89.雨の湿地で(3)
雨の湿地で人々は戦っている。サラヤを倒そうと、エフネートとザースが両方から切りかかるも、まったく当たらない。
アンジェリンは体の震えがとまらず、ウィレムの顔を自分の方に向けさせてしっかり抱いていた。これは殺し合いだ。子どもに見せたくない。何もできない自分が悲しい。
クレイア王女は闘技場の試合でも見ているような様子で殺し合いを楽しんでいた。彼女は微笑んでおり、命をかけた戦いをしている戦場を見ている緊迫感はみじんも感じられない。
「すばらしい見せ物ですこと。皆様、全員死ぬまで戦ってくださいませ。言い残すことがあるなら今のうちですわよ」
その言葉にアンジェリンは直線的に反応した。
――私にも出来ることがある! 王女の気を散らすことなら。やってみよう。
「私っ、遺言があります!」
突然大声を出したアンジェリンに、その場にいる者たちは全員が驚いて振り返った。
一瞬の隙をついてザースの剣がサラヤの片腕をかすめる。サラヤは少し顔をしかめたが、そのまま次の攻撃に備えた。
アンジェリンはひきつった笑顔を作りながら、大声で語った。
「みなさん、私の遺言を聞いてくださいね。私、今までどろぼうの子だと言われて育てられたんです。私の両親はヴェーノ家の家財を盗んだ挙句、私を捨てて逃げたって」
ザースたちは再び戦いに入っている。アンジェリンを見るクレイアは、暗い中でもわかるほど不快そうに顔をしかめていた。
「なあに? それは身の上話? 遺言は身の上話とは違いますわよ。そなた、おかしくなってしまったの?」
「どうせ殺されるんですよね? ならば話を聞いてください。それで私、いつも自分は罪人の子だって意識が消えなくて、心に闇を抱えた暗い少女時代を過ごしました」
「どうでもいいお話なんて興味ありませんわ」
「いえ、最後だから好きにしゃべらせてください。育ての親はすばらしい人で、何一つ不自由のない生活をさせてくれました。でも、私は実の両親がどろぼうだってことがシミのように心から消えませんでした」
「つまらないお話ですこと。要するに、自分がどれだけいやしい生まれで卑屈な心を持った人間か、死に際にみんなに示したいってことですの?」
「続きもあるんです。エンテグアのお城に侍女としてあがっても、私の中の暗い気持ちは変わりませんでした。当時はまだ王太子殿下だったフェール様が、私の駄洒落に耳を傾けて、微笑んでくださるまでは」
「駄洒落? それでフェール様の気を惹いたってことかしら。そのような下品な道楽をフェール様が好んだと言うの?」
「そうです。私、さみしさを紛らわせようと思っていつも無意識に駄洒落を頭の中で作っていたんです」
サラヤの円剣が、素早く動けないエフネートのもう一方のふとももを切り裂いた。エフネートは両足負傷で立っていられなくなり、その場に倒れ込んだ。
「叔父上!」
エフネートにとどめをさそうとするサラヤに、ザースが蹴りかかり、すんでのところでエフネートへの攻撃は回避された。サラヤは軽々と動き、ザースの蹴りを避けて飛び下がったが、着地した先の足場が悪く、足を草に取られて体がぐらついた。そこをザースがすかさず切り込む。
ザクッと音がして、サラヤの肩にザースの剣が食いこんでいた。サラヤは右腕がだらりと下がり、片手が完全に使えなくなったように見える。心配したクレイアが声をかけた。
「サラヤ」
サラヤはそれでも表情一つ変えず、片腕が使えなくてももう一方の手に握る円剣で、動けないエフネートを狙おうとする。それを阻止すべく、攻撃をしかけるザース。立てないまま必死に剣を振り回して防戦するエフネート。三人とも血を流し、呼吸が荒くなっており、雨で体力を奪われ続ける中、誰が死んでもおかしくない。
アンジェリンはさらに話し声を大きくした。汗とも雨ともわからない水で顔も背中も冷たい。
「クレイア様、まだ私のお話、終わっていないんです。聞いてください」
「もういいわよ。黙りなさい。そなたがごちゃごちゃ言うから、戦う者たちの気が散って、サラヤが怪我をしてしまったじゃないの」
