第29話:消耗の準々決勝、二つの視線
北嶺高校との壮絶な死闘から、一夜が明けた。
インターハイ県予選四日目。
県立総合体育館のサブアリーナの片隅で、黎明高校の5人は、昨日の激闘が残した生々しい代償と正面から向き合っていた。
「いッ……てててて……! 神崎先生、そこ、あんまり強く押さないで……!」
パイプ椅子に腰掛けた鮫島豪が、顔を歪めて悲鳴を上げた。
神崎コーチが鮫島の右脇腹に消炎鎮痛のジェルを塗り、伸縮性のキネシオロジーテープを慎重に貼り重ねていく。
昨日の試合終盤、北嶺の上級生センターと激突した箇所だ。肋骨の骨折こそ免れたものの、広背筋と外腹斜筋の打撲による内出血が、青黒く皮膚の下に広がっていた。
「痛むのは当然だよ、鮫島くん」
神崎が眼鏡の奥の瞳を険しく細めた。
「体重差十キロ以上の上級生と、四十分間フルで肉弾戦を繰り広げたんだ。筋肉の深層組織に微小な損傷が残っている。今日は激しい接触を極力避けなさい」
「冗談言えよ……! ベスト4をかけた試合なんだぞ! 接触避けてリバウンドが取れるかってんだ!」
鮫島が唾を飛ばして噛みつくが、立ち上がろうとした瞬間に脇腹を押さえて「ぐっ……」と息を詰まらせた。痛みを隠し切れていない。
その隣では、白石岳が両脚に冷却スプレーを浴びながら、重いため息をついていた。
百九十八センチ、百十キロの巨体。連日の激戦に、太ももの大腿四頭筋とふくらはぎの腓腹筋は完全にパンパンに張り詰めていた。
「僕……歩くだけで太ももがプルプル震えるよ。階段降りる時、手すりがないと転びそうだったもん……」
「白石、股関節のモビリティワークを怠るな」
俺――如月蓮は、自らも足首のアイシングを解きながら声をかけた。
「乳酸が溜まって筋肉が硬直すると、関節の衝撃吸収能力が半分以下に落ちる。痛くても、股関節を回して骨盤の血流を促せ」
俺自身の身体もまた、決して万全ではなかった。
まだ筋肉の鎧がない十五歳の未熟な肉体。昨日の激しいコンタクトを受け流し続けた代償として、腰方形筋とアキレス腱の周囲に、ピリピリとした重い張りが残っていた。
前世のプロの時代なら、専属のトレーナー陣による高圧酸素カプセルや入念なマッサージで即座に回復できたかもしれない。だが、今の俺にあるのは、自らのバイオメカニクスの知識と、徹底した自己管理だけだ。
「陣内、黒木、二人はどうだ」
俺が問いかけると、黒木凌は無言で足首のサポーターを強く締め直し、鋭い眼光で頷いてみせた。
そして陣内誠は、自らの右膝を手のひらで包み込みながら、静かに息を吐いた。
「……膝は、熱を持ってねえ。蓮に教わった脱力のフォームのおかげで、靭帯への過度な負荷は防げてる。だけどよ……全身のバネが重え。昨日あんな死力を尽くした翌日に、もう一試合フルで走らなきゃならねえなんて……高校バスケのトーナメントってのは、本当に化け物じみてやがるぜ」
それが、高校部活の現実だった。
プロのように中二日や三日の休養期間など存在しない。
真夏の連戦。肉体が回復し切らないまま、翌日にはさらに過酷な戦いが待っている。
経験の浅い一年生部隊にとって、この疲労の蓄積こそが、対戦相手以上に恐ろしい最大の敵だった。
そこへ、大会プログラムのコピーを手にした神崎コーチが戻ってきた。
「準々決勝の相手が決まった。……第4シード・県立東山高校だ」
東山高校。
その名を聞いた瞬間、陣内が険しい表情を浮かべた。
「東山……県内随一の『遅攻』チームだな」
「ああ、その通りだ」
神崎がホワイトボードに相手のスタッツを書き込んでいく。
「東山高校は、突出したスーパースターこそいないが、全員が百八十センチ台半ばで揃い、極めて訓練されたマンツーマンディフェンスを敷いてくる。そしてオフェンスでは、現行ルールの二十四秒バイオレーション寸前までパスを回し続け、相手のディフェンスが痺れを切らして前に出てくるのをじっと待つ『カメの甲羅』のようなバスケを徹底してくる」
