67.喜びの涙
ザンガクム軍が去ってから、王都エンテグアの復興は少しずつ進んでいた。とはいえ、シャムアの情勢はまだ不安定で、王は多忙で城を留守がちにしている。争いごとのすべてが完全に終わったわけではないが、エンテグアの港は建物が次々再建され、多くの船が出入りする港には以前と変わらない活気が戻ってきていた。
アンジェリンの同期の侍女だったココルテーゼは、その日も明るいうちに城勤めを終えた。王族のお世話をする侍女の仕事は、現在とても暇だった。掃除や衣装の手入れなどをゆっくりやっても、午後から何もやることがないときがある。今、王子と呼ばれる身分の人はおらず、王自身もほとんど城にはいないため、仕事そのものが少ない。
ココルテーゼはそれでも不満はなく、暇なことは良いことだと思い、機嫌よく城から出た。
城の門を出たとたん、知らない年配の男性に呼び止められた。
「ココルテーゼ・ホミジド様ですね? すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが、お嬢さんはアンジェリン・ヴェーノさんを知っていますね?」
ココルテーゼは男性の顔をじっと見たが、城内では見たことがない顔だった。男性は結構年齢がいっているようで、口の横や目じりに深いしわがあった。見るからに高級と思われる仕立ての上下を身に着けて、おしゃれな筒型の帽子をかぶっている。
ココルテーゼは一歩身構えすぐに返答しなかった。唐突に呼び止められて知り合いの名を出されても答えに困る。
男は眉を下げ気味にして困った顔で続ける。
「実は、あなた様がアンジェリンさんのお友達だったと伺いましたので、ここで待っていたのでございます。アンジェリンさんは今どこでどうしているのか教えていただけませんか」
ココルテーゼは眉をひそめた。
──アンジェリンですって? なによ、いい人ぶって私の恋を応援するふりをしながら、王太子殿下を簡単に手に入れた嫌な女じゃない。アンジェリンが釈放されたことは知っているけど教えてあげない。
ココルテーゼは顔を上げて男を睨みつけた。
「それを私から訊いてどうなさるの? どこのどなたかもわからない方にあれこれしゃべることは、はしたない行為ですわよ」
男性は丁寧な態度を崩さず、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「失礼しました。自分は国王陛下の命で密かに動いている者ですので、名乗ることはできませんが、陛下直々のご命令でアンジェリン・ヴェーノさんを探しております。彼女は今どこにいるのかご存じないでしょうか」
「ふーん、国王陛下がねえ……」
──陛下はやっぱりアンジェリンを妃に迎えるおつもりなのかしら?
ココルテーゼが考えていると、男は意外なことを口にした。
「陛下はアンジェリンの生死すらご存じないのでございます」
「それって、陛下には何の連絡も行っていないってことかしら?」
ココルテーゼは驚いた。あれほどアンジェリンに執着していたフェールがアンジェリンの生死すら把握できていないのか。周りがわざと王に情報を渡していないのかもしれない。それで王は人を独自にやとって調べさせている? そういうことならば、少しいじわるしてやろう。
「わたくし、アンジェリンのことはよく知っていましたわよ。ただ、彼女はもういません。秘密裁判にかけられて、処刑されました。ザンガクムとの戦いが始まる直前のことでしたわ。私が知る情報はそれがすべて」
「亡くなっておられると。それはまた残念なことでございますなあ。では、陛下にはそうお伝えします」
男は情報を得ると、ココルテーゼに礼を言ってすぐに姿を消した。
ココルテーゼは、ふん、と息巻いて大股に歩き始めた。
「私、そんなに悪いことはしていないわよね? アンジェリンは釈放されたからたぶん生きていると思うけれど、これぐらいの復讐はしても許されると思うの。私、本当にフェール様のお妃になりたいんですもの。王女様と破談になった今、まだ私にも王妃への道は残されているんだから、邪魔ものは排除しなきゃね。陛下のお気持ちが私に向くようにがんばるわ。脱廃貴族よ!」
紳士風の男はココルテーゼから離れると、足早にエンテグア内の路地を抜け、城からかなり離れた場所にある一軒の家にたどり着いた。広い庭はあるが、あまり手入れされておらず、建物は古く、屋根はあちこちに修繕の跡がある。周囲は民家が点在しており、町中ほど家はくっつていない。
男は建物の扉を軽くたたいた。
「騎士が帰って来たぞ」
「頼んだ品は手に入ったかしら?」応じたのは女性の声。
「黄色ならあった」
それらはすべて合言葉だった。
やがて扉が開き、男は中へ入ると、上質な上着や帽子を無造作に脱ぎ捨てた。
「こんな恰好、窮屈でたまらんわい」
「少しぐらいがまんしたらどうなのです。黙っていたらそれなりに見えるのに」
そう言って苦笑いしている女性は、行方不明になっているクレイア王女だった。室内にはサラヤの他、数人が控えている。
「ご苦労でした、マニストゥ・カラングラ。で、どうでした? フェールの恋人、アンジェリン・ヴェーノの情報はつかめたのですか?」
「いやあ、残念ですなあ。アンジェリンは処刑されたと証言がありました」
