【花指し遊び】⑨
ミルク屋のジョーが運転する軽自動車の助手席から見る街の灯り。ずっと海にいて、上陸してからすぐに山に入って、夜はたき火をしない限りいつも真っ暗だった。あちこちに電気が灯っていて、不思議なようでもあり、眩しい気もするけど、なんだかほっとすると真季は思う。ジョーは二人を連れて家に帰った。玄関をくぐるとキレイなお婆さんが奥に見える。太り気味のジョーと違ってすらっとした細身の体型でえんじ色の和服を着ている。白い肌が濃い色の着物にはえて透き通るように見える。
「あら、昨日お父さんが話していた沖縄から来た姉弟さんね。まあ、かわいらしい。さ、どうぞお上がりなさい。八雲山に入って疲れたでしょ。ちょうど私も早番の旅館の夕食の料理出しの手伝い終わって今帰ってきたところなのよ。どうぞ、どうぞ」
優しく声をかけてもらい、真季も龍太も頭を下げるが、本当に上がっていいものか考える。真季は皮のはげた兎をかかえ、龍太は蛇の入った篭を持っている。非常識な訪問。申し訳ない。もじもじする二人の気持ちの原因がわかったのか、お婆さんは笑う。
「なに、二人とももじもじしちゃって。あら、こう見えても私、全然蛇怖くないの。蛇が近寄ってくると白い手ぬぐいを鞭みたいにして叩いて闘っちゃうんだから。心配しなくていいわよ。その篭を持ってお上がりなさい。お姉ちゃん、その皮のはげた兎。沖縄には持って帰らないでしょ?探してたのは蛇だけでしょ?ちょうど、昨日ね、ジョーお爺さんと話していて、二人だとなんだか寂しいからペットでも飼おうかしらって私から提案していたところなのよ。そしたらちょうど兎を抱えたお嬢さんが玄関に現れるなんて、これはご縁ね。その兎はここの家に置いていきなさい。ちゃんと毛が生えて寿命を全うするまで私が面倒みてあげるから」
なんだかとても気が強そうで、でもなんだかとても優しそうなお婆さん。昨日ジョーに家にあげてもらった時はやきもち焼きで怖いと聞いていたから想像とのギャップに驚く。お婆さんの名前はせりさんと言うそう。真季はじーっと女としてせりさんを見つめる。
「さ、あがって、あがって。今、寝間着を用意してあげるから、お風呂に入りなさい。昨日も入ったと思うけど玉造温泉の旅館と同じ湯質の上等なお風呂よ」
真季と龍太は促されるままに恐縮しながらお家にお邪魔する。早速頂いたお風呂の中で真季はぼーっとせりのことを考える。沖縄県人はあまり和服を着た美人を見る機会が少ないので初対面が妙に印象的に脳裏に残る。ぱっと見て女として芯がしっかりしていそうなせりさんをカッコいいと思う。せりさんみたいな女性を本土でよく言われる大和撫子と言うのだろうか?でもここは大和じゃなくて出雲だから出雲撫子?なんて考えたりもする。
真季はせりのことを数分考えた後、今ここで玉造温泉のお湯に浸かっている自分を不思議に思った。糸満の家を出て、久高島に渡った弟を追いかけて捕まえて、勢いにまかせてサバニで海に出た時、こんな未来に辿り着くなんて1ミクロンたりともあの時には想像できなかった。でもこうなるのはやはり決められた運命だったのかもしれないと少しのぼせながら考える。何かに導かれ続けながら、非常識な運命に翻弄されながらも、目的の一つは成し遂げられた。後は、久高島に戻って富おばあを元気にする。次の目標に向かうまでの束の間の良いお湯。全身の筋肉痛はすこし和らぎ、体の芯に残っていた疲れも若干取れた気がする。お風呂に入ると心も体もさっぱりすると真季は改めて実感する。真季がお風呂から上がった後、龍太がお風呂を頂く。その間にせりが台所で料理をし、ジョーが居間の食卓をセットする。どこから見ても良い老夫婦。真季は台所に行き、「せりさん、何かお手伝いさせてください」と声を掛け、「あら、嬉しい。じゃ、このしじみ汁、いい出汁が出るようにゆっくりお味噌としじみをかき混ぜてくれる」とお願いする。「はい、わかりました!」と真季が答えた時に玄関の方でチャイムが鳴る。せりが「はーい」と声を張って、玄関の扉をあけるとそこにはバイクのヘルメットをかぶり白い仕事着を来た板前さん風の若い男性が立っていた。せりは「あら、早かったわね、お寿司屋さん」と品物を受け取り代金を払う。そして、ジョーがせりからお寿司を受け取り食卓に並べる。その頃、龍太がお風呂から出てきて、「お風呂ありがとうございました」とジョーとせりに頭を下げた。食卓のセットを終えたジョーは龍太を手招きして、まあここに座れと促す。その時、また玄関の扉が開く。「ただいまー」という大きな声。真季はちょうどしじみ汁の火をとめて台所を出たところだった。玄関にジョーと同じくらいぽっちゃりした、でもところどころに硬そうな筋肉がついている四十代半ば頃の男性が、大きな鯛を抱えて立っている。真季の目には七福神の恵比寿様が玄関に立っている不思議な光景に見える。