「じれったいバスケだな!」
鮫島がフロアを踏み鳴らした。
「速攻出させねえ気配プンプンじゃねえか! だったらこっちからガンガン突っ込んで、一気に点差広げて試合壊せばいいんだろ!」
「力任せに突っ込めば、東山の思う壺だよ、鮫島」
俺は戦術ボードへペンを走らせながら、冷静に制した。
「相手が極端にポゼッション(攻撃回数)を減らしてロースコアに持ち込もうとするのは、戦力差を埋めるための常套手段だ。試合全体のシュート本数が少なくなればなるほど、一本のミスの重みが増し、アップセット(番狂わせ)が起きる確率は跳ね上がる」
俺は全員の目を見据えた。
「ましてや、今日の俺たちは昨日の北嶺戦で肉体を限界まで削られている。鮫島の脇腹、白石のスタミナ、俺自身の肉体の疲労……。相手の遅攻に苛立って無理なドライブを仕掛ければ、東山の堅牢な守備網に引っかかってオフェンスファウルを取られ、自滅するのがオチだ」
「じゃあ……どうすりゃいいのさ、蓮くん?」
白石が不安そうに尋ねる。
「相手が時間をかけてテンポを落とそうとするなら、こちらは『1ポゼッションあたりの得点期待値』で圧倒する」
俺は戦術ボードのフリースローラインの頂点を叩いた。
「東山高校の堅守は、ペイントエリアを分厚く塞ぐことに特化している。だからこそ、ゴール下での肉弾戦には付き合わない。白石がハイポストで相手センターを釣り出し、そこから逆サイドのコーナーへ展開して陣内のディープスリー、そして相手が前に詰めてきた瞬間に黒木のバックドア。相手が時間をかけて苦労して2点を狙う間に、こちらは最小限のステップで確実に期待値の高い3点、あるいはノーマークのレイアップを積み上げる」
そして――俺は神崎コーチと視線を合わせた。
「神崎先生。昨日の激闘で、全員の筋肉に疲労物質が溜まっています。今日も要所で小林たち控えを短時間挟みながら、全員でスタミナを配分していきます」
「ああ、頼むよ」神崎が頷いた。「東山の遅攻に付き合って走り回れば、後半に必ず足が止まる。冷静にゲームをコントロールしてくれ」
満身創痍の肉体。
そして、相手の焦りを誘い、ミスを待つ県内屈指の遅攻集団・東山高校。
県ベスト4――決勝リーグへの最後の切符をかけた、過酷な消耗戦が幕を開けようとしていた。
◇
メインアリーナの二階観客席。
新設校・私立黎明高校がシード校の北嶺高校を撃破したという噂は瞬く間に広まり、平日の午前中にもかかわらず、スタンドには多くの観客が詰めかけていた。
そのスタンドの最前列、手すりに身を乗り出すようにしてコートを見下ろす二人の女子生徒がいた。
黎明高校の真新しい紺色の制服を着た一年生だった。
「……すごいたくさんの人。ねえ涼香、本当にあの子たち、昨日の試合で勝ったの?」
ショートカットの髪を揺らし、心配そうにコートを見つめているのは橘葵だった。
実家が開業鍼灸整骨院で、母親が管理栄養士という家庭環境で育った葵は、幼い頃からスポーツ選手のリハビリや怪我を間近で見てきた。だからこそ、コート上に現れた黎明高校の選手たちの姿を見て、息を呑んでいた。
「勝ったのは事実よ、葵。シード3位の北嶺高校を相手に、59対57。……信じられない番狂わせだわ」
隣で冷静に答えたのは、黒髪を清潔なポニーテールにまとめた少女――綾瀬涼香だった。
几帳面な文字が並ぶ大学ノートとシャープペンシルを手に持ち、知性的な瞳でコート上のウォーミングアップを鋭く見つめている。
数字とロジックに強い涼香は、黎明高校の男子バスケ部が「神崎コーチの特待スカウト」で集められた問題児集団だと聞き、冷やかし半分、知的好奇心半分でこの会場を訪れていたのだ。
「でも、見てよ涼香……。あの子たち、身体がボロボロじゃない」