「状況がどうあれ関係ありません。言い残すことがあったらと、クレイア様がおっしゃったんですよ。一度おっしゃったことを撤回なさるのですか?」
「わたくしを批判するのはやめなさい。くだらない話は聞きたくないですわ」
「そうおっしゃらずに、フェール様のために考えた駄洒落を聞いてください。私、駄洒落を披露せずに死ぬなんて耐えられません」
アンジェリンはため込んでいた駄洒落を披露するために大きく息を吸い込んだ。
「陛下が以前に靴擦れになって、平気ですかって聞いたら、『靴がくっついた』とおっしゃった。陛下の駄洒落で私が閉口してしまって……あの、どこが洒落かわかります? 複数入れてみたんですけど」
「ええ? それが駄洒落?」
クレイアは戦いから目を放し、ぽかんとした呆れ顔でアンジェリンを見つめた。
「はい。【へい】と【くつ】という二つの言葉で遊んでみました」
「このような何の得にもならないお話をフェール様が喜ぶはずありませんわ。嘘をつくのもほどほどにしなさい」
「駄洒落って作っていると楽しいんですよ。クレイア様も駄洒落をお考えになられてはいかがでしょう」
「わたくしが?」
「何か、あっ、と驚くような駄洒落を言っていただけませんか」
「そなた、わたくしに何を期待しているの」
「クレイア様にもできます」
「そう急に思いつくものでもないですわよ。ばかばかしい」
「クレイア様のとっておきの駄洒落を死者の世界への土産にくださいませんか?」
「お土産って……おかしな方ね」
戦いはその間も続く。体制を立て直したサラヤが歩けないエフネートを再度狙って飛びかかる。ザッとザースが走った。
「!」
うめき声があがり、血が飛び散った。
「女王様!」
エフネートに向かっていたサラヤが足を止め、悲鳴をあげた。
ザースは叔父を守らず、瞬時にクレイア王女の元へ走って飛びかかり、その脇腹に剣を深く食い込ませていた。
ザースが剣を引き抜くと、クレイアは苦しげな声を出しながらがっくりと膝とついた。あわててクレイアの元に走ろうとしたサラヤの背に向かって、立てないエフネートが全力で剣を投げつけた。
鈍い音と共に、サラヤは、エフネートの剣を背中の真ん中に刺したまま、二三歩進んだ後つんのめるように前に倒れた。
倒れたクレイアは忠実な侍女の名を叫んだが、サラヤは指先を少し動かしただけだった。
ザースは、腹を押さえて横たわったクレイアの短剣を取り上げた。
「クレイア様、終わりにしましょう。あなたは私に負けたのではない。アンジェリンに負けたのだ。アンジェリンの話に気を取られ、ご自分が戦いの中にいることを一瞬でもお忘れになった。今のところ、サラヤの他にはお味方は近くにはいらっしゃらないようだ。あなたを助ける者は誰もいない」
そういうザースも激しく呼吸が乱れて、剣を杖がわりにして、少し背を曲げていた。
両足をやられているエフネートも呼吸を荒げながら座りこんでいる。もはや、誰も動けなかった。ザースはクレイアに注意を払いつつ、アンジェリンの方を振り返った。
「アンジェリン、しばし待てばそのうち誰かが必ず来る。別の場所に私の兵を手配してあったがそのうちにここへ回ってくるだろう。そなたらが連れ去られた場所がこちらだとは思わなかった。見当違いですまぬ」
「いえ、ザース様が来て下さらなかったら、今頃私とこの子は――あっ、ザース様!」
ザースは突然、くったりと膝を折り、その場に倒れた。
アンジェリンは倒れたザースの横に駆け寄り、しゃがみこんだ。息はまだある。ぐずり続ける子を足元に下ろすと、ザースの剣を拾って彼の服を裂き、傷を確認した。肩と胸の上。傷口から血があふれるように出て来ている。とにかく止血をすべきだ。大急ぎで自分の服の一部を裂いて細い布を作り、強めにしばる。これではただ覆っただけで不完全。すべてが雨に濡れていて血はじわじわにじんでくるが、薬もない以上、今は他にできることがない。
幸いだれも襲ってこない。自由に動ける者はその場にひとりもいなかった。クレイアは這いつくばりながら必死で藪の中へ逃げ始めていた。座り込んでいたエフネートも両足から激しく出血しており、その場で目を閉じてぬかるみにめり込みながら横になってしまった。
