第44話:全国への切符と、ブラウン管の向こう側
県大会決勝リーグの激闘から数日後。
一九九八年、七月。
蝉の鳴き声が本格的に夏の訪れを告げる中、私立黎明高校の敷地内にある古いミーティングルームには、熱気と静かな興奮が入り混じっていた。
県大会五連覇の絶対王者・帝陵高校を逆転ブザービーターで破り、創部一年目にしてインターハイ(全国大会)への出場権を手にした黎明高校バスケットボール部。
彼らの快挙は、県内の高校バスケ界に激震を走らせた。しかし、当の本人たちに浮かれた様子はない。
「いてて……まだ右腕が上がらねえよ」
鮫島豪が、肩に湿布を貼りながらパイプ椅子にドカッと座る。
「当たり前だ。帝陵のセンターと、あんなにバチバチやり合ってたんだからな。俺も太ももがパンパンだぜ」
陣内誠も、苦笑いしながら自分の脚をマッサージしていた。
白石岳は、まだ勝利の実感が湧かないのか、自分の大きな両手をじっと見つめている。あの逆転のハイポストシュートを放った手だ。
黒木凌も、壁際に寄りかかりながら、無言でミーティングの開始を待っていた。
「みんな、お疲れ様。体調はどう?」
マネージャーの橘葵が、冷えた麦茶を注いだコップを配って回る。
「ありがとう、橘。まあ、満身創痍ってやつだけど、気分は最高だよ」
陣内が麦茶を一気に飲み干した。
そこへ、ヘッドコーチの神崎拓也と、データ分析を担当する綾瀬涼香、そしてチームの司令塔である如月蓮が入ってきた。
神崎の手には、黒くて分厚いプラスチックのケースが握られている。
「全員揃っているな。まずは、県大会優勝、そして全国大会出場、本当によくやってくれた。俺がアメリカから持ち帰った理論と、お前たちの努力が結実した最高の結果だ」
神崎の言葉に、部員たちの顔が引き締まる。
「だが、喜ぶのはここまでだ。インターハイ本戦まで、残り一ヶ月を切っている。俺たちの目標は県で勝つことじゃない。全国の頂点に立ち、この国のバスケットボールの常識を変えることだ」
神崎はそう言うと、部屋の隅に置かれた年代物のテレビデオ(テレビとビデオデッキが一体化した機器)の前に立ち、ケースから取り出した黒いカセットを押し込んだ。
ガチャン、ジーーーッ。
機械がテープを読み込む独特の駆動音が鳴る。
テレビデオに押し込まれたVHSテープから、ザラついた映像がブラウン管に映し出される。
スマートフォンやタブレットで高画質の動画を瞬時に共有できる未来から来た蓮にとっては、ひどく懐かしく、そして解析にもどかしさを覚える画質だ。しかし、この一九九八年において、他県の強豪校の戦力を知るための手段は、こうして関係者からダビング録画されたVHSテープを郵送で取り寄せるくらいしか方法がなかったのだ。
画面に映し出されたのは、どこかの巨大な県立体育館で行われている試合の模様だった。
「これは……?」
白石が身を乗り出す。
「今年のインターハイ、開催地である北海道代表……『北海大付属高校』の地区予選決勝の映像よ」
涼香が、手元の分厚いノートを開きながら説明を始める。
「彼らは、スタメンの平均身長が百八十五センチを超える超大型チーム。特にインサイドの強さは、帝陵高校をさらに一回り大きくしたような怪物揃いよ」
画面の中では、白いユニフォームを着た巨漢の選手たちが、相手チームを圧倒的なフィジカルで弾き飛ばし、次々とゴール下で得点を量産していた。
ディフェンスに戻れば、ペイントエリアを完全に塞ぐ強固な『2-3ゾーンディフェンス』。
中学生の大会だけでなく、この時代の高校バスケにおいてもゾーンディフェンスは依然として強力かつ合法な戦術として機能している。外角のシュート精度が低いチームは、この分厚い肉の壁の前に手も足も出ずにすり潰されていくのだ。
「……デカいな。それに、当たりが尋常じゃねえ」
鮫島が、ゴクリと唾を飲み込む。
「ああ。雪国で鍛え上げられた強靭な足腰と、徹底した泥臭い肉弾戦。これが、全国レベルのフィジカルだ」
神崎がVHSの再生を一時停止し、画面の中の巨漢キャプテンを指差した。