葵が眉をひそめ、胸元をぎゅっと押さえた。
「4番の鮫島くん、右の脇腹にキネシオロジーテープが何重にも貼ってあるわ。骨折はしてないみたいだけど、広背筋の重い打撲よ。それにあの巨漢の子(白石)……太ももの筋肉がパンパンに張ってて、歩き方がぎこちない。……普通なら、今日の試合なんて欠場させるレベルの疲労よ」
「ええ。相手の東山高校とは、コンディションの差が歴然ね」
涼香が手元のノートにペンを走らせる。
「東山高校は昨日の試合も大差で主力温存して勝ち上がってきている。対して開明は、昨日あれだけの死闘を繰り広げたばかり。……普通に考えれば、体力の差で後半に自滅するわ」
「でも……なんか変じゃない?」
葵が首を傾げた。
「怪我してるのに、引き伸ばすストレッチを誰一人やってないの。ほら、あのポイントガードの子……如月くん、だっけ? 彼が指示を出して、みんな関節を動かさないで力を入れる運動をやってる。それに、足を心臓より高くして、呼吸を整えさせてる……」
涼香の視線が、コート中央で静かにドリブルを突く背番号4番――如月蓮へと吸い寄せられた。
「……如月蓮。南陽中時代に無名から県準優勝まで上り詰めた司令塔。……あの子の動き、他の選手と全く違うわ」
涼香がノートの手を止め、息を呑んだ。
「無駄な力みが一ミリもない。歩幅、重心の移動、ボールを突くリズム……すべてが計算され尽くしている。まるで、コート上の物理現象を一人で全部コントロールしているみたい……」
知的なロジックで観察する涼香と、身体の生々しい痛みに寄り添う葵。
二人の少女の視線が、コート上の背番号4番の少年に、強烈に釘付けになっていた。
◇
ピーーーーーッ!
準々決勝の開始を告げるブザーが、体育館に響き渡った。
「整列! 礼!」
「「お願いします!!」」
メインアリーナのフロアに、両校のスターティングファイブが並び立つ。
緑のユニフォームを纏った東山高校の選手たちの眼光は、北嶺高校のような荒々しい殺気とは対照的に、不気味なほど静まり返っていた。
無駄口を一切叩かず、感情を殺し、ただ規律を守り抜くことだけに特化した職人集団の佇まい。
「おい、黎明の派手なバスケもここまでだぞ」
マッチアップする東山の3年生ガードが、低く呟いてきた。
「昨日、北嶺相手にボロボロになっていただろ。お前たちのその重い足で、ウチの守備網を崩せると思うなよ」
俺は感情を一切動かさず、静かに見据え返した。
「崩す必要はありませんよ。スペースの物理法則に従えば、あなた方の守備網は勝手に穴だらけになりますから」
トスアップの笛が鳴り、ボールが宙へ弾かれた。
ティップオフ。
白石岳と相手の百八十八センチのセンターが跳び上がる。
だが、疲労で太ももが張っている白石は十分に踏み切れず、ボールは東山高校の手元へ収まった。
「一本! じっくり回せ!」
東山ベンチから監督の指示が飛ぶ。
東山高校のガードが、ゆったりとした足取りでボールを運び、ハーフコートへ侵入してくる。
速攻を仕掛ける気配は微塵もない。
トップからウィングへ、ウィングから逆サイドへ。
黎明のディフェンス陣が痺れを切らし、不用意にボールを奪おうと飛び出してくるのを、じっと待つ構えだ。
十秒、十五秒、二十秒……。
ショットクロックの数字がカウントダウンされていく。
「くそっ……! まだ打たねえのかよ!」
ローポストでボックスアウトを構えていた鮫島が、痺れを切らしてイラ立ちの声を漏らす。
脇腹の打撲が痛む中、相手と押し合いを続けながら二十秒以上も中腰の姿勢を維持することは、尋常ではない筋力を消耗させていた。
「鮫島、飛び出すな! マークを受け渡せ!」
俺の指示が飛ぶ。
残り四秒。
東山のフォワードが、プレッシャーを受けながらも冷静にステップを踏み、タフなミドルジャンパーを放った。