「処刑ですって? ああ、それで……やっとわかりましたわ。だから、フェールはあの時あんなに怒って。ということは、フェールの大切な女を捕まえて痛めつけてフェールをおびき出して苦しませる、という方法はできないのですわね。つまらないこと。あの男の顔が悲痛でゆがむのが見たかったのに」
「フェール様に次の恋人ができたら、わしがいつでも報告しますわい。まあしばらく待てば、あの容姿ならばすぐに新しい女ができると思いますぞ。さしあたって、今回の情報のお代をいただきたく……」
クレイアは不快そうに唇をとがらせた。
「マニストゥ、まったくそなたは金狂いですわね。事あるごとに、お金、お金。エフネート・ヘロンガルの暗殺に失敗したくせに」
「あれは仕方がなかったのでございます。わしは屋敷の者たちに顔を知られておりますし、あの日のヘロンガル邸の警備は異常でした。養成所の子どもたちですらほどんどが殺されるほど厳しい警備だったぐらいですからなあ」
「貴重な戦力をそがれてしまったのはそなたの責任。館内をよく知っているそなたがきちんと案内しなかったからでしょうに」
「わしは、エフネート襲撃は時期尚早だと申し上げましたぞ。それでも決行するとおっしゃたのはクレイア様でございます。成功してもしなくても、動いたことに対する報酬はいただかないとこちらも生活できませんなあ」
マニストゥは、不機嫌なクレイアにもまったくかまわず、薄笑いを浮かべ、言葉を続けた。
「女王様、報酬をいただけないとなると、もうここに住んでいくことは無理だと思ってくだされ。ここはわしが用意した家ということお忘れなきよう。元の家主の一人暮らしの老婆を殺して親戚になりきって居座っているのですからな。報酬が少ないと、わしの気が変わって、クレイア王女がここにいるとセヴォローン側にもらしてしまうかもしれませんなあ」
クレイア王女は、不敵に目を光らせて笑うマニストゥをにくにくしげに睨みつけた。
「サラヤ、情報の報酬を渡してやりなさい」
「それでこそ女王様。金を惜しんで味方を失ってはどうしようもありますまい」
マニストゥは金が入った布袋を受け取ると、中身をその場で覗き、汚い歯を見せて大声で笑った。
◇
フェールがシャムアへ出兵している間に季節は進み、アンジェリンの出産の日が迫っていた。出産予定日まであと十日。
明日、王太后マナリエナの墓参り訪問宿泊が予定されており、高原の家には臨時雇いの料理人や警備人などが来ており、普段は静かな高原の家は、とてもにぎやかだった。
アンジェリンは、いつものように敷地内をゆっくりと散歩していた。手には死者に捧げるための白い花を一輪。臨月になってからは坂道を登ることが辛くなり、今は王都エンテグアが見える見晴らしのよい場所までたどりつけなくなったが、その代わりに、庭の敷地内にある塚に毎日花を供え、腹の子の無事誕生とフェールの無傷でのセヴォローン帰還を祈ることを日課にしていた。
この大きな塚状の墓の下には、この地で起こった火災で亡くなった多くの人が眠っており、その中の一人がマナリエナの親友の女性だと、アンジェリンは物心ついたころからロイエンニに言い聞かされていた。土が丸く盛られた巨大な塚は全体が柵に囲まれ、風化を防ぐために丈の短い草がびっしりと植えられている。もちろん、アンジェリンは、それが自分の一族の墓だとは、まだ知らされていない。
「ふぅ……今日も暑いわ」
アンジェリンは手にしていた小さな白い花を塚の正面に置いた。夏はすでに最盛期を過ぎていたが、陽射しはまだまだ厳しい。少し歩いただけで汗が噴き出す。首まで流れてくる汗をぬぐって──。
「あっ!」
アンジェリンは、腹を押さえてその場にしゃがみこんだ。
──生まれるの? よりにもよって今? どうしよう……明日にはマナリエナ様がいらっしゃるのに。
◇
元王妃のマナリエナは、予定通り白花隊の兵たちを大勢連れて、サイニッスラのアンジェリンの家にやってきた。
マナリエナは、出迎えに並んでいる人々の中に、アンジェリンとターニャの姿が見えないことに気が付いたが、今は裏方の仕事でもしているのだろうと思い、ロイエンニにアンジェリンたちのことを尋ねることはしなかった。マナリエナとしてはすぐにでも『親友ジャネリアの遺児』の様子を見たかったが、元王妃としての立場上、親しくもなく身分もないロイエンニの娘のことを気にかけてまっさきに話題にするのは不自然なこと。例年の訪問の時と同様に、さしさわりない話題でロイエンニと言葉を交わす。
マナリエナはロイエンニを相手に、王都の様子などを話していたが、どこかから悲鳴が聞こえて話を止めた。マナリエナが連れてきている白花隊の兵たちもざわついて、あたりを見回している。
その奇妙な声は、今にも人が死にかけているような感じの、喉を振り絞るような聞き苦しい声だった。
「ロイエンニ、今、おかしな声が聞こえませんでしたか? さっきも気になったのですが」
マナリエナの問いに、ロイエンニは穏やかに笑った。
「実は、娘のアンジェリンが今、出産中なのでございます」
「えっ! アンジェリンが赤ちゃんを産んでいる最中なのですか!」
普段は冷静なマナリエナも、感情が一気に交錯し、思わず大きな声を出してしまった。
──誰の子? フェールの子かしら? でもそうではないのでしょうか。今出産ということは、身ごもった時期は……。わたくしがフェールとアンジェリンの恋のうわさを耳にした日はいつだったかしら?
