっと……私、【上手く】【馬】に乗れていますよね。うまく、うまに」
「はあ?」
アンジェリンは一瞬固まった雰囲気の隙をついて、身をよじって馬から無理やり飛び降りた。
「……っ!」
飛び降りた拍子に痛めていた右足首に激痛が走り、その場につんのめっって膝をついた。あやうく放り出されそうになったウィレムは再び激しく泣き始めた。
白花隊の方へ駆け寄りたくても足が痛くて走れない。それでも必死に立ち上がる。
「おいっ! 逃げるか!」
警務総官が怒りの声を上げ、アンジェリンが、あっ、と思った瞬間、背に強い衝撃を受けた。
立てない!
「女を捕まえろ!」「やめろ!」「お子を渡すな!」
複数の声が飛び交い、馬を降りた人がアンジェリンの周りに集まってきた。誰かが傍に来て倒れているアンジェリンの体を引っ張り、ウィレムを取り上げようとしている。
――嫌っ……! ウィレムを連れて行かないで。
息苦しくて声が出ない。
「白花隊にこの女を連れて行く権限はないと今申し上げた」
「だからと言って殺してもいいことにはなりません。警務総官殿は権限をはき違えておられる。小さな子を抱いた女性を馬で蹴るとは、それこそ犯罪。我々は国王陛下と王太后様のご命令に従い、この場で母子を保護します」
「この犯罪人は逃走しようとした。それを阻止しただけだ」
「犯罪者だと決めつけるのはいかがなものでしょうか」
「それはこれから取り調べたらすぐに判明することだ」
「それに、ご存じないのかもしれませんが、この女性は陛下の妃に決まった方であらせられる。それなのにそのような態度をとるとは不敬罪に当たります」
「正式な婚約式すらあげていないこんな得体のしれない母子のことなど、誰も認めていない。陛下はこの女のせいでおかしくなっておられる」
「しかしながら――」
アンジェリンは痛みに耐え、虫の泣くような小さな声を絞り出した。
「私を陛下の元へお連れください。この子は本当に陛下の御子です」
声は雨音にかき消されてしまう。誰も聞いていない。逃げなければいけないのに、体はもう動けなかった。馬に蹴られた背が激しく痛み、視界がかすむ。腕の中のウィレムが誰かに取られてしまった。その場にいる者たちはみんな黒っぽい雨具を身に着けており、ウィレムがどちら側の手に渡ったのかわからない。ぬくもりが離れ、泣き声が遠くなった。
「ウィレム……」
意識は闇に沈んだ。
◇
一方、いてもたってもいられず、城を飛び出したフェールは、軍の一部を連れて、城近くにあるヘロンガル家の本宅へ傾れ込んでいた。
叔母のアムネとその息子ヴァリーは在宅しており、突然入って来た大勢の兵と国王の姿に、驚きすぎてきょとんとしているだけだった。
フェールは怒りをできるだけ抑え、普通に叔母に話しかけた。
「叔母上、緊急事態なのでお許しを。叔父上はどこへ行かれたのか」
「主人ならずっとお城に滞在しておりますわ。実は、このところ帰宅しておりませんの。せっかくお越しいただいたのに申し訳ありません」
「本当にいないのか。念のため館内をあらためさせてもらおう」
フェールの声に兵たちが館内を走っていく。
不思議そうな顔の叔母は、ゆったりしたいつもの口調でフェールに訊ねた。
「いったい何があったのですか?」
「叔父上は私の婚約者とその子どもを無断でどこかへ連れ去った。誘拐に使われたのはヘロンガル家の馬車だとわかっている。この暴挙は叔父上でも許せぬ。そういうわけで、エフネート叔父上が捕まるまでは、叔母上と嫡男ヴァリーの身柄はこちらの監視下におかせてもらう」
「まあっ、陛下のお相手が決まったのですか? それはおめでとうございます。お子様がいらっしゃる方? どちらの」
アムネは今日発表されたばかりの王の婚約のことは全く知らなかった。おっとりした性格のこの女性は、家庭を顧みない夫が起こした問題よりも、妃発表の方に興味がいったらしい。
フェールは叔母の問いには答えず、淡々と命令を出した。
「アムネとヴァリーを城へ連行し軟禁せよ」
フェールは、「陛下」と呼び止める叔母に背を向け、急ぎ足で玄関口へ向かった。それに兵が続く。
「ここではなかったようだな。他を当たろう」
フェールは眉間にしわを寄せながら玄関を出た。こめかみから、つぅ、と汗が落ちた。頭の中に収めてあるヘロンガル家の関係拠点の地図を思い浮かべる。
もしも、アンジェリンたちが連れて行かれた場所があの中のどこでもないとすれば探しようがない。ヘロンガル家の馬車は西へ向かったという情報がある。この館は城の西に位置しており、方向としては合うと思ったが、西のイクスアランの町へ行き、そこから船で外国へ連れ出す、という最も見つかりにくい可能性も当然ありうる。
――いや、手間をかけて外国へ連れ出す必要はない。母子を殺してしまえば相手の目的は達せられるのだ。その辺りの路地に連れ込んで殺すだけで充分だ。
ふと、ティアヌの死にざまが頭をかすめた。彼女も連れ去られた末の死だった。最悪の事態を想像すると心臓が激しく波打つ。
とりあえず次の捜索場所は、エフネートが管理していた港の戦後復興施設に決めた。その付近にある魚市場の倉庫などを探してそれでも見つからなければ、城にいったん戻って報告を待つことにした。自分がいつまでも出歩いていては、それこそ城内でまた反乱を起こされるかもしれず、危険極まりない。王が兵を連れて城を空ける、それがエフネートの狙いかもしれない。
嵐のようにざわめく心を抱きながら、港の施設を調べさせていると、白花隊の兵が報告に走ってきた。
「見つかったのか! どこだ」
フェールは大急ぎで現場へ向かった。
──アン、ウィレム、どうか生きていてくれ。




