第54話:限界の脳と、究極のチェンジ・オブ・ペース
「攻めろよ黎明! 逃げてばっかりじゃねえか!」
「全然面白くねえぞ! なんだこの退屈な試合!」
真駒内アイスアリーナに響き渡る大ブーイングは、第2クォーターの中盤に差し掛かっても一向に鳴り止む気配がなかった。
スコアボードの数字は『28対25』。黎明高校がわずかに3点をリードしているものの、試合のペースは異常なほど遅かった。
すべては、黎明の司令塔・如月蓮による『極限のペースコントロール』が原因である。
玄海商業が誇る伝家の宝刀、オールコート・マンツーマンプレス。本来ならば相手からボールを奪い、一気にトランジション(攻守の切り替え)の乱打戦へと持ち込むための超攻撃的陣形だ。
しかし蓮は、自陣で8秒ギリギリまでボールを保持し、フロントコートに入ってからも24秒のショットクロックを徹底的に消費し続けていた。玄海商業の選手たちがボールを奪おうとトラップを仕掛けてきても、蓮は決して無理な勝負をせず、味方のスクリーンを使ってひらりと躱し、ひたすらに時間を殺していく。
(……あと4秒。パスアウト、陣内へ)
蓮の指示通り、外郭でボールを受けた陣内誠が苦し紛れのようにシュートを放つ。ボールはリングに弾かれ、玄海商業のリバウンドに終わる。
地味で、退屈で、泥臭い展開。観客からのブーイングがさらにボリュームを増す。
だが、コート上で対峙している玄海商業の選手たちの顔には、観客のような怒りではなく、得体の知れない『焦燥感』と『疲労』が色濃く浮かんでいた。
走りたいのに、走らせてもらえない。
トラップを仕掛けるためにトップスピードで飛び出し、蓮に躱されて急ブレーキをかける。この不規則な『ストップ&ゴー』の連続は、筋肉に対して強烈な遠心性収縮を強要する。彼らの大腿四頭筋には、すでに鉛のような乳酸がたっぷりと蓄積し始めていた。
しかし、この極限の我慢比べにおいて、ダメージを負っているのは玄海商業だけではなかった。
キュッ……!
蓮のバッシュが、ディフェンスの圧力を躱そうとした瞬間、わずかにフロアで滑った。
(……視界が、ブレる)
蓮は小さく息を呑み、瞬きをして焦点を合わせようとした。だが、脳の奥底から込み上げてくる強烈な疲労感が、彼の思考速度をコンマ一秒だけ鈍らせた。
肉体的なスタミナではない。常に敵全員のベクトルを読み、8秒と24秒のカウントを正確に刻みながらトラップを先読みし続けるという行為は、脳の前頭葉のブドウ糖を異常なスピードで消費していく。
どれほどの戦術眼を持っていようと、激しいプレッシャーに晒され続ければ脳は必ずガス欠を起こす。その絶対的な生理学の壁が、ついに蓮を捕らえようとしていた。
「今だ! 足が止まったぞ! 囲めェッ!」
玄海商業のベテラン監督が、ベンチから身を乗り出して咆哮した。
その声に呼応し、玄海商業のガード陣が獲物を見つけた飢えた獣のように、一気に蓮へと襲い掛かる。二人がかりの強烈なダブルチーム。パスコースは完全に塞がれた。
(しまった……!)
蓮の脳が警鐘を鳴らす。だが、疲労で身体が反応しない。ボールが刈り取られそうになった、まさにその瞬間だった。
「蓮ッ!!」
死角から、規格外に手足の長い男がスライディング気味に滑り込んできた。副主将の黒木凌だ。
彼は長いリーチを壁のように広げ、泥だらけになりながら玄海商業のトラップの角度を強引にズラした。さらに逆サイドからは、鮫島豪が強靭な肉体を投げ打ってカバーに入る。
「お前ばっかりに背負わせねえよ!」
黒木たちが作ったコンマ一秒の隙間。蓮はそこへ体を滑り込ませ、間一髪で包囲網を脱出する。
「ピーーーッ! タイムアウト、黎明!」
すかさず、ベンチの神崎コーチが審判にタイムアウトを要求した。
ベンチに戻るなり、蓮は膝に手をついて荒い息を吐いた。涼しげだった彼の額には、べっとりと冷や汗が張り付いている。
そこへ、マネージャーの橘葵が血相を変えて飛び込んできた。
「蓮くん! これを飲んで!」
手渡されたのは、冷たいスポーツドリンクではない。常温の水に、ブドウ糖と高濃度のアミノ酸を精密な比率で配合した特製ドリンクだった。
「脳のエネルギーが完全に枯渇しかかってるわ! 胃腸に負担をかけない常温で、すぐに血糖値を引き上げるから、少しでも休んで!」
葵の悲痛な声に、蓮は無言でドリンクを喉に流し込んだ。甘ったるい液体が食道を通り、急速に脳へと栄養を送り届けていく感覚。
「……ごめん。助かった、葵」
蓮が息を整えながら顔を上げると、黒木、陣内、鮫島、白石たちが、彼を囲むように立っていた。
「気負いすぎだぜ、蓮。お前が頭脳なら、俺たちは手足だ。手足くらい、いくらでも泥だらけにしてやるよ」
鮫島がニヤリと笑う。
蓮の瞳に、再び冷徹な、しかし確かな熱を帯びた光が宿った。
一方、玄海商業のベンチは活気に満ちていた。
「相手のポイントガードは限界だ! 明らかに動きが鈍った!」
「このタイムアウト明け、一気にフルスロットルで潰すぞ! ボールを奪って、俺たちのスピードを見せつけてやれ!」
ベテラン監督の檄に、玄海商業の選手たちは息を吹き返したように力強く頷いた。
ピーーッ!
