66.忘れられない人
高原の家にやってきた客の男性は、部屋に入ってきたアンジェリン向かってにこやかにほほ笑んだ。彼の茶色く丸い目がうれしそうに細まっている。
「アンジェ、具合はどう?」
久しぶりに見る顔に、アンジェリンも笑顔になった。
「レクト! 生きていたのね。よかった……。こんな遠い場所まで来てくれて」
「たまたま王都でロイエンニさんに会ったから、わがままを言ってここへ連れてきてもらったのさ。アンジェとはあの牢獄以来だから、ずっと気になっていた」
「私なら、もう元気になったから大丈夫。毛布を差し入れてくれたレクトのおかげで凍死せずに済んだの。本当にありがとう。知り合いに会うのは久しぶりだから、なんだかとっても新鮮」
久しぶりに会った同期の友に、アンジェリンの心は城勤めをしていたころに戻り、話は弾んだ。その場にいたロイエンニとターニャは、話に夢中な二人に気を遣ってさりげなく席をはずした。
「ねえ、レクトは反乱軍には入っていなかったの?」
「ああ、あの城内のごたごた事件か。実は、内緒だけど、俺もあの時の廃貴族の反乱に誘われていた。でも俺は王家に反旗を翻すなんて、怖くてとてもじゃないけどできなかったよ。反乱は失敗して、反乱軍に入ったやつらは全員処刑された。きっと俺みたいに反乱に誘われた誰かが情報をもらしたのさ。反乱軍に入らなくて助かったよ」
「……あの時、牢獄の他の部屋にいた人たちは全員亡くなったのね……」
「アンジェが知っているやつもいると思うよ」
レクトが上げた処刑者の名前には、アンジェリンが知っている名がいくつか含まれていた。処刑されたのは実際に反乱行為に走った年若い廃貴族の男ばかりだったが、その者たちの家族も重い処罰を受け、城内で働く廃貴族の数は大きく減ったという。
アンジェリンは暗い気持ちで亡くなった人々の顔を思い浮かべた。ここにいるレクトが知っているのかどうかわからないが、牢獄に入れられていた人たちは『エフネートに嵌められた』と言っていた。反乱計画そのものが廃貴族つぶしだった可能性があったことをレクトに言うべきだろうか。
──でも、今更、そんなことをレクトに言ってもどうにかなるものでもないわよね。
アンジェリンが迷っているうちに、レクトはまた話し始めた。
「廃貴族の数は減ったけど、ココルテーゼは変わらず元気にしている。俺は……」
レクトはそこで言葉を濁した。
「レクト?」
「アンジェ、俺さ……その城内の反乱の時に右ひじに怪我を負って、もう剣が持てなくなったから警備兵を辞めたよ」
「えっ、怪我を? 大丈夫なの?」
アンジェリンはレクトの腕を見たが、服の上からでは怪我の状態はわからない。
「日常生活は普通にできるけど、利き手のひじをやられているから、手がときどき突っ張った感じがして、素早く動かすことができなくなった。これでは剣どころか、警棒すら振り回せない。王族の警備なんて無理さ。怪我をしてしばらくの間は城内で療養していたんだけど、いつまでも仕事をせずに置いてもらうのはつらいから、城の仕事は辞退することに決めたんだ」
「大変だったのね」
「まあそれもいいかと思っている。俺はもともと警備兵なんて向いていなかったから、これでよかったのさ。俺、反乱の時に、敵に向かって剣を振り下ろすことができなかったんだ。知っている顔だったからためらってしまってさ。で、もたもたしていて自分が負傷」
レクトは軽く笑って見せた。その笑顔はすっきりしている。
「腕が使えないなら、今はどうしているの?」
「家を継ぐことになった。アンジェに会えたら報告したいと思っていた」
「じゃあ、王都に住んでいないの? レクトの実家って遠かったわよね?」
「うん、それがさ、継ぐのは実家ではなくて、ザンガクム国境近くの親戚の家なんだ。戦争の時に、屋敷がザンガクムの敗残兵に襲われて、屋敷の男はみんな殺されたらしい。それで、ちょうど俺が役立たずで暇だったから、俺がその家を継ぐ話に決まった」
「そうだったの。レクトのお父様やお母様は」
「俺の両親はその家に住んでいなかったから無事だけど、その屋敷に住んでいたいとこの奥方が、幼子を抱えてひとり残されている。屋敷は本家の所有でつぶすことはできないから、どうしても男手が必要なんだ」
「まあ……お気の毒に……」
「そこを継げば、爵位も継いで、俺は廃貴族ではなくなって正式に中級貴族の仲間入りすることになる。それで、ちょっと頼みがあるんだけど……」
レクトは少し頬を染めてアンジェリンを見つめた。
「アンジェ、君をその家に連れて行きたいんだ。俺と一緒に来てほしい。俺とその家で……あの……その、つまりは……結婚してほしいんだ。こんな俺だけど」
アンジェリンは、時をおかずに首を横に振った。
「ごめんなさい。結婚は無理よ。だって、私、実は妊娠しているの」
「ええっ!?」
レクトはギョッとした顔で、椅子に腰かけているアンジェリンの腹に目をやった。まだ腹はそれほど目立っていないが、身ごもっている、という目で見れば、確かに多少ふっくらしている。
「結婚したのか? ロイエンニさんは馬車の中で何も言わなかったけど」
