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60.不安を抱えて

 アンジェリンを乗せた馬車は王都エンテグアの西門を出た。

 馬車の小窓から外を見ていたアンジェリンが、ぼそりとつぶやいた。

「今日は検問はないのね。シド様の馬車で陛下とここを出たとき、検問を待つ馬車の行列ができていたの」

 同乗しているターニャは、「そうでしたか」と言うにとどめた。

 ターニャの横に座っているアンジェリンの横顔はとてもさみしげで、楽しく会話を交わす雰囲気ではなかった。帰ってきた日のアンジェリンは、ターニャに祝福の木札を幸せそうに見せてくれて、無理して笑っていたけれど。

 ──お嬢様、おかわいそうに。好きな人と離れて、どれほどおさみしいことか。

 馬車内の足元に置いているケイシュカの鉢植えは、花はすでに終わり、寒さで葉も落ちて小さな赤い実だけになっている。別れたフェールからもらった貴重な花。恋は終わったから贈られた花は捨ててほしい、とは命じられていない。アンジェリンはこの花を大切にしている。

 ──お嬢様の本当のご両親が生きておられたならば、こんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。いつになったらお嬢様にご両親の話をできるのでしょうか。

 サイニッスラ高原の別荘で起こった事件の真実を話す日は、永遠に来ないかもしれない。


 ターニャは、向かい側に座っているロイエンニの顔色も窺ったが、何の感情も読み取れなかった。

 ──みんな、よくがまんしていること。私はいつも秘密を打ち明けそうになってしまう。

 ターニャは、小窓から少しだけ見えている御者の背中に目を向けた。馬車を操っているのは、三十代の男、ワウダイ。ターニャのいとこで、同村出身のこの男も、サイニッスラの悲劇の真相を知る者のひとりだった。


 ターニャの故郷の村は、サイニッスラ高原の別荘地帯よりもさらに北、大きな山を一つ越えた山間にある。ターニャの両親は早くに他界し、ターニャはその小さな村で祖父母に育てられた。山村の暮らしは貧しく、ターニャは十五歳になったときに王都へ働きに出た。そして、ニハウラック家の手伝いとして仕事先が決まった直後、サイニッスラの虐殺事件が起こった。

 ターニャは、まだ乳飲み子だったアンジェリン──リーザ・ニハウラック──を抱いて、山を登って逃げ、故郷の村へ帰り、難を逃れた。最初の数日間は恐怖のあまり言葉も出せず、祖父母にすら事情を話すことができなかったターニャに、祖父母の家に出入りしていたワウダイはやさしく接してくれた。


『おまえの子じゃないよな? その赤ちゃん、わけありなんだろ? 実は俺の子だったって言えよ。おまえが王都へ出て行ったときには、すでにその子を宿していたってことにしたらどう? その方がみんな幸せになれるじゃん』


 ワウダイの温かな言葉に、ターニャは、がまんできなくなり、ワウダイに泣いてすがって、サイニッスラで何があったかをようやく吐き出すことができた。祖父母にもやっとすべてを打ち明けた。

 ターニャは、それからリーザ赤ちゃんの母親として半年ほどがんばったが、祖父母が慣れない赤ちゃんの世話に疲れはててしまい、育てる金もないから孤児収容所へ連れて行くべきだと、何度も言うようになった。ターニャは仕方なく、一歳になったばかりのリーザを連れて村を出た。王妃に面会できたらどうにかしてくれるかも、という小さな希望を持って。王妃から贈られたという刺しゅう入り赤子用の毛布だけが頼りだった。

 そのときも、ワウダイはターニャを励まし、馬車を出して王都まで付き添ってくれた。

 そして、ワウダイは、秘密を知る者として、ターニャと共にロイエンニの家で働いている。


 何も知らないアンジェリンを乗せた馬車は、王都を離れていく。

 ターニャは、うとうとと眠り始めたアンジェリンに毛布を掛け直した。

 ──お嬢様……。ここにいるみんなは、お嬢様の秘密を守るためにがんばっています。あの時赤ちゃんだったお嬢様がこんなに大きくなられて若奥様そっくりに……。私は、お嬢様がご両親の真実を知らなくても、きっといつかお幸せになれると信じています。おなかの子は陛下のお子ですもの。


