第3話:次元の違うフロア
キュッ、キュッ、とフロアを激しく噛むスキール音が、夕暮れ前の体育館に反響していた。
市立南陽中学校のメインコートで行われる、隣町の強豪・県立北陽中学校との練習試合。
「おいおい見ろよ、南陽のスタメンポイントガード、誰だあいつ?」
「背番号15番……あんな小柄でひょろい奴、今までの大会でベンチにすら入ってなかっただろ」
「レギュラーの高木が怪我したらしいぜ。どうせ頭数合わせの捨て駒だろ、楽勝じゃん」
コートの反対側、鮮やかなグリーンの練習着を着た北陽中の選手たちから、あからさまな嘲笑混じりのヒソヒソ声が漏れ聞こえてくる。
それも無理はない。
俺とマッチアップする北陽中の主将――三年生の荒井は、中学生にして身長百七十五センチ、体重七十キロを超える巨漢ガードだ。筋骨隆々の分厚い胸板を揺らし、獲物を値踏みする肉食獣のような眼光で、百六十センチ台半ばの俺を見下ろしていた。
「おい、一年坊主か二年坊主か知らねえが、骨折したくなけりゃボール持ったらすぐにパスしな」
ウォーミングアップのレイアップシュートの合間、荒井がわざと俺の右肩へドスンと自らの肩をぶつけるようにしてすれ違った。
露骨な威嚇。高校生顔負けの重い衝撃。
だが、俺――如月蓮は、その挑発に眉一つ動かさなかった。
前世のケビン・ウォーカー時代、二メートル十センチ、百二十キロを超える化け物たちがひしめく本場NBAのコートで、世界最高峰のトラッシュトークと凄惨な肉弾戦をくぐり抜けてきたのだ。中学生の付け焼き刃の威嚇など、子猫が毛を逆立てている程度にしか見えない。
(……右足の踵から接地し、爪先の抜けが外側へ逃げているな)
俺は荒井の後ろ姿を冷徹にスキャンした。
(右膝に巻かれた分厚いサポーター。大腿四頭筋の外側ばかりが過剰に発達し、内転筋群が完全に眠っている。無理な重量のスクワットと力任せの突進を繰り返したせいで、外側半月板に慢性的な炎症を抱えている証拠だ。右への切り返しにはコンマ二秒の遅れが出る)
視線を走らせるだけで、相手の骨格アライメント、筋力バランス、アンド隠された関節の弱点が、脳内のアナリティクスシートに自動的にプロットされていく。
「如月! みっともねえミスしたら即刻交代だからな! 恥を晒して帰ってくるんじゃねえぞ!」
自陣ベンチのパイプ椅子から、権藤鉄蔵の濁った怒号が飛んできた。
腕を組み、不遜な笑みを浮かべる権藤の狙いは明白だった。
北陽中の暴力的なフィジカルに蹂躙され、泣きべそをかいてフロアに這いつくばる俺の無様な姿を部員たちに見せつけることで、自らの独裁体制の正しさを誇示したいのだ。
「蓮……本当に大丈夫かよ」
隣でボールを抱える三井が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
額からはすでに緊張の汗が噴き出し、ユニフォームの裾をギュッと握りしめている。
「大丈夫だ、三井。昨日の約束、覚えてるか?」
「え……? あ、ああ。『右のコーナーで待ってろ』ってやつか?」
「そうだ。お前がやるべきことはただ一つ。相手ディフェンスの視界から外れた右コーナーで、足元をセットして待つことだけだ。爪先を踏み込むなよ。母指球で床を噛み、膝を深く曲げずに身体を浮かせろ。……ボールは、必ずお前の胸元へ届く」
ピーーーーーッ!
