64.泥虫
クレイア王女は両手両足を縛られたままセヴォローン陣営へ連行され、フェールの前に引き出された。
クレイアは誰か味方がいないかと、周りを見回した。フェールの近くには、側近と思われる人物が何人も立っている。エフネート・ヘロンガルの姿はなかった。
フェールはしゃがみこんで、そこに転がされて動けないクレイアの顔を覗き込んだ。
「うん、この女性はクレイア王女で間違いない。少し話をしたいから口を自由にしてやれ」
自殺防止用に口に布を噛まされていたクレイアは、口の覆いをとられるなり、フェールを罵った。
「なんてひどい扱いをなさるのですか! わたくしは王女です」
フェールは形だけの笑みを浮かべていた。
「ええ、王女様だとわかっておりますよ、クレイア様。お久しぶりですね。先日は、私の体調がすぐれず、きちんとお相手できなくて申し訳なかった。このような場所でお会いできるとは何とも奇遇」
クレイアは、今ここにいる男は、エンテグアの城で婚約者として会った半死人のような男と同一人物だと確信した。フェールの髪色は、いつか会った時の色よりも部分的にかなり明るくなっていたが、あのときの男と声は同じ。やはり、あの病人はフェール本人で、替え玉ではなかったか。
フェールは、縛られて動けないクレイアの顎に手をかけて顔を上げさせた。冷たすぎるその手に、クレイアは震えあがった。
「冷たい手で触らないでください!」
「それは失礼した。キャムネイ陛下と御妹君お二方のご遺体は、ありがたく拝受した。そちらの執政官シューカイル殿はすばらしいお方だ。あの方には今後、ザンガクムを立て直すのに力を貸していただく」
クレイアがフェールをにらみつけると、彼は社交的な微笑を消し、クレイアに負けないくらいきつい目で見返してきた。
「クレイア様、あなたにはどうしても直接聞きたいことがあったのだ。正直に話してほしい。ザースを殺したのはあなただな? 遺体を持ち去ったのもあなたの命令だろう?」
「いいえ、違います。ザース様は転落して亡くなられたのですわ。その時の状況はラングレ前陛下に何度もお話したことです。ラングレ前陛下はわたくしの話を真実と認めてくださいましたわ。ご遺体の行方のことは存じません」
「あなたがザース殺しをしていないと父が認めていたとしても、私は認めない。毒蜘蛛を用意したのもあなただと思うが?」
「毒蜘蛛は偶然あの場にいただけです。もしかすると誰かが準備したのかもしれませんけど、わたくしは知りません。信じてください。何者がわたくしを陥れようとしたに決まっていますわ」
フェールは皮肉めいた笑いを浮かべた。
「必死だな。では、誰があなたを陥れようとしたのか。心当たりは?」
「それはわかりませんけど、わたくしたちの結婚に反対する誰かが、騒動を起こして結婚式を中止か延期に追い込もうとしたのかも」
「それはあなたの想像にすぎないだろう? 根拠のない無駄話をしている場合ではない。あなたの国は、セヴォローンの王と王子と宰相を殺し、王都の港を汚した。それは間違いのないことであり、あなたは敵だ」
「ザース様殺しは濡れ衣です。戦争のことだって、一部の者が勝手に始めてしまったことですわ」
「すばらしい言い訳をするのだな。王女のくせに言い逃ればかりしている。下品だ」
フェールの遠慮ない物言いに、クレイアは対抗すべく、わざとフェールが嫌がりそうな言葉を選んだ。
「フェール様こそ、品のない行為はおやめくださいませ。王様になられたのに、隣国の王女のわたくしをこんな目に遭わせるなんて、常識のない方ですこと。こんな礼儀知らずで、人の話を聞かない方が夫にならなくてよかったですわ」
フェールは怒るどころか、楽しそうに目を細め微笑した。
「ああ、確かに私は常識というよくわからないものは持ち合わせていないのでね。私もクレイア様が妻にならなくてほっとしているところだ。私のような人の話を聞けない残念な男でも王をやらないといけないのだ。こうなったも、あなたがザースを殺したからだ。あなたの言うように、私は王としては不向きな人間だから、何をされても許せるような寛大な王にはなれない」
「それは残念ですこと」
