第2話:静かなる反乱と、狂気のコート
救急箱から取り出した瞬間冷却パックを強く叩き割り、手際よく清潔なタオルで包み込む。
俺――如月蓮は、体育館の床に横たわる高木の右足首の下に、丸めたジャージを差し込んで心臓より高い位置へと静かに持ち上げた。
アイシングと挙上。
「ひッ……冷たッ……!」
「少し我慢しろ。毛細血管の出血を抑え、二次的な組織壊死を防ぐために、受傷後最初の十五分が勝負だ。足首を反らしたり捻ったりするなよ」
前世のNBAヘッドコーチ時代、俺は何百人というトップアスリートの故障現場に立ち会ってきた。どの腱がどの角度で悲鳴を上げたか、指先の皮膚温度の変化と微細な筋膜の緊張だけで、体内の損傷度合いが手に取るように分かる。
救急箱の底から弾性包帯を取り出し、足首を九十度に保ったまま、足の甲から足首へと均等なテンションで巻き上げていく。強すぎず、弱すぎず。内出血を抑えつつ、末梢の血流を阻害しない絶妙な圧迫。
周囲の部員たちが、息を呑んで遠巻きにその光景を見つめていた。
怒り狂って体育館奥の教官室へ引きこもった権藤の扉を怯えるように気にしながらも、彼らの視線は明らかに今までと違っていた。
背番号すらもらえず、毎日モップがけとボール磨きしかしていなかったはずの如月蓮が、まるで大学病院のスポーツ整形外科医のように落ち着き払い、迷いのない手つきで処置を完遂しているのだ。
「おい、如月……それ、本当に大丈夫なのかよ」
二年のスタメンシューティングガード、三井が掠れた声で恐る恐る尋ねてきた。
額に玉のような汗を浮かべ、膝に手を当てて呼吸を乱している。
「骨の変形はない。だが、前距腓靭帯のグレード2――部分断裂の手前だ」
俺はバンテージの端をテープで固定しながら、淡々と告げた。
「今すぐ整形外科に連れて行って、レントゲンと超音波エコーで靭帯の連続性を確認してもらった方がいい。一週間後の県大会予選は……まず無理だな」
「えっ……高木が出られない……!? じゃあ、初戦のガードはどうすんだよ!」
三井が焦燥に駆られて声を上ずらせた。
このチームは、権藤の「気合で走り勝つ」というワンマン指導のもと、交代要員の控えメンバーをまったく育ててこなかった。スタメンの一角が崩れれば、それだけで戦力は半減する。
「今考えるべきは、試合の勝敗じゃない。高木の足だ」
俺は冷徹な眼差しで三井を一喝した。
「無理を押して出れば、引き伸ばされた靭帯が元に戻らず、一生足首に緩みが残って踏ん張りが利かなくなる。一生涯にわたって繰り返す捻挫の痛みと引き換えにするほど、たかが中学校の県予選一回戦は重いのか?」
「っ……!」
三井が息を呑み、言葉を詰まらせた。
中学生の口から出るはずのない、圧倒的な説得力。
昭和から平成初期のスポーツ界に蔓延する『痛みに耐えて試合に出ることこそが美徳』という歪んだ精神論の呪縛を、俺の冷徹な言葉が真っ向から叩き割っていた。
「高木の母親に連絡して、車で迎えに来てもらえ。保健室の車椅子を借りてくるから、誰か手を貸してくれ」
「あ、俺行く!」
「俺も手伝う!」
普段は権藤の顔色ばかり窺って竦み上がっていたチームメイトたちが、自然と俺の指示に従って小走りで動き出した。
体育館の淀んだ空気が、確実に変わり始めていた。
◇
高木が母親の車で整形外科へと運ばれ、部活動終了のチャイムが校舎に鳴り響く直前。
教官室の木製ドアが、ガラガラと乱暴な音を立てて引き開けられた。
現れたのは、真っ赤に血圧を沸騰させた権藤鉄蔵だった。
その手には、使い古された黒板消しと作戦ボード、そしてトレードマークの竹刀が握られている。
「全員、センターラインに整列ッ!」
冷え切った体育館に怒号が轟いた。
部員たちが慌てて背筋を伸ばして並ぶ中、俺も一番端の補欠の定位置に静かに立った。
権藤の濁った双眸が、獲物を嬲り殺そうとする猛毒の蛇のように、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「高木が病院へ行ったそうだな。情けない奴だ。たかが足首を少し捻ったくらいで、親を呼んで大騒ぎしおって」
吐き捨てるように言った権藤は、口元を醜く歪め、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「明日は予定通り、隣町の県立北陽中との練習試合を行う。……高木の抜けたスタメンポイントガードの枠だがな」
権藤はわざとらしく言葉を区切り、竹刀の切先をゆっくりと水平に持ち上げた。
その先が、寸分の狂いもなく俺の胸元を指し示す。
「如月。お前が出ろ」
ざわり、と体育館に異様な動揺が走った。
部員たちの顔が一瞬で蒼白になる。
北陽中学校。
昨年の県大会ベスト8に進出し、全員が徹底したウエイトトレーニングで鍛え上げられた屈強な体躯を誇る、県内屈指の武闘派チームだ。
特にポイントガードを務める主将の荒井は、中学生にして身長百七十五センチ、体重七十キロを超える巨漢。強烈なボディコンタクトと、相手ガードを力任せに削る凶暴なディフェンスで他校から恐れられていた。
「せ、先生、如月は実戦のフォーメーション練習を一度もやっていません!」
三井が思わず列を飛び出し、必死に声を上げた。
「明日の相手はあの北陽ですよ!? 如月の体格じゃ、スクリーン一発で吹き飛ばされて大怪我します!」