 ◇


 一方、フェールはアンジェリンが生きていることは知らないまま軍を順調に東へ進め、ザンガクムとの国境を難なく越えた。フェールの軍に加わる義勇兵の数はどんどん増え、総兵数十万を超えていた。目指すはザンガクム王城がある町、コオサ。

 コオサは、国境に比較的近く、セヴォローンの王都エンテグアから見ると東北東に位置する古い町だった。キャムネイ王とクレイア王女は、この町の中央にある城に逃げ帰っているとの情報がある。

 フェールは、途中の町を無駄に血で汚すことはせず、無抵抗な人民には、宿や武器などの提供を呼びかけ続けた。その結果、セヴォローン軍は大きな犠牲を出さずにコオサに到着し、町の要所を制圧し、王城を包囲することに成功した。

 しかし、すぐに王城を落とすことは難しかった。


 コオサ城は、城を囲む深い水堀に守られている。城と町をつなぐ跳ね橋は一本きり。現在、跳ね橋は上がった状態で、城は孤島になっている。

 城を取り巻く堀の水は、近くを流れる自然の川を利用しており、絶えず流れがあり、さらに堀の向こうには高い塀がある。堀を泳いで渡ったとしても上がる場所がない。堀の幅はかなり広くどこも均一で、対岸からの弓矢や投石機での攻撃は届かない。堀の中へ船を乗り入れても、素早い動きができない船では、攻める側が不利になる。城は、狭い敷地の中に、いくつもの細く高い塔が競うようにそそり立っており、多くの人間や物資を収容できることは明らかで、万単位の兵が潜んでいることは間違いない。

 フェールは、堀の水を上流でせき止め、堀を空にする命令を出した。まずは堀を歩ける状態にする。そうしないと近づけない。



 コオサ城内ではキャムネイとクレイアが、高い場所の窓から、城を包囲する敵軍を眺めていた。

「ほほほ、お父様の言った通りになりましてよ。すごい数の軍。何万人いるのかしら。あれほどの大軍を養えるだけの物資は、この町にはありません。この寒さに持ちこたえられるわけがありませんわ」

「さよう。この城を囲んでいても寒いだけである。町の商店は引き払うよう命じてあるし、貴族たちの館にも毛布や食料を置いていないはずである」

「兵たちはじきに寒さと餓えで音を上げましてよ。大軍ならば勝てると思うのは愚か者ですわ。大軍だからこそ消費量は莫大」

「じっと待っていればよい。この城は春まで持ちこたえられるだけの備蓄がある。そのうちに酒売人が仕事をしてくれるであろう」


 コオサ城が包囲されてから五日目の朝。

 キャムネイは、堀の水位が著しく低下していると報告を受けたが、笑っただけだった。一晩で堀の水はなくなり、中は泥と小さな水たまりになり、あちこちに氷が張っていた。

「あの若造め、水をせきとめて我らを干す気か。だが、何の問題もない。堀の水がなくとも我々が水不足になることはないし、堀がなくてもまだ塀もある。城の安全は守られておるわ」

 この城はもともと川だった場所に建てられており、地下水は豊富。城内には十分な食料も抵抗するだけの武器もある。



 堀の工事が完成し、堀の水が引いた日、フェールの元へ、伝令が大慌てで駈け込んで来た。冷えこみの強い深夜のことだった。

「陛下、大変でございます」

 すでに就寝していたフェールは、はっ、と目を開いた。こんな夜中にザンガクム軍が攻めてきたのだろうか。

「兵たちが多数、次々と血を吐いて死んでおります。すでに八十人以上の息がありません。今、テイジン様が治療にあたっておられますが、犠牲者はさらに増えそうです」

「食事に毒が入っていたのか?」

「それが、どうやら酒に何かを入れられたと思われ……」

 フェールは怒鳴りつけた。

「飲酒は禁止だと命じてあったはずだ。戦争中だぞ」

「申し訳ございません」

「誰が用意した酒だ」

「わかりません。どこからか来た密売人から買ったようなのですが」

 伝令はぺこぺこと頭を下げる。フェールは苦々しい思いに唇をゆがめた。

「全兵士たちに伝えよ。絶対に酒を飲むなと。毒入りだ」

 

