第53話:ブーイングの洗礼と、極限の綱渡り
「ブゥゥゥゥーーッ!!」
「攻めろよ黎明! つまんねえ試合してんじゃねえぞ!」
「金返せ! なんだあのポイントガード、ビビってんのか!?」
インターハイ2回戦、第1クォーター開始からわずか三分。
真駒内アイスアリーナは、見せ場のない泥仕合に対する観客たちの不満で完全に支配されていた。コートを包み込むのは歓声ではなく、容赦のない大ブーイングだ。
それもそのはずである。初戦で北の王者を破った新鋭・黎明高校と、圧倒的なスピードとフルコートプレスを武器とする福岡の古豪・玄海商業。誰もが激しい乱打戦とトランジション(攻守の切り替え)の応酬を期待していたのだ。
だが、スコアボードに刻まれた数字は未だ『2対0』。
たった一回のレイアップが決まったのみで、時計の針だけがただ空虚に進んでいた。
その退屈極まりない試合を作り出している元凶は、ただ一人。
黎明高校のポイントガード、如月蓮だった。
キュッ、とバッシュが静かに鳴る。
蓮はボールを保持したまま、自陣のバックコートでピタリと足を止めていた。
前方のフロントコートへボールを運ぶまでの制限時間である「8秒」。蓮は頭の中で正確にコンマ一秒までカウントを刻みながら、7・9秒のギリギリまでボールをキープし、玄海商業のプレスラインが焦れて飛び出してきた瞬間にだけ、ふわりとバックパスでいなす。
そしてフロントコートへ侵入した後も、決してリングへは向かわない。ショットクロックの「24秒」が20秒を切るまで外周を回り続け、最後の4秒で苦し紛れのようにアウトサイドシュートを放つ。当然、そんなシュートの確率は低く、リバウンドは玄海商業に奪われる。
「……また時間を使い切りやがった」
玄海商業のキャプテンが、苛立ちを隠せないように舌打ちをした。
彼らの代名詞である『オールコート・マンツーマンプレス』は、相手のテンポを狂わせ、ミスを誘発して一気に得点を量産するための超攻撃的戦術だ。ボールが激しく動き、双方が走り続けることで初めてプレスの圧力が生きる。
だが、蓮がボールを持ったまま微動だにしないため、玄海商業の選手たちは『プレッシャーをかけたくても、かけられない』という生殺しの状態を強いられていた。ダッシュしては止まり、またダッシュしては足止めを食らう。この不規則な『ストップ&ゴー』は、筋肉に莫大な遠心性収縮(ブレーキ負荷)を強い、彼らの太ももに急速に乳酸を溜め込ませていく。
「フン……。1年生の小賢しい時間稼ぎだ。そのうち必ずボロが出る」
玄海商業のベンチで、腕を組んで戦況を見つめていたベテラン監督が、鼻で笑った。
「プレスディフェンスは、ただ走るだけじゃない。相手に『ミスを許されない』という極限のプレッシャーをかけ続けることだ。あんな単調なボールキープ、高校生のメンタルとスタミナで40分間も保つわけがない。……陣形を変えろ! ハーフトラップだ!」
監督の指示が飛んだ瞬間、玄海商業のプレスラインが生き物のように形を変えた。
ただ闇雲にボールを追うのをやめ、コートの要所(ハーフライン際やサイドライン際)に巧妙な『罠』を張り巡らせ始めたのだ。蓮がボールをキープして時間を稼ごうとすれば、死角から猛烈なスピードで二人がかりのダブルチーム(トラップ)が襲いかかる。
「蓮ッ!」
ベンチから橘葵が悲鳴のような声を上げた。
玄海商業の適応力は、蓮の計算すらも上回ろうとしていた。古豪の意地。彼らはただイライラして自滅するようなバカではない。遅延行為を逆手にとり、蓮を一瞬のミスで狩り取るための包囲網を完成させたのだ。
(……来るか)
蓮の視界の端で、玄海商業の二人のディフェンダーが猛スピードで距離を詰めてくる。
パスコースは完全に塞がれた。ドリブルで抜こうとすれば、ボールを刈り取られる。一瞬でも判断が遅れれば即座にターンオーバーとなり、一気に試合の主導権を奪われる極限の綱渡り。
観客のブーイングが、さらに熱を帯びる。
(ここでミスれば終わりだ。だが……俺には、最強の『盤面の駒』がいる)
「行かせねえッ!」
玄海商業のトラップが蓮を完全に包囲しようとしたその刹那。
黒木凌が、長い手足を折り畳むようにして、蓮とディフェンダーの間にスライディング気味に滑り込んできた。
見事なまでのスクリーン(壁)。規格外のリーチを持つ黒木が腕を広げて立ち塞がったことで、玄海商業のディフェンダーは大きく外側を迂回せざるを得なくなり、一瞬だけトラップのタイミングが遅れた。
そのコンマ一秒の『ズレ』を、蓮が見逃すはずがない。
蓮は黒木の背中を擦るようにして包囲網をすり抜け、フリーになった陣内誠へと針の穴を通すようなバウンドパスを送った。
「もらったァッ!」
陣内が、息もつかせぬ滑らかなモーションでスリーポイントシュートを放つ。
スパァァァンッ!!
