第56話:北の夜の買い出しと、王者の戦慄
一九九八年八月、北海道。
熱狂渦巻くインターハイの会場から遠く離れた、静かな地方都市の夜。
街灯の少ない夜道を、二人の少女が両手に重いスーパーのレジ袋を提げて歩いていた。黎明高校バスケットボール部のマネージャー、橘葵と綾瀬涼香である。
「ふぅ……。鶏胸肉にバナナ、それに果汁100パーセントのオレンジジュース。やっぱり普通のスーパーだと、これだけの人数分を揃えるのは一苦労ね」
葵が額の汗を拭いながら、ずしりと重い袋を持ち直した。
現代のように、どこにでもコンビニがあり、プロテインゼリーや高タンパクのサラダチキンが手軽に買える時代ではない。試合で枯渇した選手たちのグリコーゲンと破壊された筋繊維を修復するためには、こうして地元のスーパーを回り、最適な栄養素を自分たちの足でかき集めるしかなかった。
「でも、これで明日の朝食と試合前の補給は完璧よ。蓮くんのペースコントロールがあったとはいえ、玄海商業との四十分間は、みんなの身体に相当な負荷をかけているはずだから」
涼香が横で頷きながら、もう一つの袋を抱え直す。データ分析担当の彼女もまた、選手たちの疲労度を数値化し、葵の栄養管理を裏から支えていた。
虫の音が響く夜道。
二人が少し息を切らしながら歩いていると、不意に背後から足音が近づいてきた。
「……やっぱり、買いすぎだと思ってな」
落ち着いた、だがどこか柔らかい響きを持った声。
葵と涼香が振り返ると、そこには私服姿の如月蓮が立っていた。
コート上での冷徹で隙のないユニフォーム姿とは違う。ゆったりとした白いTシャツに薄手のパーカーを羽織った、年相応の十五歳の少年がそこにはいた。
「蓮くん!? どうしてここに……」
「黒木さんたちが『腹減った』と騒ぎ出したんでね。宿舎の夕飯だけでは足りなかったらしい。追加の買い出しに出たついでだ」
蓮はそう言うと、葵と涼香の手から、重いレジ袋を黙って半分引き取った。
「あ、ちょっと、蓮くん! それ重いから……」
「これでも鍛えている。それに……君たちが僕たちのために無理をしていることくらい、分かっているつもりだ」
涼やかな横顔が、街灯の淡い光に照らされる。
コートの上では、相手の心をへし折る魔王のように盤面を支配する男。だが、一歩コートを出れば、彼は仲間を気遣い、女の子の重い荷物を自然に持ってあげる、ひとりの不器用な少年だった。
「……ありがとう、蓮くん」
葵が少し頬を赤くしながら小さくお礼を言うと、涼香もふっと口元をほころばせた。
「本当に……コートの外だと、ただの男の子ね」
「心外だな。これでも紳士のつもりなんだが」
軽口を叩き合いながら、三人は宿舎への道を歩く。
過酷な死闘が続くインターハイの中にあって、それは彼らにとって何より代えがたい、穏やかで温かな『間(日常)』だった。
◆ ◆ ◆
同じ頃。
黎明高校が宿泊している古びた旅館とは打って変わって、札幌市内の高級ホテルの一室。
そこには、重苦しい緊張感が張り詰めていた。
部屋の中央に置かれた大型テレビの画面には、本日行われた『黎明高校 対 玄海商業』の試合の録画映像が流れている。
画面を睨みつけているのは、インターハイ連覇を狙う絶対王者・帝王山高校の面々だった。
「なんだこりゃ。この黎明ってチームのポイントガード、ビビってボール持ったまま動けてねえじゃん」
「玄海も玄海だ。なんでこんなスローペースに付き合ってんだよ。もっとガンガン当たれば一発で潰せるだろ」
帝王山の控え選手たちが、画面を見ながら呆れたように笑い合う。
だが――部屋の奥で腕を組み、画面を食い入るように見つめていた男たちだけは、全く違う反応を示していた。
帝王山高校の絶対的エース・神宮寺と、白髪交じりの名将・御子柴監督である。
「……お前ら、黙って見てろ」
神宮寺の低く冷たい声に、控え選手たちの笑い声がピタリと止んだ。
神宮寺の額には、うっすらと冷や汗が滲んでいた。
「監督。こいつ……わざとやってますね」
「ああ。間違いない」
御子柴監督が、忌々しそうに呻いた。
「玄海の連中は自滅したわけじゃない。この『如月蓮』という一年生ガードに、自滅するように仕向けられたんだ」
「え……?」
控え選手たちが怪訝な顔をする中、神宮寺が画面の中の蓮を指差した。
「見ろ。こいつ、玄海のトラップが来るギリギリの距離感を保ちながら、相手に『ストップ&ゴー』を強制させている。ディフェンスに遠心性収縮を強要し、大腿四頭筋に乳酸を溜め込ませるための、最悪の遅延行為だ」
「なっ……!?」
「そして第2クォーターの中盤、玄海の足が完全に乳酸で満たされた絶好のタイミングで、一気に超速攻へ切り替えた。ディフェンスを眠らせ、己の掌の上で完全にコントロールしてやがる……!」
神宮寺の言葉に、部屋中の空気が凍りついた。
「……この一年生ガード。バケモンか」
「ただの高校生じゃない。何十年もプロの世界で駆け引きをしてきたような、恐るべき老獪さとバスケIQだ」
御子柴監督が、手元の資料をグシャリと握り潰した。
「明日の3回戦。この黎明高校を、ただのまぐれ勝ちのルーキー軍団だと思うな。全力で、完膚なきまでに叩き潰すぞ」
「「「はいッ!!」」」
絶対王者の部屋に、かつてないほどの警戒と殺気が満ちた。
北の大地の静かな夜。
休息の裏側で、次なる死闘の幕はすでに上がり始めていた。
◇
――橘葵のマネージャーノートより。
一九九八年、八月某日。
夜、明日のための買い出し。
涼香ちゃんと二人で重い荷物を持っていたら、蓮くんが迎えに来てくれた。
試合中のあの冷たくて怖い顔とは全然違って、少し不器用で、でもすごく優しい等身大の男の子の顔だった。
一九九八年の今、コンビニで簡単に栄養補助食品が買えるわけじゃないから、こうして食事のバランスを考えるのは本当に大変。
でも、蓮くんやみんなの笑顔を見たら、そんな苦労も吹き飛んじゃう。
明日は3回戦。相手は、インターハイ連覇を狙う最強の王者・帝王山高校。
どんなに強い相手でも、私たちなら絶対に勝てる。
蓮くんの戦術と、私たちのサポートがあれば。
いざ、決戦の明日へ!
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