タイムアウトが明け、両チームがコートに戻る。
玄海商業のディフェンスラインは、先ほどよりもさらに前がかりになっていた。完全に「仕留めに来る」配置だ。
対する蓮は、ボールを受け取ると、ゆっくりと腰を落とした。
その瞳は、眼前に迫る敵ではなく、コート全体の『盤面』を冷徹に見下ろしていた。
「……ディフェンスを眠らせる」
蓮の口から、ポツリとそんな言葉がこぼれた。
次の瞬間。
ダァァァンッ!!
爆発的な破裂音がコートに鳴り響いた。
それまで徹底的に歩くようなスピードでしか動いていなかった蓮が、突如としてトップギアの『超速ドライブ』を仕掛けたのだ。
究極のチェンジ・オブ・ペース。
「なっ……!?」
玄海商業のガードが慌てて反応しようとする。
だが、彼らの脳が「追え」と指令を出しても、肉体がそれに従わなかった。
第1クォーターから延々と「ストップ&ゴー」の遅攻戦術に付き合わされ、大腿四頭筋にたっぷりと乳酸を溜め込まれていた彼らの足は、急激なトップスピードへの移行に耐えきれなかったのだ。
ガクッ……!
まるで自ら足をもつれさせるように、玄海商業の二人のディフェンダーがコートに無様に崩れ落ちた。
「嘘だろ……ッ!?」
監督が絶叫する。
遅攻は単なる時間稼ぎなどではなかった。この瞬間のため、相手の足に乳酸という時限爆弾を仕掛け、神経系と筋肉の連動を完全に狂わせるための、恐るべき布石だったのだ。
完全にフリーとなった蓮は、フロントコートへと弾丸のように駆け上がる。
「陣内ッ!」
最高速のまま放たれたキラーパスが、スリーポイントライン外で待機していた陣内の胸元にピタリと収まる。
陣内は滑らかなフォームで跳躍し、ボールを放った。
スパァァァンッ!!
美しい放物線を描いたスリーポイントシュートが、ネットを鮮やかに揺らした。
一瞬の静寂。
そして、直後。
「うおおおおおおおおっ!!」
それまで黎明高校にブーイングを浴びせていた観客席から、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
観客たちはようやく理解したのだ。あの退屈な遅延行為のすべてが、この一瞬の爆発的なカタルシスのために計算し尽くされた、恐ろしいまでの戦術であったことを。
崩れ落ちた玄海商業の選手たちを尻目に、蓮はゆっくりと自陣へ戻っていく。
その背中からは、底知れない王者の覇気が漂っていた。
◇
――橘葵のマネージャーノートより。
一九九八年、八月某日。天候、晴れ。
インターハイ2回戦、第2クォーター。
観客席からのブーイングが、信じられないような大歓声に変わった。
蓮くんの脳が疲労で限界を迎えそうになった時は、心臓が止まるかと思った。でも、黒木くんたちが体を張って彼を守ってくれたおかげで、無事に常温のブドウ糖とアミノ酸を補給させることができた。
そして、蓮くんが仕掛けた奇跡みたいなチェンジ・オブ・ペース。
「ディフェンスを眠らせる」って言葉通り、ずっと遅いペースで乳酸を溜め込まれていた相手の選手たちは、急なスピード変化に足がついていけずに転んでしまった。
スポーツ医学の知識としては知っていたけれど、それを実際の試合で、しかも全国の舞台で完璧にやってのけるなんて……。
みんなの絆と、蓮くんの途方もないバスケIQ。
これが、私たちのチームなんだ。
ブーイングを歓声に変えたこの勢いで、絶対に玄海商業を倒す!
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