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29.気まずい夜


 昼間の晴天が嘘のように天気は崩れた。雷雲が近づいてくる音が聞こえ、雨がぽつぽつと当たり始めた。坂道を半分も下らないうちに雨は大粒に変わった。

 アンジェリンはフェールに手首をつかまれたまま、引っ張られるように走った。

 ささやき亭に着くと、入り口の外には、酒場で死んだ男が放り出されていた。死体をよけて中に入ると、フェールは無言でアンジェリンの手を放し、まだ縛られたまま転がっている少年に近づいた。


 床に散乱した割れ瓶を片付けていた亭主が顔をあげた。

「お客さん、お帰りなさいませ。その子も治安兵に引き渡すんですかい?」

 フェールは口を閉じたまま、倒れている少年の横に立ち、静かに剣を抜いた。

「ディン、何をするんですか、やめて! この子を殺さないでください!」

 アンジェリンは止めようと叫んだが、フェールは少年を縛っている麻紐を切っただけだった。


 フェールは少年の体の脇にしゃがみこんだ。

「生きていたいなら、今すぐここを出て行くのだ。おまえと一緒にここへ来た仲間は、全員、治安兵に処刑された。兵がここへきたら、おまえも同じ運命をたどることになる」

 少年は、拘束を解かれて上半身を起こしたものの、不思議そうにフェールを見上げている。

「理解できないのか。おまえと一緒にこの村に来た仲間は死んだと言ったのだ」

「お兄ちゃんが死んじゃった?」

 ひきつった顔をする少年に、フェールは淡々と告げた。

「兄のことは気の毒だがあきらめろ。いいか、ここにいればおまえは治安兵に殺されるが、グフィワエネに戻ってもおそらくは同じ。この先も生きていたいなら、治安兵もグフィワエネもいないところまで逃げるしかない」

「俺が……殺される……」

「死にたいならば、ここでそのまま待っていろ。私はおまえの逃走を手伝うつもりはないし、グフィワエネとは無関係な通りすがりの旅人だ。その麻紐は、私が切ったのではない。おまえが隠し持っていた剣で縄を切った。そうだろう、亭主?」

 亭主は、外の状況を理解したらしく、フェールの問いに、強く頷いた。

「お客さんは無関係ですからね。そのぼうずが勝手に紐をほどいちまったんだ」

「縄がほどけたならば、さっさと出て行け! 死にたいのか!」

 フェールの怒鳴り声に、少年ははじかれたように立ち上がり、アンジェリンをちらっと見て「ありがとう」とつぶやくと、冷たい雨の中へ飛び出して行った。


 ひげの亭主は、心からほっとした顔をしていた。

「お客さん、いろいろありがとうございました。さっきの子、助かることを祈りましょう。あの子、別居している自分の息子とだぶっちまいましてね、なんとかして助けられないかと考えておりました。さあさ、今から飲み直しませんか? お客さんは体をはって店を守ってくれたから、今日はおごりますよ」

「ああ、酒は後でもらおう。それより湯の用意を頼む。血の臭いが不快だ」

 フェールの服は、ひじやひざの部分は擦れて破れていた。そこに血はにじんでおらず、怪我はしていないように見えたが、アンジェリンは勝利を素直に喜べなかった。

 彼の服全体に散らばるように付着している赤黒い液体。それは、誰かの血……最悪、ルウニーの父親の血かもしれなかった。



 湯あみを終えたフェールは、アンジェリンを二階の部屋に残し、長い時間下の酒場にいた。戦いが始まる前にここで飲んでいた人々も飲み直しに戻って来て、酒場は再びにぎやかになった。アンジェリンはフェールの好きにさせておいたが、かなりの時間が経過しても、彼はなかなか戻ってこなかった。

 アンジェリンは部屋の寝台に腰掛けてずっと待っていた。先に寝るようにと言われていたが、まったく眠くならない。グフィワエネたちが惨殺される音が今も続いているような気がして、両手で自分の耳をふさいだ。


 長い時間が経った後、フェールはようやく部屋に戻ってきたが、彼はアンジェリンがまだ起きていたのを見ると、急に怒り顔になり、アンジェリンの寝台の向かいにある自分の寝台に、ドスンと腰を下ろした。