 伝令が出ていくと、フェールは再びひとりで寝台に横になった。

「やられた……おそらく、これはザンガクムの作戦だ」

 飲酒している者がいることはフェールも薄々知っていたが、寒い中、酒で体を温めようとする者を完全に取り締まることは無理だった。外での見張りは短時間で交代させ、暖かい飲み物は常に用意するよう命じてあったが、それでも厳しい冷え込みは著しく戦意を奪っていく。軍の規律は乱れた状態になっていたが、どうしようもなかった。

 堀の中が乾くのを待つしかない。


 それから数日後、じれったい思いにいらいらしていたフェールは、ようやく堀の中の泥が固まり歩けそうだという報告を受け、すぐに軍幹部たちを招集し、明け方に攻撃を仕掛けることを決定した。

 攻撃時間まで少しだけ休んでおく。フェールは守られた部屋の寝台にあおむけになった。

「明日、陽を見るころには……」

 自分の判断一つで勝敗が変わってくるかもしれない。逃げ出したくなる衝動を溜息で逃す。ここまで来ている以上、後には引けない。いつまでも兵士たちに土木作業と包囲と訓練だけをやらせておくわけにもいかない。

 窓の外は冬の強い風が吹き荒れ、木々がしなってうなる音が聞こえてくる。風がやまないなら攻撃を仕掛ける。この痛いほどの寒さが味方になってくれるはずだ。水のない堀に兵を下ろし、強風に乗せて火矢を飛ばす。

 ――ただ……。

 フェールは天井を見上げた。

 今この瞬間にも、シャムアが寝返ってエンテグアの城を急襲していたら。

 シャムア王は、友好の証として第七王子ルヴェンソを人質代わりによこし、エンテグア港のザンガクム軍を追い払うことに協力し、誠意を示した。その後、ルヴェンソが本物の王族だと確認はとれて、シャムア軍はいったん撤退したはずだが。

 この機に裏切らないという保証はない。

 ルヴェンソは今もエンテグア城の塔の一角に『留学』という名目で監禁されているはずだが、ルヴェンソは捨て駒同然で、セヴォローンと西のシャムアの関係は、切れる寸前のすりきれた細い糸のようなもの。

 シャムアの政情は、依然不安定な状態にあり、教皇とシャムア王の争いはまだ続いているらしい。


 心配の種はどんどん湧いてくる。もしも、シャムア王が暗殺されて教皇が主権を握ったら、シャムアはすぐに気が変わって、敵国になってしまうかもしれない。

「私はヌジャナフの基地を燃やしただけでなく、脱出時に何人ものシャムア兵を殺してしまった……」

 シャムア王はそれを問題にはしていないようだが、それは、今のところは、というだけ。

 フェールがやったシャムア基地破壊行為は、シャムアがセヴォローンを攻撃する正当な理由になる。国を離れている今は、シャムアの気が変わらなければいい、と祈るしかない。


 懸念はそれだけではない。叔父のエフネート・ヘロンガルの動きも気になる。エフネートには、港の復興大臣という新しい地位を与え、警務総官から外した。彼が狙っていたと思われる宰相の地位は廃止し、宰相の下に付いていた者たちをエフネートの元に移動させ、ヘロンガル家の勢力を必要以上に強めないように気を付けたつもりだったが。

 エフネートが勝手に城内を制圧してしまう可能性がある。王城はマナリエナが守ってくれているが、マナリエナが自由に動かせる軍、白花隊の数はそう多くはない。

 

 フェールは落ち着かず、腹の傷跡に気を付けながら寝台の中で寝返りを打った。走る痛みに息を詰める。傷はまだ癒えてはいない。馬に無理して乗ったせいで、エンテグアを出てから調子が悪い日ばかりだった。それでも皆の前では痛みなど感じないふりをしてきた。

「だめだ……悪いことを考え出すときりがない」

 指先が凍るほどの寒さの中、自国の兵士たちが思い通りに動いてくれるかどうか。さらに、火矢が風でうまく飛ばない事態に陥るかもしれない。建物に引火させることができなければ、堀の水をなくしただけのこの作戦は失敗となり、他に決定的な攻撃手段はなく、冬が深まる中、撤退せざるをえなくなる。いつまでもコオサ城に固執していると、寒さで多くの兵が命を失う。