背中に深く剣が刺さった状態のサラヤは、うつぶせで倒れたまま動きもせず、うめき声すら発していない。倒れた直後はピクピクと動いていた手足も今は完全に動きを止めていた。
ウィレムはおびえて、あいかわらず泣き声を上げながらアンジェリンに抱かれようとまとわりついている。
ザースの応急手当を終えたアンジェリンは、次に、両足の太ももから出血しているエフネートに近づいた。
「エフネート様、止血しましょう。そのままでは死んでしまいます」
アンジェリンはザースの剣でエフネートの上着を引き裂き、それを巻き布にしてエフネートの両足にできた傷をきつく縛った。エフネートはおとなしくなされるままだった。アンジェリンに飛びかかる様子もない。彼の剣はサラヤの背に刺さったままになっており、手元に他の武器はなさそうだ。
「っ……おまえは本当のバカだな。俺はついさっきまでおまえを殺そうとしていたのだぞ」
「私、エフネート様のお口から真実を聞かせてほしいのです。謝罪の言葉もいただいておりませんし、ここでエフネート様を放置して去ったら、私、たぶん一生後悔しますから」
「おかしなやつめ。まるでジャネリアだ。彼女は誰にでもやさしく……死にかけの薄汚い捨て猫にでも情をかける女だった。おまえは……なぜそんなにジャネリアに似ているのか……」
エフネートは荒い息を吐きながら小さな声でつぶやいた。
「おまえはやっぱりジャネリアの娘なのか? あの時後ろにいた侍女がおまえを助けたのか? ジャネリアが侍女に子を渡すのは見ていた。あの侍女が生き延びたとしたなら……」
「さあ? 私の母親は誰なんでしょうね。私は実の母の顔すら知らないんです。母に抱いてもらった記憶もなくて」
あなたのせいで、と言いそうになったアンジェリンは、そこは飲み込んだ。恨みごとをここで言っても仕方ない。相手は大怪我をして死にかけている。真実を知るためにも、彼をここで死なせるのは違うと思った。きちんとした裁きを受けてもらい、すべてを明らかにしてほしい。
「おまえがジャネリアに似ていることは、東の牢に放り込んだときに気が付いたが……他人の空似だと思った。ジャネリアはまるで恋人のように俺と話していたくせに、裏切って別の男を選び……」
エフネートは顔を歪めている。アンジェリンは同情する気にはならなかった。
「だからと言って、誰彼かまわず殺していいことにはならないと思います」
「あのことは……若かった俺ではどうしようもなかったことだ。俺には何の決定権もなかったのだ。命じられたままに必死だった。だから、俺は権力が欲しいと思った」
アンジェリンは少しだけ意地悪な気分になってきき返した。
「あのことって、何の話です?」
サイニッスラの虐殺のことだとわかっていても訊いてみたい。
「切りつけた男が俺だとわかったジャネリアは、叫び声をあげた。今のおまえのように子を抱いて守りながら――」
エフネートは急に目を閉じて何も言わなくなった。意識を手放してしまったようだ。手早く傷口を縛り上げる。エフネートの両足は血でずっくりと濡れていて、かなりの量の出血があり、危ないかもしれない。ザース王子よりも出血量が多い。
簡単な止血が終わると、周囲に目をやった。
「えっと、次は」
ガサガサと草がすれる音がする。腹に重傷を負っているクレイアが這いながら草むらの中を進んでいるらしい。忠実なサラヤはクレイアを助けに飛び出す気配すらなく、同じ場所に倒れたままピクリとも動かない。おそらく、背中に刺さっている剣は心臓まで達していたのだろう。命はすでにないと思われた。
クレイアは動かないサラヤを見捨てて逃げようとしている。
アンジェリンは息子を抱きあげてあやしながら、クレイアに近寄った。
「クレイア様、お待ちください」
「わたくし、このような汚い場所で死にたくありませんの。ごきげんよう」
クレイアは怪我のわりにはしっかりした声を出したが、苦しそうに眉を寄せて胸を上下させていた。
