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第二話 滅びゆく家

第二話 滅びゆく家

 イングランド北部、ヨークシャー。

 その名を口にするとき、人はしばしば、風に晒された石造りの城壁や、低く垂れ込めた灰色の雲、湿り気を含んだ草原、そして古い戦いの気配を思い浮かべる。

 この地は、ただの地方ではない。

 かつて英国王ジョージ六世が「ヨークの歴史はイングランドの歴史である」と述べたように、ヨークの歩みはそのまま、王国の栄光と争乱の縮図であった。王権を巡る策謀、宗教を巡る対立、地方領主たちの反目、外敵への備え、そして時代が下るにつれては産業革命の熱と煤煙までもが、この土地に折り重なってきた。

 その長い歴史の陰で、常に名を残してきた一族がある。

 リージラリィ家。

 古くからヨークシャーの各地に小さな所領や屋敷を持ち、戦時には兵を率い、平時には地域の治安と流通を支え、飢饉の際には備蓄を開放し、時には自ら剣を執り、またある時には銃を構え、さらには技能をも用いて故郷を守ってきた家である。

 彼らは伯爵でも侯爵でもなかった。

 代々、爵位を持たぬ平民だった。

 だが、そのことを恥じた者は一人もいない。

 むしろリージラリィ家は、幾度か王室から打診された叙爵を、一貫して辞退してきたことで知られている。

 リージラリィは、常に民と共にある。

 それが歴代当主たちの口癖であり、家訓であり、矜持であった。王の覚えめでたくとも、上から民を見下ろす存在になることは望まなかった。自分たちは土地とそこに住む人々と共にあり、そのためにこそ剣を取り、力を振るうのだと、彼らは考えていたのである。

 リージラリィ――Regilary。

 この姓の由来は、地域を意味する regional と、守護神を意味する tutelary を掛け合わせたものだと伝えられている。いつからこの名を名乗るようになったかは定かではない。それ以前には別の姓があったらしいが、古い記録は焼失し、口伝も途絶え、今となっては確かめようがなかった。ただ一人、サー・ギメリオ・サマビルは事実であると追認する。英国が誇る生きる伝説が認めるのだから、異を唱える人は皆無であった。

 地域を守るもの。

 その響きは、いささか大仰で、時に気恥ずかしいほどだ。だが、リージラリィの人々は、その名に見合うよう生きることを自らへ課してきた。

 もっとも、いかに長く続いた名門であろうと、時代の流れを拒み続けることはできない。

 大英帝国が二度の世界大戦を経てかつての絶対的な威光を失ったように、ヨークシャーに深く根を張っていたリージラリィ家もまた、静かに、しかし確実に衰退へ向かっていた。

 もともと彼らは、土地そのものから富を汲み上げる大貴族ではない。

 人望と実務、地域社会との結びつき、そしていざというときに前へ出る勇気によって名を保ってきた家だ。そのため、工業化と都市化が急速に進み、土地に根ざした旧来の名望が貨幣や資本の論理に押し流されはじめると、家の地盤は目に見えて弱っていった。

 しかも二度の世界大戦は、この一族にとって痛手だった。戦場で死んだ者もいる。戻ってきても心身に深い傷を負った者もいる。屋敷の修繕は後回しになり、使用人は減り、古い調度品は少しずつ売り払われていった。外から見ればなお立派な家であっても、その内実は、名声の残り香で辛うじて体裁を保っているに過ぎなかった。

 それでも、家には当主がいた。

 ヤゼード・リージラリィ。

 彼は三男坊として生まれ、本来なら当主となるはずのない立場にいた。だが戦禍が二人の兄を奪い、巡り巡って彼が家督を継ぐことになった。

 それは幸運だったのか、不運だったのか。

 少なくともヤゼード自身は、終生、その問いに答えられなかった。

 兄たちは有能だった。

 幼い頃からそう聞かされて育った。長男は剛毅で、次男は聡明だったという。では、自分は何なのか。残された三男に過ぎぬ自分が、なぜ歴代のリージラリィと同じ椅子に座らねばならないのか。

