第16話:荒削りの巨躯、衝突のフロア
四月上旬。
満開の桜が咲き誇る並木道を、真新しい制服に身を包んだ新入生たちの列が通り抜けていく。
アスファルトに散る桜の花びらを革靴で踏みしめながら、俺――如月蓮は、真新しい校門を見上げた。
『学校法人 開明学園 私立開明高等学校』
今年度、県内の文武両道を掲げて新設された中高一貫の私立高校。
モダンなガラス張りの校舎、手入れの行き届いた中庭、そして敷地の最奥には、プロチームの練習場と見紛うばかりの巨大で近代的な総合体育館がそびえ立っていた。
「ここから……いよいよ始まるんだな」
紺色のブレザーのポケットに両手を突っ込み、俺は静かに息を吸い込んだ。
身長は百七十八センチ。
中学の二年間、前世のケビン・ウォーカーとしての記憶とバイオメカニクスを総動員し、成長期の骨端線と関節を徹底して守り抜いてきた。
身長の伸びを阻害する無謀なウエイトトレーニングは一切排除し、インナーマッスルの柔軟性と、着地衝撃を分散させるトリプル・エクステンションの連動だけを極限まで研ぎ澄ましてきた肉体。
だが――まだ第二次性徴の途上にある十五歳の身体だ。大人や上級生の激しい肉弾戦に耐えうる分厚い筋肉の鎧は、まだついていない。
(去年の夏の悔しさは、忘れていない)
脳裏をよぎるのは、昨年の夏、県大会決勝で王者・帝陵中に2点差で惜敗した夕暮れのコート。
交代枠のない五人だけで四十間を戦い抜き、最後は選手層の厚さと疲労の前に力尽きた、仲間たちの涙。
『どれだけ優れた戦術があっても、どれだけ怪我をしない身体があっても、バスケは五人だけで全国の頂点に立てるほど甘くない』
あの敗北を機に、俺は神崎拓也のスカウトを受け入れた。
誰一人壊れず、全員がタイムシェアを行いながら全国を制覇できる本物のチームを作るために。
◇
放課後。
入部届を鞄に忍ばせ、体育館の重厚な防音扉に手をかけた瞬間だった。
ドガァァァンッ!!
鼓膜を激しく揺さぶる、鈍く重い肉体衝突の破壊音。
続けて、喉を引き裂くような怒号がフロアに反響した。
「邪魔だボケェッ! 俺の目の前でチョロチョロ跳んでんじゃねえよ!」
扉を開けると、コート中央のペイントエリアで、一人の大男が同級生の胸ぐらを掴み、今にも殴り倒さんばかりに吊り上げていた。
百八十六センチ、八十五キロ。
青々と刈り上げた丸刈りに、高校一年生とは思えない分厚い胸板と丸太のような腕。
赤黒く日焼けした顔に、野獣のような獰猛な眼光をギラつかせている男――鮫島豪だった。
床には、突き飛ばされた体格の良い部員が、腰を押さえて激痛に顔を歪めていた。
中学時代に県選抜で名を馳せ、鳴り物入りで特待入学してきたエリート推薦組の一人だ。
「おい鮫島! 今の完全にオフェンスファウルだろ! リバウンドで相手を突き飛ばしてボール奪う奴があるか!」
周囲を取り囲む推薦組の部員たちから、一斉に非難の声が上がる。
「中学の時もファウルだらけで退場ばっかりだったって噂は本当だな!」
「暴力振るうならバスケ部じゃなくてラグビー部にでも行けよ!」
「あァ!? テメエら、今なんつったコラァ!」
鮫島が血走った目を剥き、手にしたボールをフロアへ力任せに叩きつけた。
バチィィィンッ! と床が軋む。
「リバウンドは、最後にボールをもぎ取った奴が正義なんだよ! 身体が当たったくらいでギャーギャー泣き言抜かすなら、最初からゴール下に入ってくんじゃねえ! 痛えならすっこんでろ、温室育ちのエリート様がよォッ!」
