第21話「勇者隊、北を行く」
風が、腐った神殿の残骸を吹き抜けた。
かつて聖域と呼ばれたこの地は、今では瘴気の吹き溜まりだ。
赤黒い空が地平線まで垂れ込め、光はすべて濁っている。
その中を、四つの影が歩いていた。
「……進軍速度、落ちてるな」
盗賊ジェイド・フォルカーが、濁った空気の中でぼやいた。
肩の短弓を担ぎ、足元の泥を蹴り飛ばす。
「この辺り、もう魔物の気配もねぇ。神罰で焼かれた土地だろ。進む意味あるのかよ?」
返答はなかった。
先頭を歩く勇者カイル・グランバーグの瞳には、焦燥と苛立ちが浮かんでいる。
「黙れ、ジェイド。神の声は、沈黙の中にこそある」
「……またそれかよ」
「我らの進軍は試練だ。沈黙もまた、神の御業。――この先に、“異端”が潜んでいる」
カイルの言葉に、ジェイドは小さく舌打ちをした。
だが反論はしない。彼の背に背負った神剣は、既にその光を失って久しい。
続くのは聖騎士レオン・ハーヴェスト。
鎧は泥にまみれ、聖印の輝きは鈍く曇っている。
かつて彼が誇りにしていた銀の盾には、無数のひびが走っていた。
「……勇者様」
レオンが低く呼びかける。
「補給も尽きかけています。兵もいません。これ以上の行軍は――」
「神の導きがあれば、兵など不要だ」
カイルが遮る。
「俺たちだけで十分だ。神は見ている」
その“神”が何も答えないという現実を、誰も口に出せなかった。
沈黙の中で、イリナ・ローレットが震える指先で杖を握る。
彼女の額には、焦げたような魔力の痕が残っていた。
「……見ている、ね。なら、どうして応えてくれないのかしら」
「イリナ?」
「祈っても、叫んでも、奇跡はもう起きない。リアナがいなくなってから、何も。……何も、ないのよ」
カイルが振り向いた。
その表情は冷たい怒りそのものだった。
「リアナは異端だ。神の慈悲を穢した堕天者だ」
「本当にそう? あなたがそう言っただけでしょ?」
一瞬、風が止んだ。
空気が凍りつき、レオンの喉がごくりと鳴る。
次の瞬間――
「黙れッ!!!」
カイルの拳がイリナの頬を打った。
乾いた音が荒野に響き、彼女の体が倒れる。
血が、乾いた地面に滲んだ。
「お前は神の敵を擁護するのか!? 神が沈黙しているのは、我らを試すためだ!」
「違う……あなたが……壊れていってるだけよ」
イリナの声は掠れていた。
それでも、その一言は確実に、カイルの胸の奥を突いた。
勇者は震える拳を握りしめ、空を見上げる。
鈍色の雲が渦巻き、その中に、微かに古代構文の残滓が光っていた。
「……試練だ。神は我らを選んだ。ならば応えねばならぬ」
カイルは腰の聖剣を抜いた。
刃の先に、黒い瘴気が纏わりつく。
その光はもはや聖ではなく、呪詛に近かった。
レオンが慌てて駆け寄る。
「勇者様、落ち着いてください! それは……神罰の残滓です!」
「わかっている。だがこの力こそ、神の遺した試練だ」
カイルは構文陣を展開した。
イリナが目を見開く。
「まさか……禁呪構文を使う気!?」
「神の敵を討つためなら、魂さえ差し出す!」
その言葉とともに、地面が震えた。
黒い光が空へと伸び、歪んだ魔法陣が周囲を覆う。
空気が裂けるような音。
耳をつんざくような叫び――
そして、遠くで堕獣の咆哮が木霊した。
濁った空の向こうで、何かが蠢いている。
それはまだ見ぬ地獄の胎動。
「見ていろ、神よ。俺はお前の沈黙を――超えてみせる」
勇者カイルの瞳に、狂気の光が宿った。
その瞬間、空に無数の構文エラーが走る。
【警告:神罰構文に異常発生】
【原因不明の干渉を検出】
【観測ログ:地上個体“Kyle Granberg” 権限逸脱】