「あら、シロー。あなたも思ったよりこっちに来るのが早かったわね」
「それはそうよ。沖縄からサバニで大海原を越えて来た肝っ玉のでかい姉弟に会えるとなれば飛んで来るよ。今日、ちょうど大きくていい鯛が釣れたから持って来た。台所で塩焼きにするから」
そう言うなり、台所に足を進ませる。その途中に真季と龍太の顔をみて、ニコニコしながら、「おおおお」と言って二人の肩を叩いて、鯛を持って台所に入った。大きな包丁を手にして鯛の内蔵を取り、鱗を削ぎ落とし、塩焼きの準備に入る。真季はその豪快な料理を横でじっと見つめる。食卓に座ったせりが龍太に言う。
「あれは私達の長男。美保関というところで漁師をしているのよ。ここから車で1時間もかからないところ。孫達と美保関のすぐそばの境港っていう町に住んでるんだけど、今日は平日だしみんな学校の部活で忙しいみたいでシローだけ呼んだの。鯛釣りが得意で漁師仲間からはタイ釣りのシローって呼ばれてるわ」
せりに続いて、ジョーが語る。
「そうそう。あなた達のサバニも稲佐の浜に置いておくと誰かに持って行かれると困るから、シローに頼んで、美保関の漁港まで運んでもらってそこで預かっているから安心しなさい。美保関には我々の家系が昔から使っている小さな木造の家なんだけど仕事場があってね、私もたまに気分転換に美保関まで車で行って夕暮れ時に港で海を見ながらお酒を飲んで、その昔使ってた仕事場で朝までごろ寝なんてことを今でもたまにするんだよ。漁師の頃は夜明け前に海に出てたからね。夕方漁から帰ってきてお酒飲んではごろ寝してまた陽が出る前に海に出るなんてことをよくしていてね。その頃が懐かしくなることが時々あってね。ここの玉造温泉の家はせりお婆さんの家系が代々住んでたところなんだ。今はシローが美保関の仕事場を引き継いで漁師をしてるんだけど。それにしても、シローもはじめてサバニに乗ったと言っていたが、あのサバニは物が違うって。船乗りは乗ったらその船がいつか海に沈むか沈まないか感覚的に予言できるけど、あのサバニは絶対に沈まないと言っていたよ。それに波を切って、海を開いて行くその美しさは惚れ惚れするって。遠い昔から沖縄の人達は世界の海を行き来していて、この辺りにもよく来たんだけれど、はじめてサバニに乗ってみて納得したって。サバニは海に生きる人間達の知恵と経験と技術の結晶だね」
龍太は自分達久高島の鮫漁師一族のサバニをそんな風に褒めてもらって誇らしかった。そのタイ釣りのシローは大きな鯛に塩をまぶして鉄の串を何本か体にさすとガスコンロの上でそのまま火をあぶり始める。さすが漁師の調理方法。その豪快さに真季は惚れ惚れする。沖縄の温かい海ではこんなに引き締まった白身の鯛は捕れないから真季には珍しい。火加減を見ながら、鯛の鱗の軽い焦げ目と身のフワフワ感を確認して、納得しながら大皿に盛る。
「さ、お姉ちゃん。今日はおめでたい日なんだろう。お祝いしよう」
シローは尾頭付きの鯛の塩焼きがのった大皿を真季に渡す。受け取った真季は一瞬その重さにビックリしたけれど、シローのニコニコした顔を見て嬉しくなる。おめでたいお祝い。まだ生まれてからそんなに長く生きてない人生だけれど、きっとお祝いされることはこの先もそんなに多くない筈。でも、今がそのお祝いの瞬間なのかと思うと真季は嬉しくなって鯛の大皿を抱えて畳敷きの食卓へと運んだ。シローは、冷蔵庫の中を覗いてエビスの瓶ビールを取り出す。「やっぱりビールはこの鯛を手にしたエビス様の味じゃないといけねーや」とシローが食卓につき、セリが真季と龍太に食べるように進める。
「さ、食べて、食べて。あまりに急なことだったから料理する時間もなくて近所の美味しいお寿司屋さんから出前になってしまったけど、ちょうどシローが鯛釣って来てくれてよかったわ。なんとかおめでたい形になったわ」
シローは両親のグラスにビールを注ぎ、自分も手酌で入れようとするので真季が慌ててビール瓶を持ってお酌する。
「いいねー、嬉しいね。こんなキレイなお嬢ちゃんにエビスビールを入れてもらえるなんて」とシローは小さなグラスに注がれたビールをぐっと一気に飲み干す。そして、また真季が注いであげる。
