72.誘拐
王の新恋人、最有力王妃候補とうわさされている当のティアヌ・バイスラーは、のんびりしたものだった。彼女はその日も自宅の屋根裏部屋の窓から空を見上げていた。
今夜の空には全体に薄曇がかかり、星の姿は確認できない。この天気では城から呼び出しがかかることはない。入城許可書を持った王の代理人がこの屋敷に来るのは、星が多い晴天の夜限定で、しかも、王の体が空いている日のみ。満天の星の夜でも連絡がないときは何度もあった。
「だめ、見えないわ」
湿った風が窓から入り込む。今夜から明日にかけては雨が降りそうだ。次の会合はいつ、と自分では決められないことがもどかしい。
「早く晴れないかなぁ」
ため息交じりに空を見上げても、空模様は変化しそうにない。
そんなティアヌの背後に、黒い影が足音もなくひたひたと近づいていた。
頭にフードをかぶり、顔の目の部分以外を布で覆ったその不審者は、ティアヌを後ろから――
◇
「女王陛下、お求めの女を生きたまま連れてきましたぞ」
「ご苦労でした、マニストゥ。尾行は付いていないですわね?」
「それは大丈夫ですぞ。何度も馬を止めて後ろを確かめておりますゆえ」
「よろしい。その娘の目隠しと口の覆いを取ってあげなさい」
目隠しを取られて視界が開けたティアヌは、震えながら周りを見回した。
見知らぬ家の中。木製のテーブルに丸椅子。雑に積みあがっている古そうな本や埃をかぶっている小物。貴族の館や城の中のような豪華さは感じられず、ごく普通の平民の家の一室のようだった。たいして広くもない室内に、男女数人が壁際に立っている。
目の前の椅子には若い女性が腰かけていた。
「はじめまして、ティアヌ・バイスラー。わたくしはフェール様の元婚約者、ザンガクムの女王クレイア。手荒に扱って悪かったけれど、こちらにも事情がありますの。あらあら、泣いていたの? ひどいお顔ですこと。それでは涙をふくこともできないでしょう。サラヤ、手足の縄も解いてやりなさい。自由を与えても、この子がひとりで逃げることは無理でしょうから」
すべての戒めを解かれたティアヌは、動けずその場に立ち尽くしていた。
クレイアは穴があくほどティアヌの全身を観察すると、ティアヌのすぐ後ろに立っているマニストゥに視線を移した。
「マニストゥ、まさか人違いではないでしょうね。本当にこの子がフェールに選ばれた子なの?」
「へい、それは間違いない筋からの情報でございます」
クレイアはティアヌに視線を戻した。
「そなた、齢はおいくつ?」
「……っ」
ティアヌは顔を上げたが恐怖のあまりすぐに声が出なかった。クレイアはいらだった声で返答を促した。
「答えなさい! 年齢はいくつかと訊いているのです」
「十六に……なったばかりです」
「十六? 若く見えるわね。サラヤと変わらないかと思いましたわ。フェールがこんな子どもっぽい子を選ぶなんてちょっと意外。ティアヌ・バイスラー、わたくしはそなたに聞きたいことがたくさんあるのです。そなたがフェールの新しい恋人だとうわさを聞いたのだけれど、それは真実?」
「それは……あの……」
「あきれた子ね。きちんと返答もできないの? そなたはあの男の恋人? どうなのです?」
ティアヌはびくっと背を丸め、小さな声で答えた。
「ち、違います。私は陛下の恋人ではありません。そう思っておられる方は多いみたいですけど」
「えっ、違うの? 夜にフェールと二人きりで会っていると聞いたのですが? そのお相手は、そなたではない別の女性ってことかしら?」
「……たぶん、うわさになっているならば、それは私のことだと思います。でもそれは、陛下が星を見るために我が家の望遠鏡をお使いになられるので、私がご一緒しているだけのことでございます」
「では、そなたは、自分は王の恋人ではない、と言いはるのね? あの男はそなたに手を出さないわけ? 手もつないだことがないの?」
「陛下は階段を登るときは仕方なく私の手を引いてくださいますが、それ以上の関係はございません」
