【NBA直前】第46話:出発の朝と、北の王者への宣戦布告
一九九八年、八月。
ついに、その日がやってきた。
蝉時雨が容赦なく降り注ぐ黎明高校の正門前には、早朝にもかかわらず、バスケットボール部の保護者や学校関係者、そして神崎コーチが手配した大型の貸切バスが待機していた。
「忘れ物はないか!? バッシュ、ユニフォーム、タオル……特にテーピングと常備薬は絶対に切らすなよ!」
神崎コーチが、バインダーを片手に厳しい声で点呼を取っている。
「はいっ!」
黎明の選手たちが、揃いのジャージ姿で力強く返事をした。
その背中には、誇らしく『REIMEI』の文字が刻まれている。
わずか三週間の直前合宿。だが、山中で極限まで鍛え抜かれた彼らの肉体と顔つきは、県大会の時とは比較にならないほど引き締まり、研ぎ澄まされていた。
「……ハァ、ついにこの日が来やがったか」
鮫島豪が、大きなボストンバッグを肩に担ぎ直しながら、ニヤリと笑う。
「全国の舞台……。北海道の怪物がどれだけのモンか知らねえが、俺たちの『走り勝つバスケ』で絶対にへばらせてやるぜ」
「鮫島くん、あんまり力まないでね。本番前に怪我でもしたら元も子もないんだから」
白石岳が、苦笑いしながら窘める。彼の体つきも、以前のただ大きなだけの脂肪の鎧から、筋肉の隆起がはっきりとわかる屈強なシルエットへと変貌を遂げていた。
「おい、陣内。お前、顔色が悪いぞ。まさかプレッシャーで腹でも下したんじゃないだろうな?」
黒木凌が、少し青白い顔をしている陣内誠の肩を軽く小突く。
「ち、違うっての! 昨日の夜、スリーポイントのフォームの最終確認をしてたら、いつの間にか朝になってただけだ!」
「お前なぁ……合宿であれだけシュートを打ち込んだのに、まだやってたのかよ。いい加減、本番にピークを合わせるってことを覚えろ」
黒木が呆れたようにため息をつく。
「二人とも、無駄口を叩いている暇があったら、さっさとバスに乗り込め」
涼やかな、しかし絶対的な響きを持つ声が響いた。
如月蓮。黎明高校の司令塔であり、実質的なコート上の指揮官だ。
彼は、無駄のない所作で自分の荷物をトランクルームへ押し込むと、静かな瞳で仲間たちを見渡した。
「合宿での三週間、お前たちは俺の要求する『戦術』と『バイオメカニクス』を完全に体現してみせた。今の俺たちなら、相手がどんなフィジカルモンスターだろうと、確実に崩せる」
蓮の言葉に、陣内や鮫島たちの表情がピリッと引き締まる。
「だが、忘れるな。相手の『北海大付属』は、地元開催という圧倒的なアドバンテージを持っている。アリーナの空気、観客の声援、そして気温や湿度……すべてが奴らの味方だ。俺たちは、完全なアウェーの中で戦わなければならない」
蓮は、手元の戦術ノートを軽く叩いた。
「だからこそ、惑わされるな。俺たちが信じるべきは、自分たちの鍛え上げた身体と、計算し尽くされたシステムだけだ。……行くぞ」
「「「おうッ!!」」」
黎明の選手たちの、力強い声が夏の空に響き渡った。
◇
貸切バスが動き出し、見送りの人々が手を振って小さくなっていく。
車内では、興奮冷めやらぬ選手たちが、それぞれに全国大会への思いを語り合っていた。
「……ついに、全国か」
窓際の席で、蓮は静かに外の景色を見つめていた。
中学時代、権藤という昭和の亡霊に支配され、絶望の淵にあった南陽中のチームメイトたち。
そして、黎明高校で新たに出会い、共に死線を潜り抜けてきた仲間たち。
彼らすべてを、一つの有機的な『チーム』へと練り上げ、ついにここまでたどり着いた。
(前世で俺が追い求めた、究極のアナリティクスとチームビルディング。……それが、この日本の高校バスケという舞台で、どこまで通用するのか)
蓮の胸の奥で、かつてのNBAヘッドコーチとしての闘志が、静かに熱を帯びていく。
「如月くん」
不意に、隣の席から声が掛かった。
振り向くと、ノートPCを開いた綾瀬涼香が、眼鏡の奥から真剣な眼差しを向けていた。
「北海大付属の最新のスカウティングデータ、最終確認をしておきたいの」
「ああ、頼む」
蓮が頷くと、涼香は画面に映し出されたいくつかのグラフと映像を指差した。
「彼らの基本フォーメーションは、やはりインサイドを固める『2-3ゾーン』。平均身長185センチ超の巨漢たちが、ペイントエリアに分厚い壁を作ってくる。……でも、気になるデータが一つあるの」
涼香の指先が、グラフの一点を示す。
