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49.石壁の向こう

 アンジェリンは、ここに入れられてからほとんどの時間を寝台に横たわって過ごしていた。

 寒くて寝台から出られない、という事情もあったが、イルカンにやられた傷がなかなかよくならないこともその理由の一つだった。肩がうずいて体全体がどことなく熱っぽく、体調が悪い状態が延々と続いていた。食欲もなく、運ばれてくる食事のほとんどを食べ残してしまう日もあった。


 誰もいない独房。

 話を聞いてくれる人もなく、ひとりでしゃべるしかない。

「早く処刑してくれれば楽になるのに。処刑係の人は何をやっているのかしら。ここには仕事が遅いって叱る人はいないの? 侍女長さんだったら絶対に怒るのに」

 アンジェリンとココルテーゼの叱り役だった侍女長マリラの姿は、帰還してから一度も見ていなかった。マリラからは厳しくも丁寧な指導を受けた。彼女はアンジェリンがこんな形で捕まったことをどう思ったのだろう。申し訳ない気持ちが掠める。

 マリラの真似をしてつぶやいてみる。

「まだ処刑していないなんて職務怠慢です。あってはならないことですよ。仕事はできるだけさっさとやるように言ったはずです。だいたいあなたたちはいつもいつも──」

 さみしくなって途中でやめた。

「どこに怒っていいかわからないわ」

 静かな牢。当然、マリラの真似を聞いてくれる者などいない。

 きっと王城内は葬儀で大忙しで、どうでもいい囚人の死刑執行どころではないのだろう。


 空砲が轟き、アンジェリンは寝台から出て姿勢を正し、墓所のある方向に向かって頭を深く下げた。

 ──あの人が墓所へ運ばれていく……。あの人が死者になって……ディン、少しだけ待っていてください。私、処刑されたらすぐに追いかけるから。


 空砲がなってから、しばらく時を置くと、廊下に複数の人の気配がした。

 アンジェリンは、待ち望んだ死刑執行人がようやく来てくれたのかと思い、扉が開かれるのを待ったが、開かれたのは隣の牢の扉だった。

 誰かが隣の牢屋に入れられるらしい。アンジェリンがここに入れられてから、この仮の牢獄に他の囚人が来るのは初めてだった。

 兵たちが毛布を余分に用意しているらしく、新入所者の『お隣さん』は、どうやら身分ある男性だと推測できた。

 『殿下』と呼ばれていることから、上級貴族なのだろう。貴族専用の牢獄は城内の別の場所にあるのに、身分ある人がなぜこのような寒く暗い場所に閉じ込められなければいけないのか。

 隣人も陥れられた人なのかもしれないと思うと、妙に親近感がわいてきた。


 はしたない、と思いつつも耳をすませる。

『――このピツハナンデが――』

 よく聞こえない。でも、ピツハナンデの顔と名前は知っている。常に王妃を守っている城内最強の大男だ。

 ──お隣さんは王妃様の身内の方?

 石牢内では足音が響きすぎ、しかも、囚人になる人の声は弱々しくて聞き取りにくい。そのうちに兵たちは牢に鍵をかけ、去って行った。


 静かになった牢獄に隣人の小さな声が響いた。

『王家も終わりか……まあそれも──の元へ──』

 最後の方は声がかすれて聞こえなかった。

 ――どなたかしら? あの人の声に似ている。

 もしかして、フェールの魂が来てくれたのかと周りを見回した。誰もいない。

 ──ばかね。魂が話しかけてくれるなんて、そんなことはお話の中だけのことでしょう? ああ、でもお隣の方は、あの人にお声が似ていらっしゃったわ。

 処刑される前にもう一度、愛しい人の声がきけたなら。

 アンジェリンは隣人がいる方の石壁に耳を当てた。

 何も聞こえない。


 我慢できずに、手のひらで石壁をパタパタと叩いて声をかけてみた。

「あのう、すみません」

 返事は帰ってこなくても、中に人はいるはず。

 もう少し大きな声を出してみた。

「私は隣の牢に入っている者ですが、少しだけ教えてください。朝からなんだか騒がしいようですが、葬儀で不手際でもあったのでしょうか」

 期待をして返事を待ったが、隣人は何の反応も示さなかった。


 アンジェリンは、がっかりしたが、いきなり知らない隣人から質問されたら気持ち悪いかもしれないと思い返し、言い方を考えながらもう一度声をかけた。

「失礼します。あなた様は王太子殿下と血縁関係がある方ですか? お声がとてもよく似ておられて、お話したくなってしまいました」

 やはり返事はない。こちらの声は絶対に聞こえていると思えるのに。

「あのっ、私、怪しい者ではありません。お話しませんか? 暇をもてあましています」


 しばらく待っても石壁の向こうから反応は返ってこなかった。相手はアンジェリンを徹底的に無視するつもりらしい。

「私は死刑囚なんです。いつまで生きていられるかわからないので、今、お声を聞かせてくださいませんか。人とお話できる時間も限られているんです」

 声を。

 大好きだったあの人の声に似ている声を、もっと。

 それだけで幸せな気持ちになれるのに。

 隣人は咳ばらいひとつしてくれない。


 それならば。

「そちらの【牢】には【ろうそく】はありませんか?」


 冷たい風が天窓から入り込む。

 隣人は笑いをこらえている気配すら出してくれなかった。侮蔑を含んだ薄笑いの呼吸音すらなく。

 駄洒落だとわからなかったのだろうか。それとも話すのが嫌いな人だったか、あるいは、身分ある人ゆえ、こんな牢に入れられている得体のしれない女の声にはいちいち反応などする必要がないと考えているのか。