周囲の空気が一気に一触即発の殺気で満ちていく。
推薦組の部員たちが拳を握りしめ、鮫島も歯を剥き出して威嚇する。
「やれやれ……初日から威勢がいいねえ」
ベンチ脇から、苦笑混じりの声とともに現れたのは、開明高校男子バスケットボール部ヘッドコーチ――神崎拓也だった。
手には分厚いバインダーとストップウォッチ。銀縁眼鏡の奥から、騒動を冷徹に観察している。
「鮫島くん。君の圧倒的なパワーと跳躍力は素晴らしい天賦の才だ。だが、審判に笛を吹かれたら、奪ったリバウンドは相手ボールになり、スタッツはゼロだぞ。ファウルトラブルでベンチに座らされたら、君のその体躯は何の役にも立たない」
「ケッ! 審判の目が節穴なだけだ!」
鮫島は唾を吐き捨てて噛みついた。
「俺が誰よりも高く跳んで、誰よりも強くボールを掴んでんだ! ファウル取られるのは相手が貧弱だからだろうが!」
話にならない。
反則を取られることの致命的なリスクを理解せず、ただ自らの野生と腕力だけに身を委ねている。
だが、その鮫島の足元に、激しい跳躍を繰り返した代償として転がってきたボールが、コロコロと俺の足元へと止まった。
俺は右足の甲でボールを軽くすくい上げ、静かに両手で抱え込んだ。
「審判のせいじゃない。お前の跳び方が、あまりにも雑で下手くそなだけだ」
静かな、だが体育館のざわめきを一瞬で切り裂くような澄んだ声だった。
「あァ……!?」
鮫島が首の骨をボキリと鳴らし、ゆっくりとこちらへ振り返った。
身長百七十八センチの俺を、百八十六センチの巨漢が見下ろしてくる。
間近で見ると、凄まじい威圧感だった。
「なんだテメエ、そのひょろいモヤシは……。俺に説教垂れようってのか?」
「事実を言っているだけだ」
俺は眉一つ動かさず、鮫島の血走った目を真っ直ぐに見据え返した。
「お前はボールの落下点を見極めることなく、ただ相手の胸元に全体重をぶつけながら、前傾姿勢で前へ飛び出している。だから空中で軸がブレて相手に突進する形になり、ルーズボールファウルを取られるんだ」
俺は手元のボールを指先で軽くスピンさせた。
「さらに言えば、その跳び方は着地の衝撃をすべて足首の内側と膝の靭帯に集中させている。今はまだ若さで誤魔化せていても、あと一年もすれば前十字靭帯かアキレス腱が耐えきれなくなって悲鳴を上げるぞ」
「口先だけのチビが……知った風な口利いてんじゃねえぞォッ!!」
プライドを木っ端微塵に抉られた鮫島が、顔を真っ赤にして俺の胸ぐらを掴みかからんばかりに一歩踏み出してきた。
丸太のような腕が振り上げられる。
だが、俺は後ずさりすらしなかった。
脈拍は六十四。視界は極めてクリアだ。
「リバウンドは、相撲じゃない」
俺は冷徹に告げた。
「シュートの入射角、バックリムへの衝突反発、スピンの減衰率を物理的に計算し、相手よりコンマ二秒早く落下地点の空間を確保する技術だ。力任せに跳ぶことしか能がないなら、お前はただの暴れ馬で終わる」
「上等だコラァッ!!」
鮫島が唾を飛ばして吼えた。
「そこまで偉そうに能書き垂れるなら、見せてみろや! テメエの言う通りにやって、俺がリバウンド取れなかったら……テメエのその頭、フロアに叩き割ってやるからな!」
緊迫する体育館。
エリート推薦組の部員たちが息を呑み、二階ギャラリーの手すりでは、神崎拓也がバインダーを抱えて不敵な笑みを浮かべていた。
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