【グゥキマーイのティルル】②
月が奇麗な夜、暗くなるまで畑仕事を頑張って鶴子おばあと一緒に家に戻ると一息ついて鶴子おばあが気晴らしに行こうと月子を誘う。島の食事処でおつまみ食べて、泡盛でも飲んで、おじいの引く三線でも聞こうと。畑の隅々まで雑草を抜き切った全身筋肉痛でクタクタな月子はこれから夜ご飯を用意する気も起きないので鶴子おばあのお誘いに反射的に同意する。富おばあの様態も安定している。気晴らししても罰は当たらないだろうと月子は思う。
外に出ると月の灯りが柔らかい。鶴子おばあと月子が一緒に久高島の集落の小道を歩くと、他の家から漏れて来る灯りから夕食の団らんを楽しむ声やテレビの音が聞こえる。笑い声が聞こえると自分のことでなくても少し嬉しくなる。ゆっくりと足を進ませながら港に近づくとより一層月が美しく輝いている。海の満ち引きが聞こえてくる。ほっとする。自分が詩人だったら歌なんか作っちゃうのかなと・・・と月子は優しい夜に包まれてそんな空想をする。そして自分の性に合わないと月子は自分を笑う。波の音が耳に心地いい。港まで来ると真っ暗な海の上に月明りの一本道が輝いていて、その道がここではないどこか神秘的な世界と繋がっているような錯覚に陥る。
辿り着いた食事処の扉をあける。食事処で働いている近所のおばちゃん達に軽く挨拶をして、適当におつまみと島酒を注文する。刺身とお酒はすぐに出て来て鶴子おばあと月子はたわいもない話をしながらマグロを食べ、海ぶどうをぷちぷち噛んで、泡盛をなめる。二人ともあまり飲めるほうではない。だから本当になめている感覚。お刺身の旨味と海ぶどうの栄養分が体の隅々まで広がる。疲れた体にしみていくほどに美味しい。新鮮なお魚を食べることができるということは本当に幸せなことだと月子はしみじみ思う。しばらくすると頼んでおいたラフテー(豚の角煮)が出て来て、鶴子おばあと月子は味のしみ込んだ柔らかいお肉を口に運んでは美味しそうに頬張る。その最中に三線を抱えた月子と同年代くらいの女性が店に入ってきた。月子は思わず目を見開く。そしてとっさに声をかける。
「敏子ちゃん」
月子がそう呼びかけると「ああ、月子ちゃん。久高に帰っているって聞いていたさー」と恥ずかしそうに返す女性。なんと島の同級生。会うのは中学校卒業以来。でも面影はお互いたっぷり残っている。
「久高に帰ってきたの?」と月子が聞くと敏子は気まずそうに頭を掻きながらもろもろの経緯を言いづらそうに語る。
「ほら、私、歌手目指して島出たさーね。知ってるでしょ、噂とかで。でもうまくいかなくて、本島の男と結婚したけど、それもうまくいなかなくて結局離婚して島に戻ってきたさー。でも、もちろん島に帰ってきても仕事なんてないから基本的には毎朝フェリーであっちに渡って南城市の海のそばの観光客向けのカフェで最終便のフェリーの時間まで働いてから島に戻ってくるから、月子ちゃんにも全く会わなかったよね。だから夜は島にいてする事ない訳さ。それであんまり家でテレビも見るものない時なんかにたまに食堂来て、歌うたって観光客にサービスしている訳さ。この島を好きになって欲しくて。月子ちゃんもわかるかも知れないけど、年とると人間丸くなって、自分の故郷を誰かに好きになってもらいたいっていう訳のわからない欲望に芽生えるさ。それに歌うの好きだから私のストレス発散にもなってるしね。昔はこの島から出たくて出たくてしょうがなかったのに、その島の良さを今は皆に知ってもらいたいだなんて、本当に人間なんていい加減で都合がいい生き物さーねー。笑っちゃうけど。だから週に一度くらいはここに来る訳よ」
「そうねー。全然知らなかったさー」
月子は同窓会的久々の再会を喜ぶ。不思議。どうしてこのタイミングで同級生に会えてしまうんだろう。昔が懐かしすぎてどうしようもなくなる。あの頃の思い出が自然と脳裏に浮かんでくる。思い過ごしだとは思うけれど、なんだか島が帰ってこい、帰ってこいって言っている気がする。月子は同級生に会えた喜びでニコニコしながら島酒をなめる。すこしほろ酔い気分。
「ねー、敏子ちゃん。歌って」
「何がいいね?」
「うーーーんと。どうしようかな。あっ、BEGIN、BEGINがいい!」
「BEGINのなんね?」