困惑するマナリエナに、ロイエンニは意味ありげに片眉を上げてしれっと言った。
「恥ずかしながら、娘はきちんとした結婚はしておりませんが、腹の子の父親は、シャムアで祝福式をした身分ある男性だと本人は申しております」
「そう……ですか……」
マナリエナは、フェールが言ったことを思い返した。
『私はアンジェリンとシャムアで祝福式を受けました。賢い母上ならば、その儀式がどういう意味のものか、お分かりですよね? アンジェリンは私の正式な妻です』
──ということは、やはりフェールの子。生まれる子はわたくしの孫……。
マナリエナが何も言えずにいえると、ロイエンニは父親の顔になって笑った。
「王太后様を驚かせてしまいまして、申し訳ございません。そういう事情で、娘があのように、はしたない声を上げておりますことをお許しください。昨日の昼過ぎからあんな状態ですが、一晩過ぎてもまだ生まれないのでございます。産湯を用意してまだかまだかと待ち構えているのですが、待っているうちに湯がすっかり冷めてしまい、また沸かし直しを繰り返しております」
「それは大変なときに訪問してしまいましたね。難産で苦しんでいるようですから、わたくしに手伝えることがあったら何でもやりましょう。わたくしと連れている侍女をアンジェリンのお部屋に入れてもよいかしら?」
「ありがたく、お手をお借りしたく存じます」
そう言っている間も、苦しげな声が耳に入ってくる。
マナリエナは、急いで立ち上がった。
──では、アンジェリンは、牢獄にいたときにはすでにお腹に子を宿していた?
マナリエナが侍女たちとアンジェリンの部屋に入ると、アンジェリンは寝台の上に横たわり、真っ赤な顔で汗だくになっていた。今は陣痛の合間らしく、呼吸を乱しながらも目を閉じている。そばにはターニャともうひとり、おそらく産婆だと思われる年配の女性が付き添っていた。
「お嬢様、王太后様が応援に駆け付けてくださいましたよ」
ターニャの声に目を開けたアンジェリンは、マナリエナの姿を認めて、ひっ、と声を上げて身を起こそうとした。
「王太后様!」
「いいのよ、そのまま寝ていなさい。何かお手伝いできることがあればと思って」
「……っ……ううっ!」
マナリエナはアンジェリンの寝台の横に身をかがめてしゃがみこみ、アンジェリンの手を強く握った。
「申し訳……ありません……っ」
「わたくしに遠慮はいりません。あとどれぐらいかかりそうかしら?」
マナリエナが産婆に尋ねると、産婆は笑顔で答えた。
「まもなくですよ。赤ちゃんの頭がもう見えていますから」
「アンジェリン、聞こえましたか? もうすぐですって。息を吸いなさい。大丈夫、無事に生まれるはずですよ」
「あっ、あうう!」
『もうすぐ』と言われたものの、それからの誕生までの時間は、アンジェリンにとってとてつもなく長く感じた。短い時間だったのかもしれないが、マナリエナが来てからどれぐらいの時間が経ってしまったのか自分でもわからなくなってしまったころ、ようやく赤子が腹から押し出された。
小さな産声が上がり、緊迫していた部屋の空気は一気に変わった。
ターニャが廊下に駆け出していき、大声を上げた。
「旦那様、お生まれになりましたよ! 元気な男の子です!」
半分気絶したような状態になっていたアンジェリンは、細く目を開いた。
「あ……赤ちゃんは……」
「お嬢様、お待ちくださいね。今、洗ってきれいにしますからね」
アンジェリンが目で赤子を探すと、ターニャとマナリエナの侍女が二人で赤子の沐浴を始めていた。
「生まれた……よかった……」
アンジェリンは安堵の涙を流した。赤ん坊は、か細い泣き声を上げており、ちゃんと手足が動いていた。
ふと気が付くと、手をまだ握ってくれていたマナリエナも大量の涙を流していた。
「おめでとう、アンジェリン、よくがんばりましたね」
マナリエナはアンジェリンに覆いかぶさるように抱きしめると、耳元でささやいた。