主審のホイッスルが体育館に響き渡った。
「整列! 礼!」
「「お願いします!!」」
センターサークルを挟んで両校のスターティングファイブが向かい合う。
トスアップ。弾かれたボールは、体格に勝る北陽中のセンターの手元へ収まった。
北陽ボールで試合が始まる。
「一本! まずは挨拶代わりにペイントを抉ってやれ!」
北陽のベンチから景気のいい声が飛ぶ。
荒井が低いドリブルでフロントコートへボールを運んできた。
トップの位置で対峙する俺の、脱力したスタンスを見て、荒井の口元が獰猛に吊り上がった。
「チビが、すましたツラしてんじゃねえぞ!」
荒井が全体重を右肩に乗せ、強引にダッシュを仕掛けてきた。
体格差を利用したパワーペネトレーション。
正面から相手の胸元に激突してバランスを崩させ、そのままゴール下へねじ込む北陽の十八番だ。
「蓮、逃げろ!」
ベンチにいた南陽中の部員が思わず悲鳴を上げる。
権藤の口元に『ほら見ろ、一発で粉砕だ』と言わんばかりの醜悪な嘲笑が浮かんだ――その刹那。
スッ、と俺の身体が斜め後方へ数センチだけスライドした。
(作用・反作用の物理法則を無視した突進など、自滅のエネルギーに過ぎない)
正面から衝突して衝撃を受け止めるのではない。
相手が最も強く床を踏み込み、全体重を預けてきたコンマ一秒の瞬間、みぞおちを引き、骨盤をわずかに引いて相手の前に『空白のエアポケット』を作る。
NBA仕込みのディフェンス技術――『チェア・プル(椅子引き)』。
「なッ……!?」
激突の手応えがあるはずの空間に何もなかった荒井は、突進の慣性力を支えきれず、大きく前のめりによろめいた。
上半身がグラリと傾き、ボールを抱え込もうと両腕が泳ぐ。
その完全に無防備になったボールの軌道上へ、俺の右手が吸い込まれるように伸びた。
腕力など微塵も使わない。
ボールのバックスピンの回転を指先で軽く逆撫でするような、極上のスティール。
――パシッ。
「え……?」
荒井の手元から、忽然とボールが消え去った。
空を掴んだ荒井が、自分のミスに気づいたのは、コンマ数秒遅れてのことだった。
「バック! バックディフェンス!!」
北陽のベンチから悲鳴のような怒号が飛ぶ。
だが、すでに俺はトップスピードに乗っていた。
爪先で力任せに床を蹴るのではない。
骨盤を前傾させ、腸腰筋を引き上げ、着地衝撃を推進力へと変換する最先端のスプリント。
無駄な力みが一切ないその走りは、まるで氷の上を滑走するかのように滑らかで、足音すらフロアに響かない。
「追え! 荒井、ファウルでもいいから止めろォッ!」
慌てて体勢を立て直した荒井が、鬼の形相で背後から猛追してくる。
フロントコートへ侵入した俺の前に、北陽の俊足フォワードが立ちはだかった。
速攻を阻止するためのカバーディフェンス。
フォワードが長い両腕を広げ、俺のレイアップを空中で叩き落とそうと跳躍の構えに入る。
背後からは荒井の巨体が迫る。
完全なる挟撃の網。
だが、俺の視野は、体育館の天井からコート全体を鳥瞰しているかのようにクリアだった。
(フォワードが俺に引きつけられた。三井のマークがインサイドへ収縮した。……右コーナーが、完全にガラ空きだ)
俺はゴール下へ突っ込むフェイクを入れると同時に、右足の母指球でブレーキを踏んだ。
チェンジ・オブ・ペース。
跳び上がろうとしていた相手フォワードの膝が固まり、背後から突っ込んできた荒井が風を切って前方へ空振りしていく。
相手二人の重心を完全にコントロールした状態のまま、俺はノールックで、左手の手首のスナップだけでボールを弾いた。
チェストパスでもバウンドパスでもない。相手の脇の下の死角を切り裂く、低空のスキップパス。
――ビュンッ!
鋭いバックスピンを帯びたボールが、右コーナーでポツンと立っていた三井の胸元へと、寸分の狂いもなく吸い込まれた。
キャッチした瞬間、三井の指先が自然とボールの縫い目にフィットする。
吸い付くように柔らかく、回転が完全に生きた、シューターにとって『最も打ちやすい極上のパス』。
「三井! 打て!!」
俺の声が体育館に響いた。
「っ……!」
三井は無我夢中で身体を引き上げた。
周囲にディフェンスは一人もいない。完全なワイドオープン。
昨夜の蓮の言葉が、三井の身体を突き動かしていた。
踵で踏み込まない。母指球で床の反発力を受け取り、骨盤を立てて真上へ浮き上がる。
膝の痛みが一切ない、淀みのないワンモーションのリリース。
放たれた高弾道の放物線。
体育館の天井近くまで達したボールが、綺麗な放物線を描いてリングへ吸い込まれた。
――スパァァァンッ!!
乾いたネットの摩擦音が、静まり返った体育館に心地よく響き渡った。
『3対0』。開始わずか十秒。
「な……」
パイプ椅子から身を乗り出していた権藤の口が、あんぐりと開いたまま硬直していた。
北陽中の選手たちも、スコアをつけていた南陽の後輩たちも、何が起きたのか理解できずに石のように固まっている。
完璧なスティール。
無駄のないトランジション。
そして、相手の守備網を完全に無力化させたピンポイントのアシスト。
「ナイスシュート、三井」
ディフェンスへ戻る途中、呆然と自分の手を見つめていた三井の横を通り過ぎざま、俺は軽く右手を掲げた。
「あ……ああ! すげえよ蓮、今のパス……! 指にボールが吸い付いて、打った瞬間に『入る』って分かったぞ!」
弾かれたように我に返った三井が、顔を紅潮させて力強くハイタッチを交わしてきた。
振り返ると、荒井が膝に手を当てて荒い息を吐きながら、信じられないものを見る目で俺を睨みつけていた。
ベンチでは、権藤が真っ赤な顔をしてわなわなと震えている。
俺は静かに息を整え、両足を肩幅に開いて腰を落とした。
心拍数は百十八。乳酸の蓄積ゼロ。
足首にも、膝にも、どこにも違和感はない。
(これが、壊れない身体でプレーするバスケットボールか)
全身の細胞が、静かな歓喜に震えていた。
前世で奪われた夢の続きを紡ぐための、最初の一歩。
「さあ、一本守るぞ!」
俺が発したその凛とした声に、南陽中の4人の瞳が、かつてない熱を帯びてギラリと輝き始めた。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】の評価やブックマークをいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