「あなたが王女で尊い存在であっても、大切に扱おうという気持ちは、砂粒ほども持ち合わせていない。あなたは死ぬべきだ。あなたをどういうやり方で処刑するかを考えていると楽しくてたまらない」
クレイアは、フェールが本気だと悟った。この男は本当に自分を処刑するつもりだ。この状況では誰もそれを止めはしないだろう。それでも負けたとは認めたくなかった。
「わたくしはザース様を殺していないし、ご遺体の行方も知りませんと申し上げているではありませんか」
「よくも、そんな同情を惹く気満々の顔で言えるものだな。先ほどあなたのところの重臣から聞いたが、我が国を乗っ取ろうと熱心に画策していたのもあなただそうだな。私の子を産んだら、私をすぐに殺して、生まれた子にセヴォローンを継がせるという楽しい話を計画していたらしいではないか。とんでもない妃だ」
「それはでたらめです! 夫になった方を殺すなんて、そのような恐ろしいこと、思いつきもしません」
フェールからかうような口調になった。
「ふっ、私はそう報告を受けたのだが?」
「誰かが作った嘘ですわ。わたくしは、フェール様を生涯愛していくつもりでした」
「ははっ……殺す予定だったのに? 実におもしろい話だ」
クレイアは再び周りを見回した。やはり、周りは敵しかいなかった。こういうとき必ず飛び込んできて助けてくれるであろう侍女サラヤは、エフネートの動向をさぐりに行ったまま帰ってきていない。サラヤがどれほど身体能力がすぐれた暗殺者でも、警備を破ってこの場に助けに入ってくることは難しい。
それでも、生きる希望は捨てたくはない。
「フェール様、ひとつだけ、お耳に入れたいことがありますのよ。聞いてください。そちらの上級貴族の中に裏切り者がいます。わたくしはその者の名を明かして、捕らえることに協力しますから、わたくしの縄を解いてくださいませんか」
「そのようなこと、あなたから聞くまでもない。裏切り者が誰なのか、私は把握している。あなたは私の弟を殺したことは認めないくせに、真実かどうかもわからない情報を持ち出して私の気を惹こうとするのか。そうまでして生き延びようとする汚さ、同じ空気を吸っていると思うだけで不快だ」
「大事な情報ですのよ。知らなくてよろしいのですか? フェール様は誰が裏切っているのかご存じないはずです。このままでは必ず足をすくわれましてよ。フェール様、わたくしは味方です」
「クレイア様」
フェールは目を細めた。「あなたは私のことを何も知らないらしいな。私が最も嫌いなのは、こうやって保身のために嘘を並べ立てて媚びる女だ」
「わたくしは媚びていませんわ。信じていただきたいだけです」
「そうか。そういう態度が媚びているというのだが、わからないならそれもよいだろう。あまり私を怒らせないでほしいものだな」
フェールは冷たい手でクレイアの首を掴んだ。
「ぐっ!」
「ザースの遺体をどこへやった。知らぬはずがない。おまえたちが葬列の混乱にまぎれて持ち去ったに決まっている。答えろ!」
苦しそうに咳き込んだクレイアの様子に、フェールの背後にいる側近の男がフェールに声をかけた。
「陛下、お気持ちは理解できますが、無駄な労力をお使いなさるな。拷問ならば我々が手を汚しますゆえ、おまかせください」
フェールは、側近の言葉を受け、怒りの面を少し崩し、クレイアから手を離した。
「そうだな。国王の私がこんな下品な毒女のために貴重な時間や力を使うこともない。皆に心配させてすまぬ。自分を見失うところだった。この女は拷問してもたぶん口を割らない」
フェールは、ふう、と息をついた。
「クレイア様、私も国もあなたの玩具ではない。『自分の命を差し出してもかまわないから、国民をひとりでも多く救いたい』と申し出たシューカイル殿の誠意と勇気を少しは見習え」
「シューカイルこそ、何を考えているのかわからず危険な男ですわ。あの男はザンガクム王家を滅亡させようとしています」
「そうだとしても、問題ないだろう? あなたよりもシューカイル殿の方がずっとずっとましだ。あなたは、美しい顔に似合わず、心は実に醜い。あなたは汚水の中でも浅ましく生き続ける泥虫と同じだ。あの虫のように、体の大部分が腐っても死にはしないだろうな」