「フェールの子ね?」
アンジェリンは涙をぬぐいながら頷いた。
「やはりそうでしたか。あの子もきっと喜ぶと思うわ」
「王太后様、あのっ……どうか、あの方にはこの子のことは言わないでくださいませんか」
「えっ、どうしてかしら」
「あの方をわずらわせたくありません。いやしい女が産んだ子なんて……」
マナリエナはすぐに返事をせずに目を細めて赤子の沐浴を見ていたが、アンジェリンに目を戻した。
「そなた、子のことを一生伏せて過ごすつもりですか?」
「それでいいんです。私、ご迷惑にはなりたくないんです」
アンジェリンは小さな声になっていた。どろぼうの娘が産んだ子。そんなことを世間一般に知られたくない。
「では、フェールに知らせることは少しだけ時を置きましょう。フェールは今、とても忙しくて、いい父親をやっている場合ではないのです。そなたのことは死んだと彼は信じています。時が来たら、わたくしの口から話すことにしましょうか。それでよろしくて?」
「はい……」
「ただ……そなたにも覚悟は必要でしょうね。時の流れは残酷で忘却をもたらすことがあります。もしも移りゆく時の中で、そなたが死んだと思い込んでいるフェールが、新しい女性に目を向け、そなたではない女性を妃に迎えてしまったとしても、そなたはそれを許せますか? フェールのお妃候補は何人もいるのです」
「許す、許さない、とか、そういう選択は私にはできません。そもそも、私は陛下のお相手にはふさわしくない下品な出自ですから。陛下にはきちんとしたお家柄のお相手がふさわしいと思いますので」
「……わかりました。フェールが新しい女性との未来を選択してしまったならば、そなたのことは話さないでおきましょう」
マナリエナは、ふっ、と目を伏せた。この土地で昔起こったことを──アンジェリンの本当の出自のことを──今告げるべきだろうか。迷ったが、真実を明かす告知は思いとどまった。今、すべてを話したところで、状況はおそらく変わらない。
「アンジェリン、出産のお祝いは何も用意していないから、その代わりとして、わたくしからその子に名を授けます。今からわたくしが告げる名は、人前では使ってはいけない二つ目の名です。普通の短い呼び名は自由につけなさい」
マナリエナはもう一度アンジェリンの耳元に唇を寄せ、長い一つの名を告げた。
アンジェリンは、ぼんやりとした頭の中で名を繰り返してしっかり記憶した。いつかフェールが、王族は二つの名を持つ、と言っていた。彼はアンジェリンに密かに明かしてくれたのだ。『フェール』と『ディンセルラントゥール』という二つの名があると。
──マナリエナ様はこの子が陛下のお子だと認めてくださった。この子のおばあ様として名を授けてくださった。お披露目もなしで、正式なおばあ様だと名乗れなくても。
産着に身を包まれた小さな赤ん坊は沐浴を終えてアンジェリンの腕の中に戻ってきた。アンジェリンはすぐにマナリエナに赤子を渡して抱いてもらった。
「なんてかわいい子なのかしら。ここで赤ちゃんを抱かせてもらえるなんて思ってもいませんでした。この子に幸せが訪れますように。あら、この子、目の色が左右違うのですね」
赤子の右目はフェールにそっくりの琥珀色、左目はアンジェリンと同じ緑だった。
マナリエナはすっかり祖母の顔になって、うれしそうに赤ん坊を抱きしめている。
「アンジェリン、この子をのことはわたくしが生きている限り、悪いようにはしないから安心しなさいね」
普段は寄り付きがたい雰囲気を持つ王太后のとろけるような笑顔をみつめているだけで、アンジェリンも暖かい気持ちで満たされていった。そのうちにロイエンニや使用人のワウダイも入室して来て、室内には祝いの声と笑顔があふれた。
アンジェリンはすっかりゆるくなってしまった涙腺を押さえた。
──私、あの人の子を産めて本当に良かった……。みんなに喜んでもらえて……。
子を産み育てる不安はどこかへ消えてなくなった。