「うるさい、口を挟むな!」
権藤が竹刀を床のフローリングへ激しく叩きつけた。
バチィィィンッ! と鼓膜を劈く破壊音が響く。
「偉そうにスポーツ科学とやらを語ったんだ、さぞかし口先だけじゃねえんだろうなァ? コートの上でどれだけ通用するか、身をもって証明してもらおうじゃねえか」
権藤の目が、昏い愉悦に濁っていた。
「もし相手のプレッシャーにビビって逃げ回ったり、無様なターンオーバーを連発して試合を壊したら……その時は分かっているな? 即刻、退部処分だ。二度とこの体育館の敷居を跨がせん」
露骨な見せしめ。そして、陰湿極まりない報復の罠。
強豪相手に無惨に叩きのめさせ、大怪我を負わせて恐怖を植え付け、大恥をかかせて部から追放する。
逆らう者を徹底的に叩き潰すことで、自らの独裁体制を守るための、昭和の亡霊の常套手段だった。
部員たちが、同情と絶望の入り混じった視線を俺に向ける。
誰もが、俺の破滅を予感していた。
(……ようやくか)
俺の心臓は、恐怖どころか、静かで熱い歓喜の拍動を打っていた。
脈拍は六十二。完璧な静寂。
十四年。
前世でアキレス腱を断裂し、失意のどん底で命を落としたあの日から。
二度目の生を授かり、この小さく未熟な赤ん坊の身体から、怪我をしないための腱の柔軟性と、衝撃を吸収するインナーマッスルを、誰にも知られず極秘裏に鍛え上げてきた。
前世で失った、あの神聖なコート。
大人のエゴと暴力で歪められたこの体育館で、二度目の人生の最初の実戦を迎える。
「分かりました」
俺は一歩前へ進み出て、落ち着き払った声で頭を下げた。
「スターティングメンバー、謹んでお引き受けします」
権藤が怪訝そうに眉を跳ね上げた。
震え上がるどころか、澄み切った湖面のような静寂を湛えた俺の瞳に、得体の知れない薄気味悪さを感じたようだった。
「……ふん。明日、泣き面をかいてコートに這いつくばるなよ」
権藤は唾を吐き捨てるように背を向け、教官室へと消えていった。
解散後、夕暮れの茜色に染まるグラウンドの隅。
部室の裏手を歩いていた俺の背後から、慌ただしい足音が追いかけてきた。
「おい、如月! 待てよ!」
駆け寄ってきたのは三井だった。
息を乱し、肩を上下させながら、俺の細い腕を掴みそうな勢いで詰め寄ってくる。
「お前、正気かよ!? 北陽の荒井ってガード、中学のレベルじゃねえぞ! わざと相手の足を踏んできたり、ドライブの時に平気で肘を入れてくるような奴だ! お前みたいな細い身体でまともにぶつかったら、骨折させられるぞ!」
三井の目には、本物の焦りと恐怖が浮かんでいた。
権藤の理不尽な暴力に怯えながらも、チームメイトが壊されることを本気で心配している。
乱暴で短気だが、根底にはバスケットボールへの純粋な情熱と、仲間への情を捨てきれていない男。
俺はふっと口元を緩め、前世の癖で三井の肩をポンと軽く叩いた。
「心配いらないよ、三井」「は……?」
三井が呆気に取られたように目を瞬かせた。
「バスケットボールは相撲じゃない。身体を正面からぶつけ合わなくても、物理法則とスペースの幾何学を使えば、相手の突進力をそのまま自滅のエネルギーに変えることができる」
俺は夕暮れの空を見上げながら、静かに告げた。
「相手が力任せに押してくるなら、こちらは触れさせずに空転させるだけだ」
「な、何言ってんだよ……わけ分かんねえよ……」
「明日、お前は右のコーナーで待っていればいい」
バスケットボールは相撲じゃない。身体を正面からぶつけ合わなくても、物理法則とスペースの幾何学を使えば、相手の突進力をそのまま自滅のエネルギーに変えることができる」
俺は夕暮れの空を見上げながら、静かに告げた。
「相手が力任せに押してくるなら、こちらは触れさせずに空転させるだけだ」
「な、何言ってんだよ……わけ分かんねえよ……」
「明日、お前は右のコーナーで待っていればいい」
俺は三井の目を真っ直ぐに見据えた。
「お前のシュートフォームは、踏み切りで重心が踵に落ちる悪癖がある。だからジャンプシュートの着地で膝に無駄な衝撃が返ってくるんだ。明日は爪先を踏み込むな。母指球で床の反発力を受け取り、骨盤を立てて真上へ身体を浮かせろ。そうすれば――お前の胸元へ、最高に打ちやすいパスを何本でも届けてやる」
「お、俺のシュートの癖……? お前、なんでそんなこと……」
三井は口を半開きにして立ち尽くした。
毎日の練習で、ボール拾いをしながらコート上の全員の骨格と重心移動を観察し尽くしていたことなど、彼らには想像もつかないだろう。
「じゃあな、三井。今夜はしっかり炭水化物と水分を摂って、八時間は寝ろよ」
俺はスポーツバッグを肩にかけ直し、夕闇が迫る校門へ向かって歩き出した。
見上げる夜空の東の端に、一番星が青白く鋭い光を放っていた。
海の向こう、かつて俺が生きた本場アメリカの地。
ケビン・ウォーカーの頭脳と、如月蓮の新しい肉体。
(試運転には、ちょうどいい相手だ)
明日の練習試合。
古い昭和の亡霊に囚われたこの体育館を、世界基準の最先端バスケットボールで、土台から解体してやる。
お読みいただきありがとうございます!
「如月蓮の初陣が楽しみ!」「権藤を見返してやれ!」と思っていただけましたら、
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