「お待ちください。お怪我の応急手当てが必要です」
「敵のくせに急に親切そうな顔をしないでちょうだい。わたくしはあなたみたいな方、どうしても好きになれませんわ。押し付けの親切も迷惑だってこと、憶えておきなさい」
「ですが、そのままでは……」
「わたくしは王女です。捕まるなんて耐えられませんわ。またフェール様に蹴られるぐらいなら死んだ方がまし。フェール様はありもしないザース様の遺体を返せっ、て怒鳴ってわたくしを──」
クレイアは腹を押さえてうめきながらも暗闇の中へ逃げようとする。
アンジェリンの足は動かなかった。脳内に浮かんだフェールの腹の傷痕が鮮明によみがえって体が固まってしまった。フェールの傷より深いと思った。助かる、助からないの違いはわからない。
「クレイア様、あのっ」
「わたくしに触らないでって言っているのよ。おせっかいな女は大嫌いですわ」
アンジェリンは、そのままクレイアが藪に隠れてしまうまで見送った。あの傷ではまともに歩けず、逃げ切れるとは思えない。このまま好きにさせておいて、誰かを呼んできて救助した方が助けられるかもしれない。息があるうちに誰かが来てくれれば。
雨がひどく、全身に水が染み込んでくる。雨宿りできそうな大きな木は付近にはなさそうだ。
とにかくこのままではひとりも助けられない。非力なアンジェリンが引きずってでも連れていけるのはひとりだけ。誰を選ぶかの迷いはなかった。
「少しだけ、ごめんね」
泣いているウィレムを腕から下ろすと、倒れているザース王子のそばにしゃがみこんだ。またしても地面におろされた息子は、狂ったように泣き叫び、抱っこを求めてアンジェリンの足にまとわりついてくる。
「ウィレム、今は自分で歩きなさい。この方をお助けするのよ」
泣く息子をそのままにして、倒れているザースの右腕を引っ張って背負おうとした。
ザースは男性としては小柄だが、それでもものすごく重かった。服が水を含んでさらに重さを増している。自分の丸めた背中に乗せるだけでもなかなかうまくいかない。本当に重い。ぐったりした人を運ぶことがこんなに難しいとは思わなかった。
全力で大汗をかきながら王子の上半身を引っ張り、どうにか背に乗せることに成功すると、片手にランタンを持ち、一歩、二歩、膝を曲げながら藪の中を、王子の半身を引きずりながら歩き始めた。抱いてもらえないウィレムは、怒ってその場にあおむけに転がって手足をばたつかせて泣きわめいている。アンジェリンが進むと、息子との距離がどんどん開いてしまう。
アンジェリンは、振り返って息子を怒鳴りつけた。
「置いていくわよ。お願い、付いて来て。自分の足で歩きなさい。上手に歩けるでしょう? ハイハイでもいいの。やってみせて」
と、不意に耳元で声がした。
「……下ろしてくれ……っ」
「ザース様! 意識が戻られたのですね」
「私をここへ置いていけ」
「いいえ、そんなこと、できません」
足元は草と泥。雨が強く降り続けている。
「くっ……この体勢が傷を押されて辛いのだ。背負われるのは無理だ。下ろしてほしい。いいから、早く下ろせ」
辛いと言われてはどうしようもない。ザースの体をその場にそっと下ろした。
ザースは荒い息を吐きながら、小さな声で命じた。
「子を連れてここから離れろ。さっさと行くのだ。その子を死なせてはならない」
「わ、わかりました」
アンジェリンは、ころがってぐずっている泥まみれの息子を抱きあげた。
やっと抱いてもらえたウィレムはアンジェリンの服にしがみつき、雨でぬれた顔をこすりつけてきた。
「ごめんね……」
アンジェリンは息子に頬ずりして強く抱きしめた。小さな息子の体はどんどん冷えてきている。これでは風邪をひかせてしまう。そして、怪我をして周囲に倒れている人々はもっと危険な状態にある。大急ぎで誰かを呼びに行くべきだ。
「ザース様、できるだけ急いで戻ってまいりますから」
後ろ髪をひかれる思いで、ザースをその場に置いたまま大急ぎでその場を離れた。今にも消えそうなランタンの一つを拾い、馬車に向かった。




