85.深夜の呼び出し
アンジェリンはウィレムを抱いたまま扉を開いた。
扉を叩いた四十歳ぐらいに見える男の顔をアンジェリンは知っていた。たしか、ロイエンニが城勤めを辞退してからその代わりに侍従長になった男だったと思う。
侍従長は、丁寧に頭を下げた。
「遅くに申し訳ありません。国王陛下がお呼びでございます。親子でゆっくりなさりたいと仰せです」
「陛下が?」
彼は『今日は忙しいから会えない』と言っていた。午前中にアンジェリンのことで時間を使ってしまったからだ。それなのに今時間が取れたということは、彼はまたしても強引に仕事を詰めてしまったようだ。無理をしないようにと、あれほど言ったのに。
「ご案内します」
侍従長に言われるまま、アンジェリンはウィレムを抱いたまま部屋を出た。
外は小さな雨が降り始めていた。白花館の前には一台の馬車が止められており、それに乗るように促された。馬車の後ろの立ち台に護衛兵二名がすでに乗って待っている。
あわてて出てきたターニャが、アンジェリンと一緒に馬車に乗りこもうとすると、馬車の横で待機していた侍女に呼び止められた。アンジェリンはその侍女が久しぶりに会ったココルテーゼだとわかった。
ココルテーゼは昔と変わらず、大きな胸ではちけそうな姿で用件を述べた。
「侍女様はわたくしと一緒にこちらへ。道を案内いたしますわ。城内、ご存じないでしょうから」
ターニャは言われるまま、ココルテーゼに従ってその場を去った。
呼びに来た侍従長ともそこで別れ、アンジェリンとウィレムを乗せた馬車はすぐに動き出した。広い城内を移動するだけでも馬車を使う場合は普通にある。
アンジェリンは、王が住む塔にそろそろ着くころだろうと窓の覆いを少しずらして外をのぞいた。
「えっ?」
馬車はどういうわけか城外を走っていた。後ろを振り返ると、警備として立ち乗りしていた兵士らしき二名も、いつの間にかいなくなっている。
城外とは聞いていない。帽子も上着もなく、ウィレムの着替えすら持ってきていない。城外の近くの建物のどこかへ行くということだろうか。命令を持ってきたのは現侍従長で、命令に間違いはないはずだ。たぶんすぐそこまで行くだけだと考えて、不安を打ち消し、再びぐずりだしたウィレムをあやしていたが、ふと、この馬車に既視感を覚えた。
「この馬車……」
馬車の中に最初から灯されていたランタンの小さな光で、内装をよく見る。特に大きな特徴もないよくある個人用馬車。四人乗りとしては普通の大きさ。窓に付けられた、ひだがたっぷりとってある黒っぽいカーテンが、以前に乗ったことがある馬車と似ていた。
ウィレムを抱いたまま腰を上げ、座席を調べた。座席の板をめくるように上げれば、その下には大きな空間。
かつて、フェールと共に王都を出るときに、シドがこの空間に二つの荷物を詰めてくれた記憶はまだ薄れていない。
アンジェリンは寒気を感じながら窓から見える外を確かめたが、暗くてどこを走っているのかわからなかった。
──この馬車は本当にディンの使いなの?
そういえば、御者の顔はしっかりとは見ていないが、フェールと王都を脱出した時の御者に似ていた気がする。向こうは、アンジェリンがあの時の妊婦姿の女だったと気が付いていないようだったが。
――間違いないわ。この馬車はヘロンガル家の。
そういえば、ココルテーゼはヘロンガル家の血を引いていたことを思い出した。彼女の父親はエフネート・ヘロンガルの腹違いの兄だが、ヘロンガル家の一員だと認めてもらっていないという話も。父親がエフネートの兄だと認めてもらえないために廃貴族として育った彼女は、どうしても王族と結婚したいと頑張っていたのだ。
――ココちゃん。ターニャを連れて行ったけど、信じていいの? 私はこの馬車に乗っていても大丈夫なの?
馬車は止まらず走り続ける。ターニャが一緒でないことでさらに不安が高まっていく。
そのうちに石畳はなくなり、周囲には民家の灯りが見えなくなってしまった。まだそれほど長い時間走っていないように思ったが、今走っている道の両側は、どちらも木立が続いており、森の中の小道を走っているように見える。
やはりおかしい。冷静に考えるべきだった。フェールならばアンジェリンと子どもだけを城外に呼び出すような危険行為はしなかっただろう。こんな形で城外へ連れ出されるとは考えもせず、疑いもなく『敵』の馬車に乗ってしまった自分が嫌になる。護衛兵の姿はどこにもない。
ティアヌという女性が連れ去られて殺された話を思い出し、息苦しくなってきた。
――このままでは殺される? それならじっとしていられないわ!
