第22話「信仰のひび割れ」
遠く離れた廃都アルセリアの上空――
ユウリの視界に、異常構文の光が閃いた。
《警告:北方区域より“神罰構文エラー”発生》
《観測対象:勇者隊。権限逸脱レベル――危険域》
ユウリは立ち上がり、空を睨む。
ティアが驚いたように顔を上げた。
「ご主人様、あれ……!」
「ああ。勇者隊が……やらかしたな」
ユウリの声は冷静だったが、瞳の奥には確かな怒りが燃えていた。
「また神の真似事か。なら――壊して、直すだけだ」
その言葉が、夜風に消えていった。
――夜明け前。
北方の荒野には、風の音しか残っていなかった。
黒焦げの地面。
天へと伸びていた光柱はすでに消え、そこには崩れた構文陣の残骸だけが散らばっている。
あの“神罰の模造獣”の咆哮も、もう聞こえない。
沈黙だけが支配する世界の中で、ひとりの男が膝をついていた。
「……どうして、こうなった……」
レオン・ハーヴェスト。
聖騎士の鎧は焼け爛れ、聖印は割れている。
腕に抱いたイリナの身体は冷たい。
かろうじて息はあるが、皮膚は瘴気に焼かれ、彼女の魔力は乱れていた。
彼の目の前では、勇者カイルが呆然と立ち尽くしていた。
光を失った聖剣を地面に突き立て、唇を噛む。
何かを祈るように、あるいは自分を保つように。
「神は……試している。俺たちは、間違っていない。間違っていない……!」
その声は掠れ、誰にも届かない。
彼の足元には、堕獣の模造体が崩れた残骸――いや、“神の死骸”と呼ぶべきものが転がっていた。
その身から立ち上る黒煙は、祈りの残響を吸い込みながら形を失っていく。
「カイル様……もうおやめください。これは、試練なんかじゃない」
レオンの声は弱かった。
けれど、その瞳だけは確かに生きていた。
「リアナを、異端だと言ったのは……あんたじゃなかったのか」
「黙れ!」
「俺は……ずっと、あんたが正しいと思ってた。でも……神は俺たちを見てなんかいない」
「神は見ている! 我らを導いている!」
「だったら――なぜ、何も言わない!!!」
荒野に、レオンの叫びが響いた。
その瞬間、遠くの空で雷鳴が轟く。
しかしそれは奇跡ではない。ただの気象。
神の答えではないことを、皆が知っていた。
ジェイドが震える手で短剣を握りしめる。
「なぁ、もうやめようぜ……。俺たちはただの人間だ。神の声なんて、聞こえちゃいなかったんだよ……」
「貴様まで……裏切るのか」
「裏切る? もう、何を信じりゃいいんだよ!」
沈黙。
その隙間に、イリナのか細い声が割り込んだ。
「……カイル。あなたは……神になりたかったのね」
「違う! 俺は――神に選ばれた!」
「選ばれた人は、そんな顔……しないわ」
その言葉は、決して強い声ではなかった。
だが、それだけで十分だった。
勇者カイルの頬を、一筋の涙が伝う。
それは祈りでも後悔でもなく、“信仰の崩壊”そのものだった。
◇◇◇
一方その頃――
廃都アルセリア、神殿核の前。
ユウリ・アークライトは、端末βの報告を聞いていた。
《観測報告:北方区域、神罰構文の崩壊を確認。異常反応は沈静化しました》
「……沈静化、ね」
ユウリは深く息を吐く。
「まるで神が、人間に自壊を選ばせたみたいだ」
隣でティアが尻尾を丸めた。
「ご主人様、勇者たち、もう……」
「ああ。生きてはいるだろうが、あれはもう人じゃない」
リアナが静かに祈るように両手を胸に当てた。
「神が沈黙するのは、人に考えさせるため……そう思っていました。でも――違うのですね」
「そうだ。神が沈黙したのは、ただ“関心を失った”だけだ」
「……なら、わたしたちが話しかける番ですね」
リアナの瞳が、再び光を取り戻した。
◇◇◇
――同時刻。
神界上層・白律の庭。
観測主アルティアは、静かに構文を眺めていた。
浮かぶ光の線が、ひとつ、またひとつと消えていく。
【観測結果:地上信仰構文、安定度67% → 41%へ低下】
【原因:人間界における“祈りの同調率”崩壊】
「……人は信仰を捨て始めたか」
その声は冷ややかだが、どこか満足げでもあった。
天使長セリオンが膝をつく。
「観測主アルティア、これでは秩序が――」
「秩序とは、人間が縋る“形”だ。壊れることを恐れるな。そこから、再構築が始まる」
「まさか、地上の異端者ユウリを……容認なさるのですか」
「容認ではない。観測だ。彼は“神の沈黙に意味を与えた”初めての存在だ」
セリオンが言葉を詰まらせる。
エリュシアが一歩前へ出て、光の羽を広げた。
「アルティア様。……もし、あの男が神を改造するなら、我々はどうなりますか」
「どうもならぬ。神が沈黙するなら、次に語るのは――人間だ」
アルティアの瞳に、わずかな笑みが宿った。
「それを恐れるのが“秩序”というなら、私もまた異端でいい」
白い光が広がり、観測層の記録が書き換えられていく。
【新観測項目追加:コード改変者ユウリ・アークライト】
【観測分類:人間型再定義存在】
◇◇◇
荒野。
夜が明け、レオンは倒れたイリナを抱えながら、朽ちた神殿跡を見上げていた。
そこには、もう何の祈りも届かない。
風が吹き抜け、壊れた聖印を転がす。
彼は胸の奥で、かすかに呟いた。
「……神様。もし、あなたが本当にいるなら――」
言葉が途切れた。
祈りではなく、問いだった。
けれど、返ってくる声はなかった。
ただ、風の音。
そして、遠くで小さく――
誰かの笑い声が聞こえた気がした。
廃都アルセリアの方角から。