美しい放物線を描いたボールが、ネットを揺らした。
『3対2』。黎明高校の逆転。
「っしゃああああっ!!」
陣内が拳を握り、黒木が床に転がりながらも泥臭くガッツポーズを作る。
「……馬鹿なッ! あの完全なトラップを、たった二人の連携で……いや、あらかじめあの場所に壁を作る前提で、わざとトラップに引っかかったというのか!?」
玄海商業のベテラン監督の顔から、余裕の笑みが完全に消え去っていた。
彼の目に映る如月蓮の姿は、もはや「小賢しい時間稼ぎをする1年生」ではない。
完璧なまでのクロックマネジメント。玄海商業の適応すらも先読みし、仲間との阿吽の呼吸で罠を回避し続けるそのプレースタイルは、何十年も修羅場を潜り抜けてきたNBAの老将のような底知れない恐怖を漂わせていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ」
ボールキープを続ける蓮の額から、大粒の汗が滴り落ちる。
肉体的な疲労よりも、常にトラップの脅威に晒されながらコンマ一秒の計算を続ける精神的な負荷(脳のブドウ糖消費)が凄まじい。決して楽な戦術ではない。一歩間違えれば即死の、泥水をすするような極限の消耗戦だ。
「蓮くん、アミノ酸のドリンク用意してるわ! タイムアウトになったらすぐに心拍数を落として!」
「次のローテーション、白石と鮫島を早めに入れ替えてインサイドの壁を厚くします!」
ベンチでは、橘葵と綾瀬涼香が息の合った連携で盤面を支えていた。言葉を交わさずとも、黎明のベンチは蓮の『意図』を完璧に共有している。
「まだまだだ。俺たちのバスケット(我慢比べ)は、始まったばかりだぞ」
蓮は、会場からの大ブーイングを心地よいBGMのように聞き流しながら、再び自陣でゆっくりとボールをつき始めた。
走りたいのに走らせてもらえない玄海商業のフラストレーションが、徐々に彼らの足を、そしてシステムを蝕んでいく。
華麗なダンクも、熱い速攻もない。ただ時計の針だけが冷徹に進んでいく、美しくも残酷な第1クォーターが、幕を開けたのである。
◇
――橘葵のマネージャーノートより。
一九九八年、八月某日。天候、晴れ。
インターハイ2回戦、対玄海商業。
試合開始から、ものすごい大ブーイングの嵐。相手チームは全力で走りたいのに、蓮くんがギリギリまでボールを持って動かないから、会場全体がイライラに包まれている。
でも、ベンチから見ている私たちには分かる。これが、蓮くんの仕掛けた極限の戦術なんだって。
相手の監督さんがプレスの形を変えて追い詰めてきた時は本当にヒヤッとしたけれど、黒木先輩が泥臭く壁を作ってくれて、陣内くんが見事にシュートを決めてくれた。みんな、蓮くんの意図を完全に理解して、誰一人として集中を切らしていない。
蓮くんの頭の回転と精神的な疲労は計り知れないはず。だからこそ、私は最高のタイミングで栄養と水分を補給して、彼が最後まで脳をフル回転させられるようにサポートする。
ブーイングなんて関係ない。私たちが勝つための、これが最高のバスケットなんだから!
読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】の評価やブックマークをいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