何を言っても取り合ってくれないフェールに、クレイアは思い切ってゆさぶりをかけてみた。
「泥虫なんて、そのような言葉をわたくしに言ってもよいとお思いですか? わたくしはフェール様が寵愛していた侍女の行方を知っておりますのよ」
フェールは大きく眉を動かした。
「……なんだと」
「彼女……確か名前はアンジェリンでしたね? わたくしを解放してくだされば、彼女の情報をお伝えしてもよろしくてよ」
フェールはしばらくの間、口を堅く結んでクレイアをにらみつけていた。
「やはりそなたは泥虫だ。その侍女がどうなったのかも知らぬくせに、口から出まかせを言って取引材料にしようと考えるとは」
「わたくしは――っ!」
クレイアはフェールに頬を強く蹴りあげられ、手足を縛られたまま後ろに転がった。顔と首の痛みですぐに言い返せなかった。
「っ……何を……なさいますか。乱暴な。痛いですわ」
「それ以上よけいなことを言うならば、こんなものでは済ませられない。今度似たようなことを言ったら、二度としゃべることができぬよう、そのやかましい口に剣を突っ込んでやるからそのつもりでいろ! 下がれ!」
クレイアが言い返す前に、フェールはクレイア退室を命じた。
「悔しい……わたくしが泥虫ですって! ばかにしているわ」
縛られたまま貴族の屋敷の地下牢に放り込まれたクレイアは、かまされた布を強く噛み続けながら怒りに身を震わせていた。蹴られたはずみで首を違えてしまったようだ。首筋が痛くてたまらない。
「わたくしにこんな暴力をふるう男なんて、許せませんわ。女性の顔を蹴るなんて! このわたくしの顔を! こうなったのも全部シューカイルが悪いのよ」
山中でシューカイル執政官と争いになった時、妹王女二人は、おびえて抱き合っていたが、やがて、クレイアが縛り上げられてしまうと、第三王女のイデが、大声を上げて、人々を静めた。
『やめなさい! 殺し合うのは無駄なことです。コオサに戻りたいと希望する者は戻ることを許可しましょう。ヨマイグを目指す者はわたくしと一緒に山へ向かえばよいのです』
戦っていた人々は、イデ王女の声に、全員が動きを止めた。
シューカイルがイデの前に進み出た。
『イデ様がそう判断なさるなら、それもよろしいでしょう。ですが、陛下とクレイア様はこちらに置いていってください。コオサに戻る皆の安全のためでございます』
『わかりましたわ。シューカイル、父上の遺体が損壊されないよう、しっかり守りなさい』
縛り上げられていたクレイアは、驚いて妹を見つめた。
『イデ、わたくしを見捨てるつもりですか!』
第三王女は、動けず地面に倒れているクレイアの横に立った。
『お姉さま、ここでお別れしましょう。シューカイルたちが降伏することで、ザンガクムがどうなるのかはわかりませんが、わたくしはわたくしの道を歩きます。お姉さまは、責任を取るべきですわ。わたくしの婚約者ザース様を殺したのですから』
『えっ……?』
妹イデは、とがった冷たい目でクレイアを見おろしていた。
『わたくしは、夫になるザース様のためにいろいろ準備し、ザース様がコオサにいらっしゃる日を指折り数えて待っておりましたのよ。お父様がザース様をお連れして帰国するというお話でしたのに、いつの間にかお葬式のお話になってしまっていて、わたくしがどれほど絶望したか』
『ザース様は最初から死んでいただく運命だったのですよ』
イデ王女は強く反論した。
『わたくしはそんなお話は聞いておりません。ザース様はすばらしい方でした。わたくしの結婚相手に決まってからは、頻繁に手紙をくださって、温厚なお人柄だけでなく、うわさに違わず頭の良い方だとわかりました。ザンガクムの貴族の中にはこんなにお話の合う素敵な方はいらっしゃいません。そんな貴重な方を殺してしまったお姉さまは、死んで罪を償うべきですわ』
クレイアは驚いて、妹の顔を凝視した。妹は政略結婚に反対しているとばかり思っていた。まだ十二歳のイデ王女は、いつのまにか、会ったこともないザース王子に恋をしてしまったらしい。
クレイアはザース王子の琥珀色の瞳を思い浮かべた。あの王子は、妹王女を簡単にたらしこんでしまったのか。