「それでも二人で星を見ているなら、二人は恋人同士。そういうことでしょう?」
「いいえ。星を見るのも、この頃は二人きりではなく、警備兵の方々もご一緒していて皆さんで楽しんでおります」
「星を眺めてはいるけれど、二人きりの甘い時間ではないと……それは残念ですこと」
クレイアは、ふぅ、と息を吐き、再びマニストゥに尖った視線を向けた。
「マニストゥ! これはそなたの失態。この子、やっぱりあの男の恋人じゃないみたいですわよ。無関係な子を連れてくるなんて、よけいなことをしてここがばれたらどうするつもりです」
マニストゥは、怒りのクレイアにも平然と返した。
「女王陛下、失態ではございませんぞ。この娘にフェール王が心惹かれつつあることは事実。この娘にその気はなくとも、人質としての価値は充分ございます」
「こんな小娘では、あの男が動くとは思えませんわ。ただ望遠鏡を貸すために一緒にいるだけの相手なんて」
「わしは、それでも王は必ず動くと見ております。王は間違いなくこの娘を気に入っております。身代金を要求すれば、必ず満額入りましょう」
クレイアはうんざりした顔になった。
「またそなたはお金ですか。お金なんかよりも、わたくしは、あの男に泡を吹かせてやりたいのです。あの男自身が出てこないとお話になりませんわ」
「王が動いてくれないとなったら、バイスラー家に身代金を要求してみたらどうでしょうなあ。王家から金が出なくてもバイスラー家からなら絶対に取れますぞ」
「黙りなさい! わたくしはバイスラー家からお金を脅し取るためにこの子を連れてこさせたのではありませんのよ。わたくしはいつかフェールに代わってこの国を治める者。無駄に犯罪者になりたくありませんわ」
「バイスラー家の方がフェール王に泣きつく可能性は充分ありますぞ。うまくいけば王をひっぱり出せるかもしれませんなあ」
クレイアは、ヒステリックな声で、マニストゥに次々ときつい言葉を並べたてる。マニストゥはのらりくらりとその攻撃をかわす。室内にいる他の者は誰も何も言わずただそれを見ている。
ティアヌはその光景を不思議な思いで見ていた。どうやら女王が望むのはフェールとの面会らしいと理解した。自分は王の恋人だと勘違いされて、王を呼び出す道具として連れてこられたようだ。女王の様子から、今すぐに殺すつもりはなさそうで、ティアヌは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「あのう……」
言い争っていたマニストゥとクレイアは、突然口をはさんだティアヌに目を向けた。
「お話し中すみません。私がここにつかまっていると陛下が知ったとしても、陛下はおそらく、ご自分では動かないと思います。捜索の兵を派遣するぐらいはしてもらえるかもしれませんけど」
「そなたは、自分がフェールにとってその程度の価値しかないと思っているのですね?」
ティアヌは強く頷いた。
「繰り返し申し上げますが、私は陛下の恋人ではないです。陛下の御心には私ではない別の誰かがいらっしゃいますから」
「あらそうなの?」
「陛下はいつも、亡くなられた女性を想いながら星を見ておられるんです。星を見上げる時の陛下の御心は、いつもその女性のことでいっぱいです。横にいて星を共に眺める相手が私であってもなくても関係ないです」
「ふーん、あの男、思い込むと結構しつこいのかもしれませんわね」
「陛下はとても悲しそうに星を見ておられますが、実はその女性は、本当は生きているらしいんです。けれど、陛下はそれをご存じなくて。私はご一緒するたびに、陛下にその女性が生存していることを伝えるべきかどうか、迷っています」
クレイアは目を細めた。
「……その女の名前、訊いてよろしくて?」
「うろおぼえですが、アンジェリンなんとかだったと思います。王族付きの侍女がそんなことを言っていました」