それは神界が最初に発した、“人間の狂気”へのエラーメッセージだった。
風が止み、世界が息を潜める。
堕獣の咆哮が、再び――荒野の果てから響いた。
地面が鳴動した。
構文陣の縁が砕け、黒い光が荒野を裂いていく。
空には赤い稲妻が走り、神罰の残滓が形を変え始めていた。
「カイル様っ、もうやめてください!」
レオンの叫びも届かない。
勇者の背は、狂気に飲まれた神像のように微動だにしなかった。
彼の足元で、イリナの杖が震える。
展開された魔法陣の中心に、異様な黒球が浮かび上がる。
それは生き物のように脈動し、叫び声のような魔力音を放った。
「こんなの……これは“神罰構文”じゃない……っ! まさか、堕獣の核を――!」
「神の遺した試練だ!」
カイルが振り向きざまに叫ぶ。
その眼には、もはや信仰ではなく“恐怖の反転”が宿っていた。
「神は我を見ている! 沈黙の意味を、俺が証明する!!!」
その瞬間――爆音。
黒光が爆ぜ、視界が白く染まった。
荒野の一帯がまるで生きているように蠢き、地表が隆起する。
瘴気が渦を巻き、そこから――生まれた。
巨大な影。
骨の翼、無数の腕、そして神罰構文の残骸をまとった異形の獣。
堕獣とは異なる。
それは、【人が自らの信仰を食わせて作り上げた“神罰の模造体”】だった。
「カイル……あなた、何を呼んだのよ……!」
「神の御使いだ! これこそ、神が俺に与えた答えだ!」
「違うっ!!」
イリナの叫びは、雷鳴にかき消された。
黒い風が吹き荒れ、ジェイドが尻もちをつく。
彼の顔は蒼白だった。
「ふざけんな……こんなもん、人が制御できるわけねぇ!」
堕獣の模造体が咆哮した。
それは地の底を震わせ、遠くの山々が崩れ落ちるほどの衝撃。
瘴気が波のように押し寄せ、周囲の空間がねじれる。
「後退しろ! イリナ、ジェイド!」
レオンが叫んだ。
だがカイルは一歩も退かない。
「逃げるな! 神が見ている! ここで退けば、救済はない!!!」
その声に応じるように、模造獣の腕が伸びた。
鋭い爪がカイルの頬を掠め、血が飛ぶ。
それでも勇者は笑った。
「――そうだ、これだ。これこそが“神の怒り”!」
レオンの胸の奥が、音を立ててひび割れた。
“神の怒り”という言葉を、あのリアナも口にしていた。
だが、彼女は恐れながらも、人を救おうとしていた。
今目の前にいる男は、“救い”を語りながら、人を捨てていた。
胸が焼ける。
レオンは震える手で聖印を握った。
「……カイル様。俺は……間違っていました」
「何を言う、レオン」
「俺たちは……神の代わりに、ただの地獄を歩いてるだけだ……」
勇者が振り返る。
目には理解不能の怒りと狂信が宿っていた。
「ならば、貴様も試練の一部だ」
剣が振り下ろされる。
それを、イリナが身を投げ出して止めた。
刃が彼女の肩口を裂く。血が飛び散り、地面を濡らした。
「イリナッ!」
「大丈夫……っ。でも、もう止めないと……このままだと、本当に……」
その言葉の途中で、模造獣が動いた。
咆哮。
雷鳴にも似た衝撃波が地面を砕き、荒野の一帯を薙ぎ払う。
岩が飛び、砂塵が空を覆う。
レオンは咄嗟にイリナを抱え、後方に転がった。
ジェイドはすでに這いながら逃げ出している。
誰もが理解した――
この戦いは“戦い”ではない。
滅びそのものだった。
模造獣の光が再び膨れ上がる。
その中心で、カイルが叫ぶ。
「――神よォォォォォッ!!!」
その声とともに、黒い光柱が天を突き抜けた。
世界が一瞬、停止する。
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