──やっぱり殺しておいてよかったのですわ。
『イデ、そなたはザース王子に騙されていたのです。あの王子はセヴォローン王家屈指の策略家。殺しておかないと、我が国にとっては害になる男でした』
『やっぱりお姉さまがザース様を殺したのですね。それだけでは物足りず、亡くなられた後も中傷なさるの? お姉さまなんか大嫌いです。お姉さまは、わたくしのお相手にと決まった男性のお部屋へはしたなくも出向いて、突き落として殺すなんて』
『ザース様のことは、お父様の命令でした。セヴォローンを攻略するためには、ザース様の死は必要なことでしたのよ』
『どこが必要なことでしょう? お姉さまがザース様を暗殺したせいで、セヴォローン国民たちが激怒してわたくしたちはコオサ城を失いました。セヴォローンを併合するどころか、わたくしたちは追われています。それでも負けを認めないお姉さまとは考えが合いません。さようなら』
イデは、ぷいと背を向けた。第四王女もクレイアのそばに来た。
『クレイアお姉さま、わたくしもイデお姉さまといっしょに山へ向かいます。捕虜になる気はありません。寒くてもヨマイグへ参りますわ』
人々は二手に分かれた。クレイアは捕虜になり、しばられたままシューカイルに連れられてコオサへ向かって歩く羽目になった。
それからそれほど時をおかずして、フェールがさしむけた騎馬部隊の大軍が、二手に分かれてしまった彼らと遭遇。山へ逃げた者たちは、降伏をしたシューカイル執政官の集団とは別とみなされ、凄惨な運命が待っていた。
敵殲滅の命を受けていたセヴォローンの騎馬隊は、抵抗を試みたキャムネイ王の一行の残党を全滅させ、その先に準備されていた山小屋も容赦なく攻撃して完全に占拠した。ザンガクム側は、戦闘員の数が圧倒的に足りず、全員が雪を血色で染めて倒された。妹王女二人は、どうにもならないとわかると、二人で互いの胸を剣で突いて命を絶った。
こうしてクレイアはセヴォローンの捕虜となり、王と妹王女二人の遺体と共にコオサに連れ戻され、生きた捕虜としてフェールの前に引き出されたのだった。
クレイアは牢の中でぶつぶつと怒りをぶちまけていた。ぶちまける、と言っても口には布がかまされており、言葉はただの唸り声となって布に吸い込まれている。
「あの老いぼれシューカイルが、みんなの気持ちがくじけるようなことを言ったからいけないのですわ。お父様だけでなく妹たちまで……」
妹たちは十二歳と十歳。あまりにも若すぎる死だった。よく考えたら、生きているクレイアの家族は、ヨマイグの町に嫁いだ第二王女ミケメだけになっている。
クレイアは今、本当にひとりきりだった。
くぐもった声で叫んだ。
「わたくしは負けませんわ。必ず脱走して、わたくしをこんな目に遭わせた者たちに復讐してやりますわよ。特に、わたくしの顔を蹴ったフェール! あの男が王としてかしずかれて一生幸せに暮らしていくなんて許しません。フェールにかかわるものは全員殺して、最後にフェールをひざまずかせて血まみれに」
さきほどフェールと面会した時、侍女の話を出したとたんにフェールの顔色が明らかに変化したことはわかった。クレイアがエンテグアに来る直前までフェールが『とある侍女と恋仲だった』という情報はまぎれもない真実。
クレイアはアンジェリンのことは名前を知っただけで、彼女のその後のことは、実は全く知らなかった。おそらく二人は別れさせられ、侍女の方は追放されたのだろうと想像していた。
──どうやら、あの男は愛する女のことになると冷静さを失う性格らしいですわね。
それならば、そういう方向から攻め崩すことを考えればいい。
──それにはアンジェリンという女をまずは捕まえて……。
楽しい場面を想像して、クレイアは、ふふふ、と笑い声をあげた。
ここを脱出し、アンジェリンを捕まえることに成功したら、捕まえたアンジェリンの前にフェールを呼び出し、彼の前でアンジェリンを八つ裂きにする。そして、その後すぐにフェールも殺す。フェールが死ねば、シューカイルやエフネート暗殺もやりやすくなるだろう。
──絶対に実現してみせますわよ。
今は脱出の機会を待つのだ。