「結婚なんてしていないわよ。あきれたでしょう? 未婚で子を宿しているみっともない女が、正式な貴族になるレクトのお相手なんてだめでしょう? マリラ侍女長だったら『あってはならないことですよ!』ってきっと言うわね」
アンジェリンは明るく言ってみたが、レクトは黙り込んでしまった。結婚を断られたことの衝撃とその理由が、きっと彼を打ちのめしている。
アンジェリンはどうしていいかわからなくなり、謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい。せっかく会いに来てくれたのに……本当にごめんなさい」
「いや……謝らなくてもいいんだよ。ちょっとびっくりしただけだ」
気まずくなった場を取り繕おうと、アンジェリンは立ち上がった。
「私ね、薬師になろうと思って勉強中で、庭に薬草園を作っているの。外を歩かない?」
レクトは黙ったまま立ち上がり、アンジェリンの案内で屋敷の庭へ出た。
「これは血止め薬になる草なの。まだ根がしっかり育っていないから収穫できないけど、こういうのをたくさん育てて売って生活していくつもり」
「へえ、すごいね」
レクトは気のない様子で、アンジェリンの説明に頷く。
庭の真ん中あたりまで来たとき、レクトは足を止めた。
「……あの人はこのことを知っておられるのか?」
レクトはあえてその名を出さなかったが、『あの人』とはフェールを指しているとアンジェリンは解した。
「あの方とはもう関係ないから」
レクトは急に怒り顔になった。
「関係ないって、なんだよそれ。あの人のせいで、アンジェの人生はめちゃくちゃだ。アンジェを無理やり国外へ連れ出して牢獄へ閉じ込めて放置しておいてさ。妊娠させたくせに責任も取らないって? ふざけるなよ!」
レクトの強い怒りを含んだ言葉に、アンジェリンは正直驚いた。城でのレクトは穏やかで明るい男だった。こんなに怒った彼は記憶にない。
「レクト、あの人のことを悪く思わないで。あの人にも事情があるはず。あの人がシャムアで大怪我をしたのは私のせいだと、牢獄にいたときにも話したわよね?」
「だったらどうだって? どんな事情があったとしても、君をあんな寒くて汚い場所に閉じ込めて放っておくなんて、俺はその考え方が信じられないね」
「そんな言い方、やめてちょうだい。今、私は生きていて普通に暮らせている。それで満足しているから。私は処刑されるはずだったのは知っているでしょう?」
「君が秘密裁判にかけられることになってしまったのも、あの人のせいじゃないか。処刑を回避してくれたのは王太后様で、あの人は関係ない。まったく、あの人はいったい何をお考えなのかな。俺は男としてあの人を許せない」
レクトの強い言葉に、アンジェリンは泣きそうになる気持ちを必死で抑えた。
「お願いだからもうやめて。あの人を責めないで。全部私が望んだことなの」
「嘘を言うなよ。弄ばれて密かに子を宿したことが君の望みだって?」
「妊娠は予定外のことではあるけれど、私はこれでよかったと思っているの。だから、レクトが怒る必要はないのよ。結果がどうあれ、あの人はあの人なりに、一生懸命だったから」
「アンジェ……どうしてあんな男をかばうんだ。やっぱりあの人を愛しているのか?」
アンジェリンは質問には答えず、違う話を出した。
「そういえば、シャムアから逃げてくるときにね、レクトと同じようなことを言った少年がいたわ。その子は言ったの、『あの人はひどい男』だって。だから『谷に捨てればいい』って。複数の人がそう言うのならば、本当にあの人はひどい人なのかもしれないわね。彼を信じてしまった私がおかしいだけかも」
アンジェリンは笑おうとしたが、いい笑い顔を作れなかった。
うつむいていたレクトは、アンジェリンに近づくと、その両肩を軽くつかみ、アンジェリンをまっすぐ見下ろした。
「俺がその子の父親になるから、結婚しよう」
「……こんなふしだらな女に結婚を望まないで」
「どうしてそういうことばかり言うのかな。君はあの人に無理やり抱かれたんだろう? あの人は本当にずるい男だな。アンジェが断れないと知っていて連れ去って、自分の物にしたらあとは興味なしか」
「そんなんじゃない。レクト、落ち着いてよ」
「落ち着いているさ。腹が立ってむかむかしているだけだ。アンジェの方こそ冷静になれよ。子どもには父親が必要だ。その子は俺の子として産み育てればいい。俺は、今、君の腹にいる子が自分の子供だと信じて育てる自信がある」
「レクトが私なんかのために、そこまでする必要はないでしょう」
「必要はある。前にも言ったけれど、俺は君が好きだからだ」
アンジェリンはレクトを見上げた。茶色い目が見下している。フェールよりも背が高いレクト。警備兵をやれるほどのいい体格。そして、彼はフェールほど美男ではなかったが、決して醜男ではない。彼が誠実な男で、アンジェリンのことだけを思ってくれているのは分かっている。
心が波立つ。これはフェールと旅立つことを決めたあの時と同じ。人生の中で何度も訪れる運命の分かれ道のひとつだ。この選択でこの先の人生の幸福度は大きく違ってくることだろう。
──私、何も考えずにレクトの手を取ればいいの? あの人のことはひとときのたわむれだったことにして。この子はレクトの子として育っていけば幸せになれるの?