「先に寝ていろと言っただろう。まだ文句があるのか。ここは異国だ。どうしようもなかったことを責めるな」

 剣を刺すような厳しい目だった。それだけでアンジェリンは泣きたくなった。こんなことは恋人同士になってから初めてのことだ。

「なかなか眠れなくて……。あんなに大勢の人が処刑されてしまって……」

 アンジェリンが処刑場面を思い出して涙ぐむと、フェールはいらだちが強まったようで、少し声が大きくなった。

「泣いてもどうにもならないことだ。では、どうすれば最良だったと言うのか。私はおまえを守りたくて、命をかけてグフィワエネと精一杯戦い、彼らを殺し、捕えた。それが間違いだと言うならば、いくらでも反論してみるがいい」

「ディンが間違っているなんて、思っていません」

「私は人助けのためにシャムアへ来たわけではない。手柄を立てて自分の位置を高めることが、ゆくゆくはおまえと国のためになると信じて行動している。あの場で私が力ずくで処刑を止めなかったことが不満だったようだが、それは無理だった。目の前でどんな残虐行為が行われようとも、治安兵に刃向うような目立つ行為は絶対に避けるべきだ」

 フェールが言わんとすることはわかる。治安兵と騒動を起こすような面倒なことはしてはいけなかった。それはわかっていても、目の前で起きた凄惨な処刑の光景が頭を離れない。

 アンジェリンは湧き出してきた涙を指でぬぐい、肩を落とした。

「よけいな行動をして目立ってしまい、すみませんでした。私はただ、人が死ぬのを黙って見ていられなくて……つい……」

「今回の戦いに勝利できたことは運がよかったが、おまえが飛び出して大勢に顔を見せてしまったことはよくなかった。セヴォローンでは若い男女の二人連れを血眼になって探しているはずだから、そろそろこの村まで誰かが捜しにやってくるころだ」

 彼の言った通りだと思う。きっとセヴォローンでは大騒ぎになっている。あちこちに追手を派遣して情報を求めているはずだ。セヴォローン王の関係者だけでなく、マニストゥの放った追手もいるはずで。


「おまえの気持ちはわからなくもない。だから少年を逃がしてやったが、あの子がグフィワエネに戻れば、必ずこの村は復讐という名目で彼らに襲撃されることだろう。私たちはあの少年を逃がすことで、この村を滅亡に追いやる原因を作った可能性がある。ここは焼けた家だらけになるかもしれない。あの薬師の村のようにだ。私があの少年に情をかけたせいで」

「そんな」

「それが私たちが今日やったことだ。だが、こうするしかなかったと私は思っている。どうだ、説明に満足したか? いったい私にどうしてほしかったのだ」

 フェールの言葉、ひとつひとつがアンジェリンの心に痛く刺さる。どうすればよかった、など、いくら考えてもわからない。多くの人間が撲殺された事実がただ重い。

「私は、人の命って……もっと重いものだと思っていました。あんなにも簡単に……」

「アン、私だってイルカンを殺したときでも平静でいられなかったのに、こんなところでまたこの手を血に染め、そして容赦ない処刑を見物することになるとは、気分がいいわけがない。ゆっくり酒を飲んで悪いか? 酔えば襲われた時の危険が増すが、酔わずにいられなかった。それぐらいは理解してくれていると思っていたが、そのような批判的な目を見られるとは心外だ」