「帝陵戦で限界を超えたお前たちの体に、このレベルの肉弾戦を連日やらせれば、間違いなく関節や筋肉が壊れる。だからこそ、蓮」
神崎の視線を受け、蓮は静かに立ち上がった。
「全国の猛者たちと、正面から力比べをする気はない」
蓮は、黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
「俺たちが県大会を勝ち抜けたのは、帝陵の『昭和のバスケ(フィジカルと根性論)』に対して、空間支配と戦術で挑んだからだ。だが、全国の強豪は、そのフィジカルのレベルが桁違いになる。小手先の連携だけでは、いずれ押し切られる」
蓮は黒板に、コートの図と、いくつかの動きのベクトルを描き込んだ。
「これからの三週間、俺たちは二つのことを徹底的に強化する。一つは、陣内を中心としたアウトサイドからの『超高確率なスリーポイント』。強固なゾーンディフェンスを内側から崩すのではなく、外からの爆撃で相手の陣形を広げさせる」
「もう一つは?」
黒木が真剣な眼差しで問う。
「……『徹底したトランジション(攻守の切り替え)』だ」
蓮の瞳に、鋭い光が宿る。
「相手のフィジカルが強大なら、そのフィジカルを発揮する陣形が整う前に置き去りにすればいい。リバウンドを取った瞬間、あるいは相手がシュートを外したコンマ一秒後には、全員がフロントコートに向かって走り出している状態を作る。……相手がゾーンをセットアップする前に、点を取る」
それは、現代のバスケットボールにおいては基本とも言える『アーリーオフェンス』の概念だった。しかし、一試合を通じてそれを実行するには、無尽蔵のスタミナと、全員の完璧な意思疎通が必要となる。
「走る、と言っても、昔の指導者がやらせていたような無意味な根性ダッシュじゃない」
蓮は、チョークを置いてメンバーを見渡した。
「股関節と肩甲骨を連動させ、床からの反発を推進力に変える『バイオメカニクスに基づいた正しい走り方』だ。これを完全に身につければ、疲労は半減し、スピードは三割増す。足首や膝の怪我のリスクも劇的に下がる」
「それなら、私が合宿中のアイシングとケア、食事の栄養管理を徹底するわ。みんなを絶対に壊させないから」
葵が、力強く頷いた。
「陣内、鮫島、白石、黒木。お前たちの限界を、この直前合宿の三週間でさらにもう一段階引き上げる」
蓮の言葉は静かだったが、そこには一切の妥協を許さない絶対的な響きがあった。
「北海道のコートで、全国の連中に教えてやろう。デカくて強いだけのバスケットは、もう古いってことをな」
ミーティングルームに、静かな、しかし確かな熱が広がっていく。
窓の外では、夏の太陽がグラウンドをジリジリと照りつけていた。
◇
――橘葵のマネージャーノートより。
一九九八年、七月某日。天候、晴れ。
県大会優勝の興奮冷めやらぬまま、今日からインターハイに向けた本格的なミーティングが始まりました。
みんなの顔には疲労が滲んでいるけれど、瞳の奥には全国という未知の舞台への静かな闘志が燃えています。
神崎コーチが持ってきたVHSテープに映っていた、北海道代表の『北海大付属高校』。
あの巨漢たちが作り出す『2-3ゾーン』は、画面越しでも恐ろしいほどの圧迫感がありました。
でも、蓮くんの言葉には一片の揺らぎもありませんでした。
彼が黒板に描いたのは、相手の圧倒的なフィジカルを無力化するための『アーリーオフェンス』と、それを支える『バイオメカニクス』。
これから三週間、みんなにはこれまで以上に過酷なトレーニングが待っています。
だからこそ、私がしっかりしなきゃ。
アイシングのタイミング、栄養バランスを考えた食事、そして何より、みんなが怪我なくあのコートに立てるように、やれることは全部やる。
私たちの、知性と絆を武器にした新しいバスケットボールを、全国に見せつけるために。
過酷な三週間の合宿が、いよいよ始まります。
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