エッグ・ベネディクト
部屋から外に出て、驚きのあまりしりもちをついてしまった。しりもちをつくだなんて人生で初めてだ。だがそれくらいに驚いたのだ。あの騎士が壁にもたれるようにして座り込み眠っていた。走馬灯のようにあの夜の出来事がよみがえり、ついでに彼の唇の感触でさえもよみがえりそうになって意味もなく首を横に振った。昨日の記憶はおぼろげだ。ただひたすら暑くて寒くて震え続けていたのだけ覚えている。おそらく昨日は風邪をひいてしまい、発熱していた。薄着で寝てしまったせいだろう。やたらと濃くて甘くてドロドロしているハニージンジャーを飲んだこともぼんやりと覚えている。あれは、この騎士が作ってくれたのか。はっとして部屋を見れば、額に載っていた濡れタオルや、水の入った水差しがあった。そして中途半端に第一ボタンだけ留まっていない己の服を見下ろした。汗で濡れて気持ち悪い。おそらく服を替えようとしてくれたのだろうが、すんでのところでやめたらしい。妙なところで紳士だ。一人でわたわたしているエマの気配に気づくこともなく、騎士は穏やかな寝息を立てている。余程疲れているらしい。見れば長いまつげの下には隈が見えた。あまり寝ていないのかもしれない。夜通し看病してくれたに違いない。そっとクマのあたりを指でさすろうとして、はっと手を引いた。自分の行動が信じられなくて愕然とする。何をしているのだ自分は。この騎士は、騎士団勧誘のためにこれほどよくしてくれているのだ。個人の特別な感情など皆無に等しいと分かっていたはずじゃないか。わかっていたから、自分が傷つかないように殻にこもって、線引きをしてきたのだ。それを自ら越えるようなことをしてしまうとは。ふうっと息を吐く。思いを断ち切るようにエマは立ち上がろうとしたが、バランスを崩した。視界がぶれる。熱は下がったが、どうやら万全の体調からは程遠いようだ。咄嗟に反応できず、ぼすん、と騎士に向かって倒れてしまった。その衝撃で起きてしまったらしく、彼は小さく呻いた。長いまつげが震えて、その下にある綺麗な目がぼんやりとエマを映す。彼の目をこれほど間近でまっすぐに見たのは初めてだった。こんなに綺麗な若葉色の瞳だなんて知らなかった。知りたくなかったのに。知ってはいけなかったのに。
「……エマ殿……?」
かすれた声がとろけるような色気を孕んでいて、腰が抜けそうになった。そんな声を、耳に直接落とされたのは、前の世界で乙女ゲームをイヤホンでプレイしていた時くらいだ。ぶわっと一気に顔に熱が集まるのが分かった。鏡を見なくても真っ赤になっていることがわかる。はじかれたように離れようとしたら、ぐっと腕のあたりを強くつかまれて引き戻されてしまった。
「もう起きられるのか?具合は?」
「おおおおおおおっおおおおかげさまで、ばっちぐーです。」
もはや自分が何を話しているのかもわからない。間髪を入れずに騎士の手がひたりと額に触れてきた。真剣なまなざしに息をのむ。気絶したい。今すぐここで意識を手放してしまいたい。こんな、寝起きでぼさぼさの顔面を懇切丁寧にじっくり見られるとか、女として終わっている。でも、妙だ。この騎士に対して、自分が女だと強く意識したのはこれで初めてだ。
「熱は……少しは下がったようだな。」
騎士がほっとしたような表情を見せる。心配をかけたのだろうと胸がきゅうとなった。こんな胸が引き絞られるような感覚も初めてで戸惑ってしまう。なんだか気恥ずかしくなって、騎士から目をそらすと、彼の薄い唇が目に入った。騎士からの半分強引な口づけを思い出し、カッと耳のあたりが熱くなった。騎士を突飛ばすようにして彼から距離を取る。
「エマ殿……?」
「す、すすすすみません。き、きききキスをされたのは、気にしてないので」
動揺のあまり余計なことを口走ってしまった。もはや、地に埋まって騎士の視界から消えてなくなってしまいたい。しかし、対する、騎士は怪訝そうな表情を浮かべている。
「きす?」
「へ?」
あたりに沈黙が落ちた。騎士は怪訝そうな表情を崩さない。すうっと自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。あの夜、この騎士は酔っていた。まさか。
「き、騎士様、あの、一昨日の記憶どこまであります?」
「チョコレート・ボンボンが美味しかったことをおぼろげに覚えている。」
エマはその場にへたりこんだ。なんてことだ。なにも覚えていないらしい。しかも、この騎士はお酒に弱いだけでなく、酔うとキス魔になるのか。いや、だが、待て。剣の腕でもなんでもなく、エマ殿が好きだと、言ってくれたのも嘘なのだろうか。そう思うと、すうっと胸のあたりが冷たくなった。どうしてこんな気持ちになるのかわからない。