 今はコオサ城を包囲し、見た目は優勢であるが、ザンガクムの東の方からキャムネイ王を救おうとする貴族連合軍が突如押し寄せてくる可能性も、頭にいれておかなければならない。


 ザンガクム国には、正規の国軍とは別に、貴族連合軍という名の、それぞれの貴族の家が所有する私兵を集めた独自の軍隊がある。貴族連合軍は、総数だけ見れば、ザンガクム内の兵数の三分の一近くを占めている大軍であり、セヴォローンがコオサ城を攻略し、ここにいるザンガクム正規軍を全滅させたとしても、それではまだザンガクムに勝ったことにはならない。ザンガクム東部には貴族連合軍の本隊が駐留する難攻不落の城塞都市、ヨマイグがあり、戦いはまだまだ続く。


「今夜、絶対に勝つ。大丈夫だ、勝てる」

 痛みでうずく下腹部を片手で押さえながら、胸の首飾りを握りしめ、目を閉じた。

 固いガラス玉の感触が指先から伝わってくる。強欲武器商人から短剣と共に買った思い出の首飾り。

 ――こんなとき、アンがここにいて笑顔を見せてくれたなら、どれほど心が安らいだことか。

 その名を口にできない今は、人前で首飾りに触れないように気を付けてきた。ひとりきりで眠る時間だけ、二人の思い出で心を慰める。彼女と旅をした時間は短くてもいつも輝いていた。

 ――この首が胴体から切り離されたら、そのときはおまえの魂と溶け合い、二度と離れはしない。おまえと旅に出た私は間違っていたか? 誰も教えてくれないのだ。

 きっと間違っていた。だから誰も何も言わないのだろう。彼女は処刑されてしまった。彼女の死を防ぐことができなかったのはすべて自分の責任。危険とわかっていたなら、そして、彼女のことが大切ならば、自分ひとりで出国すべきだった。自分の意識がなくなるという事態を想定し、せめて、彼女を守る書類のひとつでも渡しておけばよかったのだ。

 ささやき亭で彼女の傷を見て激しく動揺し、逃げるように彼女の元を離れてしまった。異国の宿に怪我をした女ひとりを放置。これ以上の失敗作戦があるだろうか。あまりにも子供っぽかった自分を思い返すと、自分の手で自分の体中を痛めつけて罰を与えたくなる。

 許せない父王も、相談すべき弟王子も今は存在しない。頼りになる友は行方知れずで生存はほぼ絶望。そして、よりにもよって友の父親は裏切り者だがまだ野放し状態のままになっている。

 今回の遠征の総司令官に任命したドイガー将軍は今のところは忠実で有能だが、彼が命令に反してガルダ川の砦を全く守らず海賊と共に燃やしてしまい、エンテグアへ全力で戻ったことを問題視する声は多くある。将軍の判断のおかげで結果的にはエンテグア城は包囲されずに済んだわけだが、すべての軍幹部がドイガーを支持しているわけではない。フェールとドイガー将軍の首を狙っている者が内部に潜んでいるかもしれない。


 フェールは毛布を額の上まで引き上げた。

 ――アン……寒い。ここへ来い。そばにいてくれ。私を抱きしめて慰めてくれ。誰も信じられない。信じられるのはおまえだけだった。おまえは、その心も、やわらかな身体も、すべてを私に捧げてくれた。おまえは、自分の真の名も、実の両親がどんな死に方をして、彼らを殺したのが誰かも、すべて知らぬまま……。身分を恥じて泣く必要などなかった。

 閉じた目尻からあふれた涙が、音もなくこめかみを伝い、髪の生え際へ染み込んでいく。

 ──もう一度会って、きちんとわびたい。そして抱き合って眠りたい。

 引き上げられた毛布の下、誰にも聞こえない小さな声で、最愛の女の名を呼んだ。

 ──どこにいるのだ? おまえを放置した私を恨んでいるのか?

 このところ、夢にすら出てきてくれない。

 

 外は冬の強風が吹きつけている。建物は軽くゆすられ、うなる風音が、泣き声のように吹き抜けていく。

 フェールは涙を飲みながら、風の音を聞いていた。


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