「そのアンジェリンって女、間違いなく生きているのかしら」
「らしいですけど、私は顔も知らない方なのでよくわかりません。陛下の本当の恋人はその女性です」
「そう、わかりましたわ。ティアヌ、貴重な情報をありがとう。今夜はここに泊まっていきなさい。明日の朝には帰してあげましょう」
マニストゥが不満そうに舌を鳴らした。
「女王陛下、そのまま帰すとはもったいない。せっかく捕まえたのに金が入らんとは」
「マニストゥは黙りなさい! 鬱陶しい」
クレイアはティアヌを別室に監禁すると、ころころと楽しげな声で笑った。
「ふふふ、アンジェリンって女の居場所を突き止め、ここへ連れてきたら……フェールの前でその女をじわじわ痛めつけてやるわ。その女さえ手に入ればこっちのもの。フェールは何でも言うことを訊くはず。二人ともぼろぼろにして王位だって奪い取ってやりますわよ」
『アンジェリン』という名の侍女がフェールの恋人だったという情報は入手済み。戦争前、マニストゥの家でフェールがその女をかばって武器を捨てたことも、マニストゥから訊いている。その侍女は処刑されたとの情報を信じてしまったが、クレイアとの結婚が持ち上がっていた当時の状況を考えれば、彼女は密かにどこかへ逃がされ、今も生き延びていると考えても不自然ではない。
「マニストゥ、ティアヌを帰したら、その足でアンジェリンの居場所を調べてきなさい。調べがつくまで戻ってこなくていいわ」
「では、その資金を少しばかり頂戴したく──」
「そなた、口を開けば『お金』としか言わないわね」
翌日の早朝、マニストゥは、クレイアの命令通りにティアヌを帰すために隠れ家から連れ出した。連れてきたときのように、逃げないように手足を縛り、目隠しと口に覆いをした上で馬に相乗りする。
まだ夜も明けない暗い道。途中からは一般の道に入ったが、早朝で通行人は誰もいない。
「このまま帰すとは勿体ないですなあ。せっかくの金づるがここにあるってのに。お嬢さん、もうちょっとだけお付き合いいただきますぞ。もちろん、女王陛下には内緒で」
マニストゥは動く馬の上でグフフフと気味の悪い笑い声を立てた。ティアヌは体をこわばらせて届かない悲鳴を口の中であげた。
「──!」
「お静かに。皆寝静まっておりますゆえ。まずは娼館にお入りくだされ。貴族の生娘なら良い値で売れそうですなあ。同時に、バイスラー家からも身代金も頂戴します。そうすれば、うまくいけば王からも金が来るかもしれませんからなあ。ヒヒヒ」
「!」
「おとなしくしなされ。娼館でいい子にしていたらそこそこ稼げますぞ。客が付かないなら、わしが常連の客になってやってもいいですなあ。おや、娼館とは何をする場所かご存じないですかな? では到着までに教えてあげましょうかのう。なんなら実際にどういうことをやるのかも」
マニストゥは下品に笑うと、抱きかかえているティアヌの尻をなでるように触れた。
「──っ!」
ティアヌは縛られている身を全力でよじった。
「あっ! おい、こらっ!」
マニストゥが大声を上げたときには、ティアヌの体は支えていたマニストゥの腕から離れ、馬から落ちていた。
マニストゥは慌てて馬を止め、道端に落下したティアヌに駆け寄った。
「チッ、これでは売り物にならんわい」
マニストゥは舌打ちして、倒れているティアヌの体を思い切り蹴り飛ばした。
◇
フェールは久しぶりに白花館の母の部屋に呼び出された。国王となった今、フェールを呼び付けることができるのは、王太后と呼ばれる身になったマナリエナだけ。普段は顔すら見ないマナリエナの呼び出しとあれば、ただ事ではないと思われ、国王といえども無視するわけにはいかない。
マナリエナは、茶を用意した侍女を下がらせ、室内でフェールと二人きりで丸テーブルに着くと、さっそく話を始めた。
「ティアヌ・バイスラーとうわさになっているようですね」
フェールは、ふん、と鼻で笑った。