――カツンッ、バスッ。
リングの奥を叩いたボールが、ネットに吸い込まれた。
『0対2』。
開始から二十二秒をフルに使った、東山高校の先制点。
「ナイスシュート!」「一本止めるぞ!」
東山の選手たちが素早く自陣へ戻り、ペイントエリアを固める強固なシェルディフェンスを敷いた。
私立黎明高校のファーストオフェンス。
俺がボールを運び、トップの位置で構える。
東山高校のディフェンスは、外角へのマークを半歩捨て、インサイドへのドライブコースを徹底的に封鎖する陣形を取っていた。
白石がハイポストへ上がろうとするが、相手センターが体を密着させて簡単には前を向かせない。
「白石、無理に前を向くな! 後ろへ落とせ!」
俺のパスが白石の手元へ入る。
白石は相手の当たりを受け流しながら、左コーナーへ鋭いタッチパスを弾き出した。
待っていたのは陣内誠。
フリー。
だが――陣内がボールを受け取った瞬間、疲労の溜まった右脚の踏み込みが、コンマ数ミリわずかにブレた。
連戦による全身の重さ。
放たれたスリーポイントシュート。
――ガツンッ!
ボールはフロントリムの手前を叩いて弾け飛んだ。
「リバウンドッ!」
ゴール下で鮫島が跳び上がろうとする。
だが、脇腹に激痛が走り、最高到達点に達する前に東山高校の二人に挟み込まれてボールを奪われた。
「走るな! セットだ、時間を全部使え!」
東山のガードがボールをキープし、再びゆったりと歩き出す。
黎明高校にとって、恐ろしい悪夢が始まった。
相手に時間を浪費され、二十秒以上ディフェンスを強いられて体力を削られ、こちらのオフェンスでは疲労からシュート精度がわずかに狂って落ちる。
第1クォーター残り三分、スコアは『6対12』。
黎明高校が6点のビハインドを背負っていた。
タイムアウトを取りたくても、点差が開かないため取りどころが難しい。
ジワジワと真綿で首を絞められるような、東山高校の遅攻の罠。
「ハァ……ハァ……っ! 蓮……足が、全然上がらねえ……!」
陣内が膝に手をつき、悔しげに喘いだ。
白石も額から脂汗を流し、巨体を揺らして息を整えている。
二階観客席の涼香と葵も、固唾を呑んで見つめていた。
「……恐ろしいチームね、東山高校は」
涼香が手元のストップウォッチを止め、険しい表情で呟いた。
「相手の1回のオフェンス平均時間は二十一・三秒。開明高校に攻撃権が渡っている時間は極端に少ないわ。疲労で集中力が途切れるのをじっと待っている……。このままじゃ、第2クォーターに入る前に開明の足が完全に止まるわよ」
「如月くん……!」
葵が手すりを強く握りしめ、祈るようにコートの蓮を見つめた。
だが――コート上の俺の胸の奥の鼓動は、冷徹な静寂を保っていた。
(相手の狙いは完全に読めた。……ならば、ここからこちらのペースへ引きずり込む)
「全員、集まれ」
フリースローのわずかな合間、俺は4人を呼び寄せた。
「相手の遅攻に付き合って足を止めるな。相手がペイントを固めて外を空けているなら、陣内のシュートに頼る必要はない。白石、お前がトップから打て」
「えっ……!? 僕が外から打つの……!?」
白石が目を丸くした。
「相手センターは、お前が外から打てるとは夢にも思っていない。お前の手首の柔らかさなら、フリースローラインからのミドルジャンパーは八十パーセントの確率で沈められる。……白石、お前のその天性の指先を、ここで信じてみろ」
白石がおっとりとした表情を引き締め、ごくりと喉を鳴らした。
「……うん。やってみるよ、蓮くん!」
ピーーーーーッ!
試合再開の笛が鳴る。
満身創痍の原石たちが、東山の張り巡らせた遅攻の罠を打ち破るための、最初の反撃の狼煙が上がろうとしていた。
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