「彼らのキャプテンであり、大黒柱のセンター……彼の『プレイタイムごとの運動量低下の割合』よ。普通なら、あれだけの巨体で肉弾戦を続ければ、第3クォーター後半から確実に足が止まるはず。でも、彼のデータは、試合終盤になっても一定のパフォーマンスを保ち続けているの」
蓮は、画面のグラフを食い入るように見つめた。
(……異常なスタミナか? いや、違う。おそらく、無駄な動きを極限まで省く『省エネ』の技術、あるいは『ペース配分』を本能的に熟知しているかだ)
蓮の脳内で、無数のシミュレーションが高速で展開されていく。
「綾瀬さん。彼らの第4クォーターにおける、オフェンスの選択率のデータはあるか?」
「ええ、出せるわ」
涼香が素早くキーボードを叩く。
「……やはりな」
データを見た蓮の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「彼らは、試合終盤になると、極端に『ピック&ロール』や『確実なポストプレイ』といった、システマチックでリスクの少ない攻撃へとシフトしている。……つまり、感情や勢いに任せたプレイを捨て、機械的に確率の高いプレイだけを選択しているんだ」
「それって、つまり……?」
「彼らの本当の恐ろしさは、フィジカルじゃない。どんな状況でもブレない『冷徹なシステム』だ」
蓮は、窓の外の青空を見上げながら、静かに告げた。
「……面白い。極寒の地で鍛え上げられた、感情を持たない機械のバスケットボールか。俺たちの『アーリーオフェンス』と、どちらが先にシステムを崩壊させるか……見ものだな」
◇
――橘葵のマネージャーノートより。
一九九八年、八月某日。天候、晴れ。
ついに私たちは、インターハイの舞台である北海道の大地に降り立った。
飛行機を降りた瞬間、東京のまとわりつくような真夏の熱気とは全く違う、肌を刺すような涼しく乾いた風が吹き抜けていった。
どこまでも続く広大な青空と、地平線まで見えそうな大地。
そして目の前にそびえ立つ、巨大なドーム型のアリーナ。
陣内くんも、鮫島くんも、白石くんも、黒木くんも、あまりのスケールの大きさに圧倒されて、しばらく言葉を失っていた。
合宿からの三週間、みんな本当に限界まで自分を追い込んでいた。
実家が鍼灸整骨院の私から見ても、彼らの筋肉は常に悲鳴を上げている状態だったけど、蓮くんのバイオメカニクスに基づいたフォーム改善と、神崎コーチの徹底した管理のおかげで、誰一人として致命的な故障を起こすことなく、最高の状態でこの日を迎えることができた。
みんなの引き締まった背中にある『REIMEI』の文字が、今日はとても大きく、そして頼もしく見える。
神崎コーチの「行くぞ」という掛け声で、私たちは開会式の会場へと向かった。
全国から集結した、50校以上の代表チーム。
アリーナの通路を歩いている時、私たちは初戦の相手である『北海大付属』の選手たちと偶然すれ違った。
白いユニフォームを着た彼らは、涼香ちゃんのデータで分かってはいたものの、実際に目の当たりにすると見上げるほど大きくて、まるで氷の壁のような巨漢の集団だった。
彼らからは、感情のブレや焦りのようなものが一切感じられない。ただ淡々と、機械のように勝利を遂行するためだけにそこにあるような、底知れぬ不気味さがあった。
すれ違いざま、彼らのキャプテンが、足を止めることなく冷徹な視線を蓮くんに向けてきた。
蓮くんもまた、真っ直ぐにその視線を受け止める。
二人は一切の言葉を交わさなかったけれど、その一瞬の静寂の中で、確かに激しい火花が散るのを肌で感じた。
王者としての冷たい圧力と、それを真っ向から打ち砕こうとする挑戦者の熱。
蓮くんの瞳の奥には、いつも通りの静寂と、そして決して消えることのない強烈な闘志の炎が宿っていた。
どんなに相手が大きくても、どんなに無機質で計算されたシステムで挑んできても、蓮くんなら、そしてこの黎明高校のチームなら、絶対に打ち破ってくれる。
私には、それがはっきりと分かる。
創部一年目の無名校である私たちの、全国という未知の舞台への挑戦が、今ここから始まろうとしている。
私もマネージャーとして、みんなの筋肉のケアから水分補給、食事の栄養管理まで、やれることは全部やって、彼らを最後まで絶対に守り抜く。
明日はいよいよ初戦のティップオフ。
私たちの、知性と絆を武器にした新しいバスケットボールを、全国に見せつける時だ。絶対に、勝つ。
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