「うわさが先走っていても、私は彼女を妃に迎える気はまだありません。彼女は星空に詳しい学者だから、星のことをいろいろ教えてもらっているだけです」
「妃にするつもりがないのならば、軽々しい行動は慎むべきでした」
マナリエナの言い方は刺々しい。
眉間にしわが入り険しい顔をした母親に、フェールは少々驚いたが、別に何もやましいことはしていない。手を引いて階段を上っても、口づけや抱擁をしたことはない。楽しい星の勉強会を『軽々しい行動』と言われると腹も立つ。フェールはすぐに反論した。
「共に星を眺めているだけのことが軽々しい行動とは思っておりません」
「ならば、どうして彼女を特別扱いにしたのです? いつかの祝賀会の時も、彼女を自分から誘ったでしょう」
「あの時は、月光の下で、ティアヌが死んだアンジェリンに似ているように見えて……惑わされて……いや、だが、ティアヌとアンジェリンは全然似ていない」
言葉の勢いが尻すぼみになってしまったフェールに、マナリエナはあからさまに呆れた顔をした。
「ティアヌがアンジェリンに似ていたから、人目のある場所でたまたま声をかけて、夜にときどき会っている? それでも王妃にとは考えていないと言うのですか。それでは世間の人々は納得しませんよ。世間では妃が決まったと大騒ぎになっていたのに」
「そんなうわさ、どうせ身内から王妃を出したいバイスラー家の者が広めているに決まっている。現実には私は王として妃を迎え子をなさねばなりませんが、今はまだ、私の心にはアンジェリンが住んでいます。彼女の代わりには誰もなれない」
マナリエナは険しい顔を少し弛め、目を伏せた。
「フェール……今もアンジェリンのことをそんなにも……」
「それが何か? 彼女の名誉回復と墓参りすらまだ終えていない」
「彼女のことは機会を見て話すつもりでした。そなたは忙しすぎる身でしたから」
「アンジェリンの墓の位置が判明しているなら、今すぐ教えていただきたいです。私は心からアンジェリンにわびないといけない。ティアヌをアンジェリンと同等に扱うことなど、とんでもないことだ」
気のせいか、マナリエナのまつげが水を含んでいるように見える。
「そう……そなた、ティアヌを愛していないのですね」
「愛するということと、友として会うこととは意味が違います。軽々しく夜に会っている、と言われるのならば、今後はティアヌを城へ招くことはしません。私はそれでもかまいません」
「アンジェリンを今でも愛しているのならば、その気持ちを大切にしなさい。わたくしは、そのようなことを咎めるつもりはありません。わたくしはどこまでもそなたの味方です。妃選びの話はしないように皆に働きかけておきます」
「母上?」
「それに、妃を迎えたところで、世継ぎに恵まれるとは限りませんものね。シャムアで負った傷のせいで子を持てないかもしれないのでしょう? 結婚しても子が生まれないなら、妃選びを急ぐ必要はありません。そなたは王としての仕事はよくやっています。王としての型にはめようとする皆が悪いのです」
マナリエナの言葉にフェールは首をかしげたくなった。母親が何を言いたのかさっぱりわからない。さきほどまで眉間にしわを寄せた怖い顔をしていたくせに、このようなやさしい言葉を吐くのは奇妙だ。気持ち悪い。わざわざ呼び出したということは、何か裏があるはずだが。
「母上は皆と同様に、処刑されたアンジェリンのことなどさっさと忘れて、ティアヌを妃に迎えて世継ぎを作れと言うために今日、ここへ私を呼んだのではなかったのですか?」
マナリエナはさらに視線を落とした。完全に首が下を向いてしまっている。
「わたくしはそういうお話がしたかったわけではありません。ああ……嫌なことを言う役はまたしてもわたくし。ザースが亡くなった時もそなたにそれを告げたのはわたくし。わたくしはこの役をまた引き受けてしまいました」
マナリエナは下を向いたまま、消えそうな声で告げた。
「ティアヌ・バイスラーは、今朝、無残な遺体となって発見されました」