レクトはアンジェリンの両肩に置いていた手を背中へずらして、アンジェリンをそっと抱擁した。体は密着していないが、やさしく暖かな抱擁だった。
「アンジェ、君の心にはまだあの人が住んでいることはわかるし、俺はどうがんばってもあの人の身代わりにはなれないよ。でも俺は、その子を安心して産み育てられる環境を整えることができる。だから、俺と一緒に暮らさないか? 俺はアンジェとならうまくやっていけると思う」
アンジェリンが黙っていると、レクトは続けた。
「もちろん、今すぐにとは言わない。正式な爵位継承式はまだ終わっていないし、破壊された屋敷の修理は一年ぐらいかかりそうだから、それから来てくれてもいい。俺は、君の体調が落ち着くまで結婚を待つから」
暖かくない高原の春風が髪を揺らす。アンジェリンはレクトの胸板を押して抱擁を逃れると、二、三歩下がった。
「アンジェ……だめなのか?」
「……私はレクトを利用しようとしたずるい女よ。レクトが望んでくれるほど素晴らしい女性なんかじゃない」
「あの人が迎えに来てくれるのを待っているのか?」
「いいえ、あの人はもう王様。こんな女を迎えに来るわけがないでしょう? 期待する方が間違っている」
「あの人は今、シャムアの内乱を収めるために出国中だ。お忙しいと思う。それでも俺は納得できない。留守がちで大変だからって、アンジェの消息を尋ねることもしないわけだろう? やっぱり冷たい人なんだよ。君は捨てられたんだ」
捨てられた──痛い言葉に、アンジェリンは心を震わせながら耐えた。
「そうかもしれないけど……それで何の問題もないからいいの」
風に吹き消されそうなほど小さな声になってしまった。
「子どもがかわいそうじゃないか!」
「そんなことを今騒いでいても仕方がないわ。無事に生まれるかどうかは、わからないんだから」
ぎくしゃくした二人の雰囲気を壊そうと、アンジェリンは足元の細い葉の草をちぎって手に持った。
「【草】は【腐って】しまったら薬にできないわ」
ずっと深刻な顔をしていたレクトは、ふっ、と表情を緩めた。
「【草】が【臭く】なるからか? 君は身ごもっても相変わらずなんだな」
レクトはクスクス笑うと、木々で見えないはるか遠くを指差した。
「君の気持ちはよくわかったよ。俺が住む家は、ずっと東、あっちの方にある。子の父親が必要になったら……あの人のことが吹っ切れたら来てくれ。ロイエンニさんに住所を書いて渡しておくよ」
アンジェリンは、レクトが馬車で去っていくのを見送り、小さなため息をついた。またレクトに申し訳ないことをしてしまった。
今は、子が無事に生まれることだけを望んでいる。誰かと結婚して幸せになる道は考えられなかった。フェールがいつか迎えに来てくれるのを期待して待っているわけでもない。生まれた子とひっそりと暮らしていけたらそれでよかった。
「私、横から見たら、王族にひどい目に遭わされたかわいそうな女に見えるのかしら」
それでもフェールと二人で過ごした日々は、言葉にできないほどの幸せにあふれていた。忘れることなんかできそうにない。
レクトにはひとつだけ嘘をついた。
──私、レクトに結婚していないと言ったけど、本当はシャムアで祝福式をあの人と……。私はあの国ではあの人の妻だったの。
西に目を向ける。ここからではフェールがいるシャムアは見えない。
──レクトに強く望まれても、多くの人にかわいそうな女だと思われても、私は手の届かないあの人のことを心から追い出せずにいつまでも想い続けている。あの人は迎えに来ないとわかっているのに。
「私は愚か者……」
愛しさを込めて腹をさすった。