「えーと、涙そうそうでしょ。あと、島人ぬ宝。オジー自慢のオリオンビールも。うーん、敏子ちゃんが歌えるBEGINの曲全部聞きたい」
「はっ?月子ちゃん、あんた昔と変わらず今も欲張りねー」
それを聞いて月子は思わず笑う。そう、自分は欲張りだった。島を出てやりたいことが一杯あった。でも、島を出たそんな私が、島に帰ってきて気づく大切なことの多さに今ビックリしている。敏子が三線をならしはじめて、月子と鶴子おばあが手拍子する。観光客が3名、一緒に続く。観光客の人達は久高島のゆるやかな生活に触れて顔色がいい。どんなに硬い表情の人も久高島に来れば柔らかくなる。島を包むこの空気・・・国宝級、天然記念物、なんて言えばいいのだろうか・・・魂がきれいなままでいられる空気?とでも言えばいいだろうか。BEGINを歌う敏子の声が心地いい。ああ、島に帰ってきて良かったと月子は思う。
真季と龍太の顔に向かい風が当たる。二人とも前髪は常にオールバック状態。風が開いた目の玉に直接当たるので、目も完全には開いてられない。美保関の灯台を回った後は西を目指しながら身を屈めるようにして真季も龍太もサバニを漕ぐ。対馬海流という大きな流れの脇には、その流れに逆流する潮が生まれる。対馬海流について勉強してる時にそんなことを読んだと龍太は思い出す。一つの大きな流れは同時に正反対の流れを微かだけれどその隣につくる。その逆流する離岸流を龍太はなんとか探して捕まえようとするけれど、沖合いを走る対馬海流の大きな流れに連れられて海の大半の潮が北上していく。逆流する潮を見つけられずに仕方なく陸のそばの海を人力のみで進み、山で風を極力避けながら、力の限り龍太はサバニを漕ぐ。真季も必死になってサバニを漕ぐけれど前に進んでいる感覚がない。左に見える山陰地方の山々の形がどれだけ漕いでも変わらない。むしろ後退しているのかとすら思う。それでも諦めることはできない。とにかく日が暮れるまでは漕いで漕いで漕ぎまくるしかない。そう覚悟を決めながら無言でサバニを漕ぎ続ける龍太の気迫が真季に伝わる。海に出ると弟に頼るしかないけれど、同じ気持ちで日が暮れるまではなんとか漕ぎ続けようと真季は思う。手を休めて、ジョー達が積んでくれた食べ物に手をつけることすらできない。手を止めてしまえば、北西から吹き始めた向かい風と北上する海流の流れにサバニを一気に持っていかれる。龍太はサバニを漕ぎ、潮目を見ながら、追い風が吹いてくれないかと祈る。10分でも20分でもいい。その瞬間を逃さずに帆をあげて少しでも距離を稼ぎたい。でも、風は流れを変えてくれない。顔に向かい風が当たり続ける。鬱陶しくなってまとわりつく風を振り払うように顔を左右に振る。そしてまた前を向いた時にも風はそこにある。海風の塩で髪の毛はかぴかぴに固まる。追い風は天使、向かい風は悪魔。自分が行きたい方向によって、風はこんなにも表情を変えるのかと思う。それでも真季と龍太は向かってくる試練に立ち向かい続けて、日が暮れるまでに出雲地方を越えて島根県中部まで辿りつき、海の上を月明かりが指す中、サバニを砂浜にあげた。真季と龍太は疲れ果てながら、ジョー家族が積んでくれた水を飲み、うなぎの蒲焼き缶詰をあけて、甘辛い身に無心で食らいつく。もう一つ缶詰を食べたいけれど、これからの長い航海を考えると先の未来に少しでも食料は残しておきたい。最低限の食事で我慢するけれど、それでも失った体力は少し回復する。そして空っぽだった胃が微かに重たくなるとすぐに眠気に襲われて、真季は寝袋の中に体を入れた。龍太はもう一杯水を飲み、同じように寝袋の中に体を入れてサバニの中で眠りにつく。
眠り込んだ真季と龍太。すぐそばに波の音、風の音がする。でも、龍太にはその音は聞こえていない。それほど深い眠りに落ちている。だけどいつの間にか聞こえてこなかった波と風の音がだんだんと耳に届き始める。眠りの深いところにどっぷり浸かっていた意識が少しずつ浮き上がってくる。浅くなる眠り。いつまでも寝ていられないと頭の芯に残る脅迫観念。夜はあっという間にあけて日の出の太陽の日差しがうっすら瞼の裏まで届く。可能な限り早く久高島まで戻らなければと龍太は目を覚ます。だけど全身が筋肉痛で全く動かない。寝袋から体を這い出そうにも、指一本動かせない。芋虫みたいに微かに体を右左に揺するだけで精一杯。そのもぞもぞした音を聞いて、真季は目を覚ました。真季はぐっすり眠れたと実感しながら寝起きの体に若干の体力が戻ってきているのを感じる。ただ、肩と背中、腰、腿の裏が石のように固まっていてぎこちなくしか動かない。真季は痛ててててと体の節々の痛みに声をあげながら寝袋から這い出して、龍太に「どうしたね?」と声をかける。