「批判とかではなく――」

 アンジェリンが顔を上げると、フェールは、鋭い目つきのまま立ち上がり、アンジェリンの目の前に立った。

「私は英雄でも神でもなく、生きた心を持った人間だ。誰が人殺しなどしたいものか!」

「っ!」

 アンジェリンは、いきなり強い力で抱きしめられ、寝台に押し倒されていた。強引に唇を奪われ、息もできない。酒の香りが苦しい。

「私が怖いだろう? 私は人殺しだ。この手には血の臭いがこびりついている。洗っても落ちない。こんな男に抱かれるのが気持ち悪いなら、その手で私を絞め殺すがいい」

「そんなことを言わないで。あっ!」

 荒々しく覆いかぶさってくる彼。負傷している肩に激痛が走ったが、彼はおかまいなしだった。

 フェールは乱暴にアンジェリンの衣服をはぎにかかった。アンジェリンは抵抗せず、胸に顔を埋めたフェールの頭を抱きしめた。

 ――ディン、ごめんなさい。戦ってくれてありがとう。

 待っているだけの自分でも怖かった。実際に戦闘行為をした彼は、自分の想像を超えるほど恐ろしい思いをしていたに違いない。

 彼を大切に思っていると、批判するつもりもないと、心の中で叫びながら彼の背に手を回して腕に力を込めた。


 温かな生肌が触れ合り、すぐに熱が高まり、息が上がる。名を呼び合い高みへ向かう。

「っ……ん……」

 ――多くの人が殺された……それでもこうしている間は忘れられる。私たち、気持ちはきっと同じ。本当に怖かったの。

 体が壊れるほど触れ合わずにいられないほど。



 その夜、アンジェリンは気絶しそうになるほど何度も強く求められた。

 湿気を帯びた寝台で耐えきれず上げる声が、外の雨音にかき消されていく。ガラス窓や外壁に雨粒がたたきつけられ、不規則に雨がパラパラと当たる雨嵐は朝まで続いた。


 明け方頃、疲れて朦朧としていたアンジェリンは、フェールが部屋のランプを灯し、肩と胸の包帯をはずそうとしてくれていることに気が付いた。激しかった行為で、肩から胸の谷間にかけて巻いた包帯は、すっかりくしゃくしゃになっている。

「無理をさせて悪かった。薬を塗ってやる」

 目を開ければ、琥珀色の目が静かにアンジェリンを見下ろしていた。

「酒を大量に飲んで自制が効かなくなるほど酔った上、怪我をしているおまえを乱暴にしつこく抱いて、自分の心の平静を保とうとするとは、私は芯まで腐った人間だな」

 アンジェリンの寝台に腰かけているフェールは、唇を少しゆがめて笑った。「最低だ」

 アンジェリンはどういう言葉をかけていいかわからず、横になったまま黙って彼の横顔を見あげた。

 フェールは自虐的な笑い顔のまま続ける。

「かけおち男女の振りをしてシャムアに入国するという目的はかなった。おまえが望むならば、先に帰路に就くことを許す。大きな街道ならば通行人が多いし、昼間は女一人旅でもそれほど危険はないと思う。ただし、傷の状態がもう少し落ち着いてからにしろ」

「ここで別れるとおっしゃるのですか。嫌です! 私はどこまでも行けるところまで一緒に――」

 フェールはアンジェリンの唇に指先で触れ、言葉をさえぎった。

「それ以上何も言うな。私は自分が嫌いだ。おまえに残念なところばかりを見せ続けるのも嫌なのだ。こんなにひどい怪我をしているおまえに、子どものようにすがって不安を解消しようとするとは、動物以下だ」

「ディン……」

 アンジェリンはゆっくりと起き上がって、寝台に腰かけているフェールの体にゆっくりともたれかかった。

「辛い時に肌のぬくもりを求めるのって、自然なことだと思います。だって、すがりたかったのは私だって同じです。今日はいろいろあったから、何も考えずにあなたに甘えたくて」

 フェールは悲しそうな表情を緩めた。

「だから寝ずに私を待っていたと言うのか?」

「【すがって】【清々しく】なりました」


 フェールは暗い顔を崩し、突然声を出して笑い始めた。

「ははははっ、おまえにはかなわない。おまえはどんな心の闇でも簡単に駄洒落ひとつで追いはらってしまう。私は本当に駄目な人間だが、おまえがいてくれるからどうにか生きていられるのだ。襲われる可能性がある異国で、またしても酒におぼれてしまった」

「心がつらい時におかしくなるのは当たり前です。私もおかしくなっていたんですから、気にしないでください。私の傷は大丈夫です」

「嘘を言うな。傷がひどく腫れている」

 フェールの手がアンジェリンの頬を包む。唇が軽く合わさった。

「手当てをしてやる」

 フェールは袋から傷薬の瓶を取り出した。


 セシャがくれた泥色の塗り薬の香り。つんとした香りがするその薬が、彼の指先でそっと塗りつけられる。裸体をさらしてもあまり恥ずかしさを感じなくなっていた。彼に触れられると、そこから花が咲くように、幸せな気持ちが広がっていく。王太子殿下にこんなことをしてもらっているとは今は思わない。彼は夫だ。この国の神の祝福を受け、世間的にも正式に認められた愛する伴侶。

「もしかして熱があるか?」

「傷のところが熱っぽいですけど、平気ですよ」

「明日はここでゆっくり休もう。おまえが倒れてはどうしようもない」

 フェールはそう言うと、アンジェリンの肩先に唇をやさしく押しあてた。

「さすがに裸では寒い。今夜は冷え込みそうだ」

 彼が袖に手を通すのを手伝ってくれる。アンジェリンの眠気は限界に来ており、あくびを噛み殺しながら服を着せてもらった。


「おやすみ、私のアン」

「おやすみなさい、ディン」

 瞼が下がる。

 ――私は幸せ……。彼は暖かい。

 アンジェリンは彼の腕が体に巻き付いていることを感じながら深い眠りに落ちた。

 そのまま昼近くになっても目が覚めず、早朝、フェールが部屋を出て行ったことにはまったく気が付かなかった。


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