アンジェリンはためらわず大声を出した。
「すみません、ちょっと気分が悪いんです。馬車を止めてください」
御者の男は、アンジェリンの必死の訴えに気が付き、すぐに馬車を止めてくれた。
アンジェリンはほっとしながら馬車から降りた。
「ありがとう。酔ってしまって吐きそうです。その辺りで用足ししてきますから、少し時間がかかるかもしれませんが待っていてください。人が来ないよう、ここから動かず見張りをお願いします」
「大丈夫ですか? 雨が降ってきましたし、目的地はもうすぐそこですが」
「すみません、気分が悪くってがまんできません」
「お子さんをみていましょうか?」
御者の男は全く疑うことなく、心から心配してくれているようだった。やはりあの時の御者と同一人物だと思う。
「ありがとうございます。御親切はうれしいのですが、私の姿が見えないと大泣きしてしまいますので、このままで。少しだけ失礼します」
アンジェリンは演技で気分悪そうに顔をしかめて軽く会釈すると、道に面した暗い森へ入った。
ちらっと見えた馬車の扉には、見覚えがあるヘロンガル家の紋章が刻まれていた。矢を咥えて飛ぶ鳥の絵。
この馬車はやはりヘロンガル家所有の物。フェールがシャムアへ行くときにシドと共に乗った馬車だ。
辺りは真っ暗で民家の灯りは見えない。ガサリ、ガサリと音を立て、膝たけほどに茂った藪をかき分け進む。こんなにガサガサ音がしては、どこを歩いているかわかってしまうが、逃げるなら今しかない。
できるだけ遠くへ。方向など考えていられない。とにかくヘロンガル家の馬車ならばこのまま連れて行かれるのは危険。これが本当にフェールからの使いならば、彼はきっと探しに来てくれるだろう。
暗くて足元が全然見えない。草と石で足を取られた。よろめいてうっかりウィレムを落としそうになり、あわててギュッと抱き直した拍子に、目の前に出ていた細い木の枝で、ウィレムの頭をひっかいてしまった。驚いたウィレムは完全に目を覚ましてしまい、暗闇の中で不機嫌な泣き声を上げ始めた。
「ごめんね、静かにして」
暗闇の中に幼子の泣き声は目立ちすぎる。落ち着かせようと体を揺すってやっても、すぐに黙るものでもない。そうしている間も足を進め、できるだけ馬車から遠ざかる努力をする。しかし、これでは発見してくれと全力で叫んでいるようなものだ。
「あっ」
また足を取られ、今度は派手におしりをついてしまった。腕の中のウィレムは無事だったが、足元はどうやら湿地になっているらしい。どろりとしたぬかるみの感触が足首まで巻き付いていた。泣き声で今まで気が付かなかったが、どこかから水音も聞こえる。これ以上進むのは危険だろうか。この先はどうなっているのだろう。川があるなら方向を変えないといけない。早く逃げないといけないのに、どちらへ行けばいいのか。
「お願い、泣かないで」
焦りながら揺らしてやるが、ウィレムはさらに大きな泣き声を上げる。声は耳が痛いほどになった。
ひたすらあやしながら歩いていると、背後に人の気配を感じた。複数のランタンの光が後ろから……ランタンの数は五つ以上。
御者はひとりしかいなかったはず。
アンジェリンは恐怖にかられて足を速めようとしたが、ぬかるみでは思うように進めない。ランタンとの距離がだんだん縮まってきている。
やがて、草がかき分けられ、ランタンを持って先頭にいる男の姿がはっきり見えてきた。
──エフネート様。
アンジェリンは悲鳴を上げたくなるのをかろうじてこらえた。
間違いなくエフネート本人だった。短い黒髪。冷たそうな切れ長の目がランタンの灯りで不気味に光る。
「リーザ様……とお呼びしないといけないのだが、あいにく罪人に敬意を払う習慣は持ち合わせていない。おまえは実に不快な女だ。勝手にこのようなところまで逃げるとはな」
エフネートはじわじわ近づいてくる。その顔には笑顔の欠片もない。
「どうしてエフネート様がここにいらっしゃるのでしょう」
「おまえに用があるからに決まっているだろう」
「あっちへ行ってくださいませんか。ちょっと用足しをしたくて」
無駄だと思ってもそう言うしかない。エフネートは冷たい笑いを浮かべた。
「はっ、子どもを抱いたままで用足しする気か? 言い訳は必要ない。一緒に来てもらう」
「陛下のお呼び出しではなかったのですね? エフネート様は私を騙したのですか」
「お忙しい陛下がおまえをこんな時間に呼び出すとでも思うのか? 今日は陛下の仕事を特別に増やしておいた。まだまだ陛下は働いておられるはずだな」
「わざと陛下のお仕事を増やすなんて、どうして」
「そういうわけで、陛下がおまえを助けにここへ来ることは期待できぬからあきらめろ。なんだ、その目つきは、偉そうに。もう王妃になったつもりか? 陛下がおまえを婚約者扱いしても、おまえと陛下は絶対に結婚できない。おまえは殺人犯だからだ」
また過去の話題を引きずり出すのか。アンジェリンはうんざりしながら言い返した。
「秘密裁判の時にも言いましたけど、私は殺人は犯しておりません。メタフ村でのことは、マニストゥって人が全部仕組んだことです。マニストゥはエフネート様のお知り合いですよね? もしかして、エフネート様がからんでいたのではないのですか?」
エフネートは声を出して笑い始めた。
アンジェリンに睨まれても、エフネートは薄笑いをやめない。
「なにがそんなにおかしいんですか?」
「おまえがあまりにも頭が悪いからだ。殺人はあの裁判の事件とは別件だ」
「はい?」
エフネートは勝ち誇ったように宣言した。
「ティアヌ・バイスラー殺害容疑でおまえの身柄を拘束する」