「か、か、か、体が全く動かないさー・・・。こんなこと初めてさぁ・・・」
そう言って寝袋の中でもがく龍太の顔色を見て納得する真季。筋肉が固まり、血流が悪くなっているのは間違いない。表情から赤みがひいている。真季の7倍以上の力でずっとサバニを漕ぎ続けた龍太の顔は青みがかった白さに変色している。昨日の龍太の頑張りを思い返すと全身筋肉痛で痙攣をおこしてもおかしくない。
「なんで動かない訳?めっちゃ焦るさー。早く久高に帰らなきゃいけないのに・・・」
そう呟いた龍太。血の気の引いた弟の表情が焦るあまりに泣きそうな顔をしている。この弟なりにいろいろと考えて緊張もしてプレッシャーも感じて、それでもなんとか涙をこらえて持ちこたえている。そして早く久高島に帰らないと富おばあが死んでしまうのではないかと気が気でない弟の気持ちが真季には手に取るようにわかる。
真季は寝袋の上から龍太の体を触る。大きな岩のようにカチコチ。真季は鼻の奥から大きなため息を漏らしながら自分の両腕の筋肉をさする。パンパンに張った筋肉に力を入れると痛みすら感じるけれど、弟に復活してもらわない限り、いつまでたっても久高島に帰れない。真季は寝袋を引っ張って脱がせて龍太をその場にうつ伏せに寝かせたまま頭から足の先までマッサージをしてやる。手だけだと力が入りづらい時は、背中や腰に乗って、足の裏で踏んでほぐす。弟の固まった筋肉が一つ一つ柔らかくなるのを確認しながら、日の出から1時間半ほど揉み続けた。龍太は指先から少しずつ体全体を動かせるようになる。元々水泳を続けてきた龍太の体は柔らかい。ほぐせばすぐに元の柔らかい筋肉に戻っていく。血流が流れ始めるとともに全身の青みが消えていき龍太は復活する。表情に赤みがさし、精気が戻ってくる。
「せんきゅー、まーきー。まーきーも体痛いでしょ、マッサージしてあげるさ」
「いいよ、私は。遠慮しておく。マッサージしてもらっても、今日はサバニを漕ぐ力仕事はできそうにない訳。あんたの体ほぐすので今日の力全部使ったから、サバニは龍太一人で漕いで」
「おお、いいさー。まかしときなさい。まーきーは今日はゆったり体を休めながらサバニの旅を楽しんで」
真季は龍太の言葉を鼻で笑う。さっきまで体が動かなくて死にそうな青い顔してたのに相変わらず調子がいい。龍太は朝ご飯の缶詰を開ける。サバの味噌煮。真季に差し出し、真季は指で味噌たっぷりのサバを掴んで、口まで運ぼうとするけれど、その動きが既に痛い。
「いたたたた・・・」
そう言いながら、サバを食べると、「もー、まーきーも大袈裟なんだからー」と龍太に笑われる。どの顔してさっきまで指すら動かせなかった男がその台詞を吐くのか、理解不能だけれど、いつものように龍太を回し蹴りするだけの力が入らない。
朝ご飯を食べ終えて、龍太は砂浜の上、サバニを海に押していく。海に浮かばせて、そして真季をサバニに乗せる。自分も飛び乗り、風を確認する。今日は昨日と比べて風が少し弱い。そよ風程度。一人でもなんとか漕げる自信が龍太の体に湧き上がる。沖までサバニを出してみる。エークで海を掻きながら、雲の流れを見て、風の流れを皮膚に感じて「もしかしてラッキー」と龍太は声をあげる。微風だけど追い風。
「ミラクル かもーん」と龍太は帆をあげる。微かだけれどサバニが前に動く。そこに龍太は勢いよくエークを海の中に入れて水を掻く。サバニはびゅーんと前に進んだ。
「このチャンスを逃しはしなーいさー」と龍太はどんどんどんどんサバニを漕いでいく。わかっちゃいるけど、弟の調子の良さに呆れる。ま、何はともあれサバニが前に進み、少しでも久高島に近づくのなら、それにこしたことはないと真季は自分の肩の筋肉を自分の手でマッサージしながら思う。少しかもしれないけれど帆が風を掴んで膨らんでいる光景が頼もしい。