「まさか、酔ったおれはエマ殿に何か……。」
「い、いえ、別に……。」
目をそらすと、エマは今度こそ立ち上がってキッチンへと向かった。一晩中看病してくれた恩人にお礼の朝食でも振舞わなければならない。
キッチンから出てきたエマは、エッグ・ベネディクトが載った皿を二皿もってテーブルに向かった。エマが作れる朝食の中で最も難しいメニューの一つだ。朝食の女王ともいわれるそれは、カリっと焼き上げたバゲットの上に、ジューシーなベーコン、ふわふわに茹でた卵が載っており、その上には、じゅわっと酸味の利いた黄色のソースにバジルが散らしてあり、色鮮やかである。
「エマ殿。」
しびれを切らしたようにまた騎士が口を開いた。エッグ・ベネディクトを作っている間も、キッチンの前をうろうろして落ち着かなげにしていたが、エマが調理し終わるのを辛抱強く待っていた。しかし、なぜえかそれすらもエマの心をちくちくと苛んだ。
「冷めるので、早く召し上がってください。」
思っていたよりも冷たい声が出て、自分でも驚いてしまう。騎士は一瞬目を見開いたが、ああ、と低く返事をして、静かにフォークを取った。ずきずきと良心が痛む。騎士は悪くないとは言えないが、酔っていて理性というものがなかった。それを責めるのは何か違うような気がする。だけど、気にしないでいつも通りに振舞えるほど心は強くはなかった。フォークで卵をつつくと、中からとろりと黄身が流れ出てきた。それをソースと共にベーコンとパン生地にからめると、口には運ぶ。濃厚でいてコク深い味わいなのに、酸味のあるソースのおかげで全くくどくない。それが柔らかくカリカリのパン生地とジューシーなベーコン絡まり絶妙な味わいである。しかし、せっかくの豪華な朝食も全然楽しめなかった。
「エマ殿。」
だから料理が冷める、と言おうとしたエマは口をつぐんだ。騎士はエマが考え事をしている間に、食べ終わっていた。食べることを促して、騎士の口を閉ざすことはもうできない。
「やはりおれがなにかをしてしまったのだろう。」
「いや、だから別に。」
「何もしていないのに、そのような顔をするのか。」
しつこく食い下がられて、エマの中で何かがぷちっときれた。かたんとフォークをテーブルに置いた。
「じゃあ、言わせてもらいますけど、私、酔っぱらった、騎士様に好きだと言われて、半分無理やりキスされました。」
据わった目でそう一方的にまくし立てると、ぴたりと口を閉ざした。なにか言い訳でもするのだろうかと様子を伺っていると、騎士は目を丸くしていた。
「なんだ、もっとひどいことをしてしまったのかと思った。」
……キス以上のひどいことをしていたかもしれない、ということなのか。エマの胡乱気なまなざしに気付いたらしく、騎士は急いで口を開いた。
「酔っていて記憶はないのだが、もしそれが真実なら、嘘偽りないことだ。」
「……また酔ってます?」
「酔ってなどいない!!」
「酔っている人ってみんなそう言うらしいですよ。」
「だから酔ってなど!!」
エッグ・ベネディクトには、一切のアルコールを使っていない。ただ、今現実に起きていることが信じられなくて、受け入れられなくて。
「何度も、思いを打ち明けようとしたが、あなたが話を聞いてくれないから!!」
若干声音を荒げた騎士は、いや、と言って口を閉ざした。
「それを押し切ってでも伝えきれなかったのがいけなかったな。」
今度はエマが目を丸くする番だった。これは一体どういうことなのか。展開が早すぎて状況を上手く呑み込めない。騎士のこの目はなんだというのだろう。強い決意を秘めていて、目をそらしたいのにそらせない。
「この心に嘘偽りないと誓う。あなたが好きだ、エマ殿。」
あの夜と全く変わらない、熱をはらんで、それでいて揺るがない強さを秘めている目だった。言葉を上手くつむげなくなる。
「え、あの。」
「最初はその凛とした強さに惹かれたのは認める。だが、毎日その人柄に、笑顔に触れるうちに、さらにこの想いは深く強くなっていった。」
今まではエマが何かを言えば騎士はそれに押し切られるようにして口をつぐんでいた。だけど今は違う。もはやエマのことはおかまいなしで、熱く強く言葉を続ける。その今までにない態度に免疫がなくて、たじろいでしまう。
「愛している、エマ殿。」
「ひぇっ!?いや、だから」
「交際をし」
「き、騎士様のお名前をまずお伺いしてもいいですか!?」
しーんと沈黙が落ちた。なまえ?と騎士が弱々しく呟く。エマはぶんぶんと頷いた。
騎士の片思いはまだまだ前途多難なようである。
お読みいただきありがとうございました!!
二人の物語はいったんここで終わりますー