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75.再会の喜びと悲しみ

 フェールは早朝から馬を走らせてサイニッスラ高原に向かっていた。王の移動に付き添う近衛兵たちを引き連れ、はやる思いに汗だくの馬をせかし続ける。


 昨日、フェールはマナリエナからすべてを教えられた。アンジェリンが生きていて子を産んだこと。今はサイニッスラ高原の虐殺があった土地で暮らしていること。

 マナリエナが隠し持っていたアンジェリンの秘密裁判の記録も見せてもらい、死刑判決を出した亡き父王本人がアンジェリンの処刑を回避する命令を出し、その命を密かに救っていたことも知った。父王が亡くなり、アンジェリンのことを決める者がおらず、彼女はそのまま牢獄に置かれたままになってしまった。それに気が付いたマナリエナがアンジェリンに恩赦を出して解放。そして今に至るらしい。

 レクトが言っていたとおり、彼女は確かに何日もあの牢獄に閉じ込められていたのだ。その時点ですでに腹に子を宿し、怪我を負った体で。


 ──私は何も知らなかった。だが、それですべて許されるわけではない。今までアンに与えた苦痛のすべてをこれから償う。彼女を幸せにする。


 マナリエナから聞いた話では、出産のことを伏せるようにと言ったのはアンジェリン本人らしいが、その気持ちを考えると、もっと早く気が付いてやればと、後悔が押し寄せてくる。どれほど心細い思いをさせていたことか。

 マナリエナは、ヘロンガル家を警戒して頻繁に王子に会いに行くことは控えていると言った。

『今まで黙っていたのはすべてそなたのため。そなたが王として、心を入れかえて後ろ盾のある別の女性を迎えるならば、庶子もニハウラック家の女も必要ありません。もちろん、ウィレムはわたくしの孫である以上、わたくし個人としては墓参りを名目にして、時折面会し、数年後にはウィレムを貴族の養子に入れることも考えています』

 このままでは、密かに生まれた王子ウィレムは、フェールの息子であることも、マナリエナが実の祖母であることすら知らずに成長するだろう。


 ――そんなことはいやだ。庶子などではない。私の嫡子だ。養子になど出されてたまるか。


 マナリエナは厳しい現実を次々つきつけてきた。

『よく考えるのです。最悪の場合、アンジェリンは、また襲われて屋敷ごと燃やされるかもしれません。王妃を決める大切な時期に出てきた身元の怪しい母子など邪魔なだけ。それが、ニハウラック家の生き残りだと明らかにしたらさらに危険は増すでしょうね。今、彼女の元へそなたが行けば、後には引けなくなります。半端な気持ちでは彼女たち全員が死にます。それだけでは済まず、そなたは王位を追われ、罪人として処刑されるかもしれません。それでは彼女たちを守れませんよ』

『では、このまま放置しておけばよいと母上はおっしゃるのか』

『それはそなたが決めること。そなたの動きのすべてはおそらくヘロンガル家に報告されています』

『報告したければ勝手にすればいい。そのようなことは私にはどうしようもないことだ』

『しかも、敵はヘロンガル家だけでなく、逃げているクレイア王女とその残党もいます。そなたに恨みを持つ廃貴族も王城内にいると思った方がよろしいでしょう。現に、見えない敵はティアヌを簡単に殺してしまいました。それでも、アンジェリンを望みますか? 彼女を守り抜く覚悟はありますか?』


 フェールは、命をかけてでも彼女たちを守ると答えた。それが、自分が生きる意味だと。

 このまま放置しておいたとしても、彼女の真の情報がどこかからもれてしまう可能性がある。彼女は自分が知らないうちに消されてしまうかもしれない。

 ──ならば、今すぐに会いに行く。お互いが生きているうちに。


 夏の日射しの中、フェールは馬を走らせ、アンジェリンが住む家へ続く坂道を登って行った。

 ――アンがそばにいてくれるなら、私は何でもできる。どんなことでもやってみせる。早く、早く顔を見たい。今度こそ、全力で守ってみせる。


 樹木が生い茂る中に作られたつづら折りになった道を進んでいくと、やがて、急に視界が開け、この付近がヴェーノ家の所有であることを示す木製の立看板が目に入り、赤い屋根の建物が見えた。


 息を荒げる馬から飛び降り、屋敷の扉を叩いた。

 顔を出したのはロイエンニだった。

「これはこれは、国王陛下。暑い中、ようこそお越しくださいました」

 フェールはすっと腰を落とし、右ひじを曲げ、手のひらを胸にあて、ロイエンニに対し正式な王族の礼をした。

「ロイエンニ・ヴェーノ殿。アンジェリンのことは勝手に連れ出しただけでなく、怪我を負わせ、そして放置してしまい、本当に申し訳なかった。私はアンジェリンが死んだと言い聞かされ、子が産まれたことも何も知らずにいて、長い時を置いてしまった。それでも私は今でもアンジェリンを愛している。私の正妃として迎えたい。お許しいただけるだろうか」