「ああ、上手い。今日のビールはいつもの倍は上手いね。さ、お姉ちゃんももうおじさんに酌しなくていいから、自分が食べな。お寿司もしじみ汁もおめでたい鯛も間違いなく美味しいぜ」
促されながらお腹ぺこぺこの真季と龍太はご馳走を前にして食欲を抑えきれずに手を合わせて、「いただきます」と声に出してから釣ってきてもらった鯛の身に箸をいれる。ほくほくする白身。食べたらほっぺたが落ちそうな程に美味しい。その二人の笑顔を見て、ジョーもせりもシローも嬉しそうに笑う。そしてせりが思い出したように段ボールに入れた皮が剥げた兎と篭に入った蛇に目をやり、「あちらにもおめでたいお裾分けしないとね」と鯛の身をほぐし、兎と蛇にも食べさせた。せりは確かに蛇を見ても全く怖がらない。その光景を真季はじっと見ていた。せりはその視線に気づいたのか笑ってこたえる。
「なんで私が蛇が怖くないか教えてあげようか?私は蛇年の女なの。蛇はみんな私のお友達よ」と、せりが冗談ぽく話すとジョーが続く。
「そして、私が兎年生まれ。蛇に睨まれた兎とは私のことだ。あなた達が探していた蛇に飲み込まれた兎は私かもしれない」と大声で笑う。楽しい食卓。鯛を食べ、お寿司を食べ、しじみ汁を飲み、真季と龍太はジョー一家3人と色々な話をした。どうして海に出たか、久高島から出雲まで辿り着く航海、八雲山の中で蛇を見つけるまで等々一通り今回の旅であったことを話した。そしてうちとけた後は男と女に分かれて色々な話に華が咲く。ジョーとシローと龍太は海の話ばかり。なんだか寅也おじいが生きていた頃を龍太は思い出す。そしてジョーとシローは確認する。
「龍ちゃん、帰りもやっぱりサバニで沖縄目指すのか?」
「はい!もちろんです」
「いやーあんまり小言は言いたくないけれど、これからの季節沖縄方面からこっちに来るのは楽だけど、沖縄に戻るのは風が逆になる。大変だ。なんなら美保関の漁師連中で沖縄までサバニを漁船で引っ張っていってやろうか?」
「いやいや、そんなにまでしてもらったら申し訳ないです。なんとか頑張って戻ります」
「そうかい・・・。本当に大丈夫かね?」
そんなことを男達が話しているかと思えば、せりと真季は別の話題。
「せりさん、ジョーさんからやきもち焼きで怖いって聞いたんですけど、優しいですね」
「はっ、お父さん、そんなことを真季ちゃんに話した訳?」
せりはジョーを問いつめ、そしてジョーの太ももをぎゅーっとつねる。
「痛い、痛い、痛い」とジョーは叫びながらもちょっと嬉しそう。
「真季ちゃん、言っとくけど私は本気でやきもち焼いたことなんかこの人と一緒になってからただの一度もないわよ。やきもち焼いてるフリをしているだけよ。男の人は女がやきもちの一つや二つ焼いてくれないと子供みたいにすねちゃうから。この人は今でこそこの近所の牛乳配達屋さんの跡を継いで代々続く私の実家で大人しくしているけど、漁師の頃は海のそばで寝泊まりして、ずっと海で自然と闘っていたからね。ジョーお爺さんは海は大好きだけど、どうしても人間だから寂しい気持ちになる訳。こっちはやきもち焼いたフリしてあげて、それを男は海の上で思い出して寂しさを紛らわせてるんだから。真季ちゃんはわかると思うけど、男の目の前にいる女はみんな女優よ」
そう言ってほろほろと笑うせり。頭をかくジョー。ビールのおかわりを冷蔵庫に取りに行くシロー。骨だけをのこして鯛の身も目玉も頬肉も全部食べきろうとする龍太。真季は笑顔しかない温かい食卓を必死に覚えておこうと思う。忘れたくない、この瞬間を。そして夜は更け、眠りに落ちる時間。ジョーが真季と龍太に確認する。
「真季ちゃん、龍ちゃん。本当に明日の朝一番で海に出るんだね?」
その言葉に二人はうなずく。それを見てジョーはお酒で赤くなった顔で「わかった。明日朝一番で美保関に行こう」と返した。せりが後ろから「となりの部屋に布団を敷いてあるから、しっかり眠りなさい。海に出たらまた自然との闘いよ」と声をかける。
「ジョーさん、せりさん、本当に何から何まで本当にありがとうございます」
そう二人は頭を下げると「こうなる運命、こういうご縁だったということさ。気にしないでいい。おやすみなさい」とジョーは笑った。シローは既に飲み過ぎて居間で座布団を枕に寝ていた。真季と龍太はジョーとせりに「おやすみなさい」と伝えて布団の中に入った。久高島を出てからはじめて布団の中に入った二人。布団の温かさ、柔らかさに体が溶けてしまいそうになりながら眠りに落ちた。