 劣等感とは厄介なものである。自分には価値がないと思い込む者ほど、その欠落を埋めるために過剰な夢へすがりつく。ヤゼードにとって、それは家の再興だった。兄たちに代わって当主となった己こそが、一族をかつての栄光へ押し戻すのだ。その執念に近い思いが、彼を突き動かしていた。

 時代もまた、彼に幻想を与えた。

 技能の発展は、長い歴史の中で何度も技術と主流を争ってきたが、二十一世紀を前にして再び大きな転機を迎えていた。生命体が行使できる精神力には限界がある。その限界をどう補うかという課題は、各国の研究機関と企業を刺激し続けてきた。そして、その一つの成果として広く普及し始めたのが、メドルである。

 メドル。

  mediation tool――媒介装備という語から抜き出された、その名の通り、使用者の精神力を増幅し、あるいは消費を節約し、技能の運用効率を高めるための道具だった。剣や銃、籠手、外套のような明確な武装の形を取るものもあれば、指輪、首飾り、懐中時計、髪留めのように、一見して装備品とは思えぬ形状のものもある。

 優れたメドルは、戦闘のみならず、医療、建設、運搬、探査、防災など、多くの分野で革命的な成果をもたらしつつあった。だが、性能の高いメドルを作るには、増幅素材と呼ばれる特殊な鉱石や希少材料が必要である。精神力の伝導率、増幅率、加工耐性、持続性。優れた素材ほど埋蔵量は少なく、その価値は高騰していた。

 ヤゼードは、その鉱脈に未来を見た。

 いや、見ようとした。

 新鉱石の発見報告が相次ぎ、各地で開発投資が過熱する中、彼は私財のほとんどを鉱山開拓事業につぎ込んだ。もし当たれば、家の負債を一気に返済できる。屋敷の修繕も、領地の再整備も、リージラリィの名にふさわしい事業も、すべてが可能になる。失われた兄たちにも、先祖たちにも、自分は無能ではなかったのだと示せる。

 そう信じて。

 しかし現実は、信念に情けをかけない。

 調査報告は外れ、掘削は難航し、資材費は膨らみ、共同出資者は次々に手を引いた。採算を見込んでいた一帯からは、期待されたほどの増幅素材は出なかった。出ても質が悪く、加工に向かない。技師は数字を並べて撤退を進言したが、ヤゼードは耳を貸さなかった。今退けば、すべてが失敗で終わる。もう少し先へ進めば、本命の鉱脈に届くはずだ。そう言って、さらに資金を投じた。

 結果として、それは家の息の根を止める決断となった。

 彼に一人息子がいることは、周囲も知っていた。

 リーアン・リージラリィ。

 Leon と綴りながら、家では昔から「リーアン」と読ませていた。由来は獅子。勇猛の象徴。だが、その名を与えられた当の本人は、獣のような気性とは縁遠い男に育った。温厚篤実という言葉がこれほど似合う者も珍しく、生涯で怒鳴った回数は片手の指で足りると評されるほどだった。

 父と子は、似ていなかった。

 似ていないからこそ、相容れなかった。

 ヤゼードは、家名とは誇るべき旗印であり、それを高く掲げ直すことが当主の務めだと考えていた。選ばれた家、優れた血、民を導く者としての責任。彼の言葉には、古い時代の匂いが色濃く残っていた。

 一方のリーアンは、一族の伝統を軽んじていたわけではない。だが、家名だけで腹は膨れず、誇りだけで屋敷は持たないと知っていた。必要なのは、時代に即した知恵と技術、そして人と人の結びつきの中で実際に役立つものだ。古い威光よりも、現実に持続する仕組みを作ることの方が大切だと、彼は考えていた。