 隣人は空気のようで、いてもいなくても同じだった。


 アンジェリンは肩を落とした。

「お邪魔して申し訳ありませんでした」

 黒っぽい石の壁にもう一度、そっと手を当てた。この壁の向こうに人がいるはずなのに、そんな気配はせず、ただ冷たい。手のひらから冷え切った石の硬さが伝わる。大きな石を隙間なく積み上げられて作られている壁はどこにも穴はなく、隣の部屋の様子は見えない。

 せめて、「黙れ」とか「うるさい」とかの声でもいいから何か言ってほしかった。



 それからどれぐらいの時間が過ぎたのかアンジェリンにはわからなかったが、廊下に響く声で、ハッ、と目を開けた。

 いよいよ執行人が到着かと思ったが、複数の足音と声は、謎の貴人がいる隣の部屋へ向かった。

「殿下、お待たせしました」

 ガチャガチャと隣の牢が開かれる音がする。

「お休みのところ申し訳ありませんが――」

 アンジェリンは耳に神経を集中させた。どうやら隣人は熟睡していたらしく、無理やり起こされている。何度も「殿下、お目覚めになってください、殿下」と呼ばれている。

 アンジェリンはそれなら自分の声掛けに返事をしてくれなくても仕方がないかと思いながら、耳をとがらせた。兵たちの話し方が緊迫している感じがする。やはり、想像通り、葬儀で不備でもあったのかもしれない。

「殿下、ご安心ください。城内の反乱軍の排除に成功しました」

 アンジェリンは驚いて耳を疑った。

 ――葬儀の隙に反乱が起こった? お隣さんはどういう方?

 あれこれ想像しているうちに、殿下と呼ばれていた『お隣さん』の声が戸口まで移動し、今度ははっきり聞こえた。

「よくやってくれた。怪我人の手当てを優先させ、捕らえた反逆者たちは全員ここへ放り込め」

 アンジェリンは身を震わせた。

 ――あの声!

 やはり恋しい人の声にとても似ている。話し方まで。

 兵士らしき男が説明している。

「とりあえず、殿下の御身は安全が確認された白花館の方へお運びします。ただ、埋葬に出たままの国王陛下とは連絡が取れていない状態でございます」

「状況がつかめ次第報告せよ」

 そっくりすぎる声にアンジェリンは心の震えを止められなかった。

 フェールであるはずがない。彼は死んで今日の葬儀で送り出されているのだから。

 ときめく心臓を押さえた。奇跡のように似ている声がここで聞けることは運がいい。きっと、王族関係者だ。血のつながりが深い人物となると。もうひとりの王子が浮かんだ。

 ――もしかしてお隣さんはザース殿下だったの? だとしたらどうしてここに? なぜ葬儀に出ておられないの? 反乱があったからここへ避難なさったの?

 アンジェリンは想像するだけでは我慢できなくなり、寝台から出て、廊下が少しだけ見える鉄扉の覗き窓に張り付いた。

 食事を出し入れするだけの横長の細い覗き窓から廊下の様子をうかがうと、隣の牢から大男が誰かを横抱きにして出て行くのが見えた。その大きな背に『お隣さん』の顔は隠れていたが、黒衣をまとった長い手が大男の肩に回り、黒革のブーツを履いている足が宙に揺れていた。

 抱かれている人物が発したと思われる声が。

「では、父上も母上も駄目かもしれないということだな?」

「残念ながら確認が取れません。伝令の兵すら戻ってきておりません」

 誰かがすまなそうに返答している。

 アンジェリンは心の中で叫び声をあげた。

 ――ザース殿下じゃないわ。あの方はやはり王太子殿下。生きておられた! まだ歩けない状態だけど生きていらっしゃる!

「王太子殿下! フェール様ですよね?」

 アンジェリンが思わず声に出して呼んでしまったが、フェールはピツハナンデに抱かれたまま兵たちの話に集中しており、複数の靴音が響く階段を上っていく途中で、アンジェリンの声には反応しなかった。


「ディン……よかった……本当に……っ」

 アンジェリンは天窓から細く入る光に向かって祈りを捧げた。

「運命の神様、ありがとうございます。あの人が生きていてくれて……これで心おきなく死ねます」

 歓喜の涙が頬を伝い落ちる。彼は元気になってきっと幸せになれる。


 ただ、心に引っ掛りもできた。葬儀に乗じたと思われる動乱は彼にとって決していいことではないと思える。城内が混乱状態だとすると、クレイア王女との結婚はどうなるのだろう。

 そして大きな疑問。

 いったい誰の葬儀が行われたのか。

 ──誰も亡くなっていないの? でも兵士たちが葬儀って確かに言っていたわ。どうなっているの?

 もしかすると、彼は自分が死んだことにして王女との結婚を避け、身分を捨ててまた国を出る予定だったのかもしれない。葬儀まで出して国民を欺いて、葬儀の間はここに隠れて。ここの兵たちはすべてを知って協力しているとして、城内に異変があったらしい状況で、彼はこれからどうするつもりなのだろう。

 

 寒く静かな牢内、心の引っ掛かりを解決してくれる答えはどこにも落ちておらず、アンジェリンはまた寒い牢に取り残された。



 そのころ、ザース王子の葬列は予定通りゆっくりと進んでいたが、途中で想定外の事態に見舞われ、混乱状態に陥っていた。

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