「それは娘次第でございます。娘ならば、今、子供と散歩に出かけております。ご案内いたしましょう」


 ロイエンニはフェールを建物の裏にある森へといざなった。

 大きな木が青々とした広い葉を広げた静かな森。暗くても気持ちの良い風が通る日陰の小道を歩く。ここもすべて敷地内らしい。

 森の中を進んでいくと、すぐに明るい場所が見えてきた。そこは木が刈り込まれ、古い切り株の間に小さな砂場が作られており、木製の滑り台が置かれていた。

「あちらでございます」

 ロイエンニが指した方を見れば、広場の隅の木陰に女性二人と小さな子供がいる。

 よちよち歩きの子供によりそう女性たち。ひとりは服装から見ておそらく侍女。あれがターニャのようだ。もうひとりの女性は、ひさしの大きな帽子をかぶっていて顔は見えないが。

「アン!」

 フェールはこらえきれずに、名を呼ぶなり、笑顔で走り出していた。



 大きな日よけ帽子をかぶった女性は、かけてくるフェールに気が付き、帽子のひさしに手を当てた姿勢のまま固まった。後ろからぞろぞろついてくる警護兵の数にも驚いたようだった。

 フェールはもう一度叫んだ。

「アン、私だ」

 侍女らしき女性の方は、一同に気が付くとすぐに子供を抱き上げた。

 フェールは帽子の女性に駆け寄り、帽子の下に隠れている顔を確認した。相変わらず重そうな前髪の下に緑の大きな目があった。

「アン、やっぱり生きていたのだな。よかった」

 アンジェリンはフェールとは目を合わさず、奴隷のように深く頭を下げた。

「陛下、暑い中、このような奥地にようこそいらっしゃいました。お疲れでございましょう。警護の皆さまにもお茶を用意させます。屋敷の中へお入りくださいませ。ターニャ、皆さまをお部屋にご案内して」

 アンジェリンはそう言うと、侍女から子供を抱き取った。小さな子供は大勢の人を見たことがないのか、おびえた目でフェールたちを見ている。マナリエナから聞いた情報通り、子供の目は珍しい左右色違いで、琥珀と緑だった。フェールとアンジェリン、両方の目の色を持っている。


「今日はその子を迎えにきた。抱かせてくれ」

 フェールが子に触れようと近づくと、アンジェリンはつらそうに顔をゆがめ、すっと身を引いて後ろへ下がった。

「子の服が汚れておりますから、後の方がよろしいと思います。すぐに着替えさせますので、失礼します」

 アンジェリンは、頭を下げると、フェールに背を向け、子どもを抱いたままさっさと歩き出していた。

「アン?」

 フェールはアンジェリンの反応に一瞬戸惑ったが、兵たちの手前もあるから大喜びできなかったのだろうと解釈し、ターニャに導かれいったん屋敷へ入った。


 フェールは、屋敷内でロイエンニにもてなされてアンジェリン母子を待っていたが、二人はなかなか現れなかった。

 時間が気になるフェールは、アンジェリンがいる部屋へ直接案内させた。午後からは重要会議の予定が入っており、帰路にかかる時間を考えると、ゆっくり待っている余裕はない。

「こちらでございます」

 ロイエンニに伴われて案内された部屋は鍵がかかっていた。中からは女性の絞り出すような泣き声が聞こえる。それは幼な子の泣き声とは明らかに異なっていた。


 フェールは胸を詰まらせながら中の様子を想像した。

 ──アンが泣いている? なぜこんな悲しい泣き方をしている?

 ロイエンニが扉越しに呼びかけた。

「アンジェリン、何をしているのか? 陛下がお待ちだ。ここまで来ておられる。お時間がないそうだから、さっさと仕度して出てきなさい」

 フェールも声をかけた。

「話したいことが山ほどある。私はおまえに謝りたいのだ。私のしたことを怒っているのか? 頼むから開けてくれ。それに、その子のことをきちんとしたい。おまえを妃に、ウィレムは王太子として城に迎える。おまえの出自のことも母から聞いた」

 室内の泣き声が一段と大きくなった。普段は穏やかなロイエンニがついに怒鳴りつけた。

「アンジェリン、いいかげんに開けなさい! 陛下をお待たせしてはいけない」


 やがて、カチャリ、と扉が遠慮がちに開き、顔を真っ赤にしたアンジェリンが扉の向こうに姿を見せた。

「……お待たせして申し訳ありません……でした」

 アンジェリンはしゃっくりあげて泣いている。

 フェールはかける言葉に困った。放置したことを怒っていたとしても、いくら何でもこの反応はない。想像していた笑い合って抱き合う絵とはあまりにも違う。

「私との再会はうれしくないのか」

「へ、陛下……あ、あの……陛下……っ」

 泣き続けるアンジェリンの唇は小刻みに震えていて、うまく言葉になっていないようで、口の中で何かごもごも言っている。

「なんだ。何が言いたい。時間がないと言っているではないか。今日は駄洒落はいらぬぞ」

 アンジェリンは首を左右に激しく振った。

「駄洒落は……今私が思いつける駄洒落なんかひとつもありません。陛下の道化は私には務まりません。だから……」

「駄洒落など今はどうでもよい。私はその子を抱かせてほしいと言っているのだ」

「ウィレムのことは……お許しくださいませ」

「何を許せと言うのだ。許しを請うべきは私の方なのに」

 アンジェリンは背を丸め、すすり泣きで体を震わせ続けている。


「アン……いったいどうしたのだ。なぜそのように泣くのか」

「ウィレムは……」

「王太子として城に迎えるから」

「……ウィレムは……陛下の御子ではありません」


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