 彼がそうした考えに至ったのは、早くに家を出たことが大きい。

 母は彼が生まれてほどなく亡くなっており、屋敷に残る空気は、父の苛立ちと古びた威厳に満ちていた。リーアンは成人を待たずして生家を離れ、副業で生活費を稼ぎながら勉学に励んだ。大学では社会学と経営学を学び、伝統や共同体の構造、人が場所に何を求めるか、地方経済がどう循環するかを学んだ。そこでは彼の家名など、さして意味を持たない。ただ能力と誠実さだけが人間を測る。リーアンはその環境を好んだし、自分が何者であるかを、はじめて家名以外の言葉で定義できるようになった。

 実業界を志す若者たちとも交流した。

 宿泊業を学ぶ者、地域振興に関心を持つ者、古建築の保存と再利用に携わる者、政府機関で地方支援政策に関わることを目指す者。彼らと語るうち、リーアンの中には漠然とした確信が芽生えていた。

 古いものは、壊れるから価値がないのではない。

 使われなくなったから朽ちるのだ。

 ならば、使われる形に変えればいい。時代遅れになった屋敷も、意味を持つ場所へと作り替えることができれば、生き延びられるかもしれない。

 だがその考えを父に語るたび、ヤゼードは鼻で笑った。

 リージラリィの屋敷を、人の出入りする宿屋にするだと。

 笑止千万。

 その一言で話は終わった。

 そして、父の最期が来た。

 十数年ぶりにまともに呼び戻されたとき、リーアンは冬の匂いが屋敷に満ちているのを感じた。磨かれていたはずの廊下は鈍く曇り、暖炉の火もどこか心許ない。使用人の数はさらに減っており、屋敷全体が、長い病に伏した獣のように静まり返っていた。

 主治医に案内されて寝室へ入ったとき、リーアンは一瞬、そこに横たわる人物が父だとわからなかった。

 寝台から起き上がってはいる。だが、その身体は異様なほど軽そうに見えた。頬は削げ、皮膚は蝋のように色を失い、目の周囲は落ち窪んでいる。まだ五十四歳のはずなのに、八十を越えた老人のようだった。

 これが、かつて声を荒らげ、誰よりも大きな未来を語っていた男の姿なのか。

 リーアンは胸の奥が冷えるのを覚えた。

「長くは話せません」

 主治医は小声でそう言って、静かに部屋を辞した。

 扉が閉まり、重い沈黙が落ちる。窓の外では裸木が揺れ、硝子に雨粒が当たっていた。

「リーアン」

 父の声は、擦れた紙のようにか細かった。

 それでも、彼が自分をそう呼ぶ響きには、少年のころから染みついた圧が残っていた。

 リーアンは寝台の脇に立ち、ただ頷いた。何かを言えば、責める言葉になる気がした。あるいは、許す言葉になってしまう気もした。そのどちらも、今ここで口にすべきではないと思えた。

「お前が……次の当主だ」

 言葉の合間に、浅い呼吸が差し挟まる。

 ヤゼードは震える指を毛布の上でわずかに動かし、息を継いで続けた。

「名を汚すな。リージラリィの栄光を……取り戻すのだ。良いな」

 それだけだった。

 謝罪もなければ、説明もない。

 失敗を悔いる言葉も、息子への労いも、母を早くに亡くした子を一人で育てた年月への回想すらなかった。最後まで彼は当主であり、父ではなかった。

 リーアンは返事をしなかった。できなかったのかもしれない。

 ただ、目の前の男がこれで終わろうとしているのだという事実だけを、黙って受け止めていた。

 翌日の未明、ヤゼードは誰にも看取られることなく息を引き取った。

 眠るように、と表現するには、その顔にはあまりにも強張りが残っていた。最後まで何かに抗っていたのか、それとも、ようやくすべてから解放されたのか。リーアンにはわからなかった。

 ただ一つわかったのは、親子の軋轢が、ついに氷解することはなかったということだけだった。

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