【洗い髪たれ遊び】⑭
「大型で非常に強い台風19号の最新情報です。気象庁の観測によりますと台風19号は速度を早め、時速25キロで宮古島南の海上を北東へ進んでいます。中心の気圧は920ヘクトパスカル、中心付近の最大瞬間風速は50メートル。今夜未明には沖縄本島へ上陸の予報です」
ヤギは糸満漁港の漁協ビル2階にあるテレビで台風の進路を確認した。強い風を受けてミシミシと音を立てる窓の外の漁港の風景を見る。大きなうねりが漁港に入ってきては船を揺する。それが延々と続く。その光景を見ながら海が静かになるのはまだ大分先のことになるだろう・・・と思う。ここはいつ台風が来ても大丈夫なように万全の準備で船を繋いでいる。それはいい。ただ、なぜ速度が上がる。台風の上陸が当初の予報よりも1日速いじゃないか・・・。ヤギは小さい頃から台風は龍だと思っていた。その龍が何かを追いかけている。真季と龍太でないことを祈る。まーきー、龍太・・・とにかくどこかの陸に上がって、台風をやり過ごしてくれ・・・とヤギは左目の端に薄ら涙を浮かべる。
「今晩には久高も台風直撃さー」と鶴子おばあはニュースを見終わった後、富おばあの看護をしていた月子に伝えた。大きな波が久高島東海岸の岩岩に当たる音が集落の中心まで聞こえる。雨はまだ本降りではないけれど、屋根に当たるその雨音を強めていく。鶴子おばあは慣れた手つきで家に台風対策を施す。窓ガラスが割れないように木板をはめる。沖縄は台風の通り道。生まれてから毎年やってくる台風にいちいち驚いていられない。でも、今回の台風の胸騒ぎは一度も経験したことがない。気持ちが落ち着かない。孫の安否を思ってだろうか?でもそれだけではないような気もする。わからない・・・。鶴子おばあは無言のまま胸に手を当てる。
太から月子の携帯電話に連絡があり、台風前の久高島の様子を聞かれる。
「大丈夫よ、こっちは。いつも通り。小さい頃島にいた時と変わらないさー。皆、あの頃と同じ台風対策を集落にしていくさーね。むしろ懐かしいさー」
「それならいいんだけれど」
太は月子に言った。お互い電話を通して心配しているのは二人の子供のこと。声の調子でそのことはわかる。あえて、言葉にはしない。言葉にしてしまった瞬間、張りつめた心の緊張感が切れて、意識を失ってしまいそう。微かに震える声。それがお互いの耳に響く。「安全第一でね」と太が月子に伝え、月子も「わかってる」と返した。
陽が沈み、次第に風の音が強くなっていく。鶴子おばあと二人で夕食、でも何一つ月子の喉には通らなかった。
「ごめんなさい」とご飯を作ってくれた鶴子おばあに頭を下げて謝る。
「仕方のないことさー」と鶴子おばあは首を横に振り、今日は早く寝ようと月子を慰める。これ以上風の音が強くなるとうるさくてなかなか寝付けない。深夜に風の音で目を覚ましてしまうかもしれないが、それまで少しでも眠ることができれば心身ともに少しは楽。月子は鶴子おばあに言われるがままに布団を敷いて、横になった。鶴子おばあも月子もずっと気が張っている。家が風に吹かれて、軋み始めるけれど蓄積した疲労が二人を静かに眠りへと落とす。時間とともに真っ暗な眠りの世界で鼓膜に届く風の音が強くなる。雨音が強くなる。遠くで木が折れる音がする。風が巻き上がり、空が吠えているように聞こえる。海が荒れて、大きな波の音が聞こえる。そして久高島に龍が近づいてくるのを感じる。深い闇の中で、月子は近づいてくる龍に見つめられている。体をくねらせながら龍は空から降りてきて月子の鼻の先に顔を近づける。巨大な龍の顔と月子の顔の間は一ミリの隙間しかない。龍の鼻息を顔に受け、荒い息遣いを感じる。龍はずっと月子を見ている。何を考えているのかはわからない。ただ鼻息が月子の顔にかかり続ける。その圧迫感に耐えきれなくなり、月子は思わず目を覚ます。見開いた目の網膜には龍の姿は映っていない。ただ体は興奮している。瞬きをする度、目を閉じる度、そこに龍がいる気がする。目をつぶるのが怖くて思わず目を見開いてしまう。月子は身震いをする。体に一瞬寒気が走った後、頭に血が上っていくのを感じ、自分の心臓が胸板を激しく叩き、その音が鼓膜に伝わって脳に響く。稲光が辺りに走っていた。真っ暗な闇に閃光が弾ける。風は家を吹き飛ばしかねない勢いで轟音を響かせる。何かが聞こえる。荒れ狂う風の音、雨の音、雷の音に混じってかすかに何かが聞こえる。月子は隣で寝ている鶴子おばあを見る。寝息が口から漏れているだけ。でも、まだ聞こえる。何だろう。暗闇の中、ふーっと吸い込まれるようにして反対側の布団で眠る富おばあを見た。稲光が連続して、一瞬遅れて空を切り裂く音が鳴り続ける中、富おばあの唇が微かに震えティルル(神歌)がこぼれる。大自然の猛威の真っ只中で、そのかすれる歌声が心に響いてくる。大型で勢力の凄まじい台風は久高島を飲み込もうとする。森が動き、海が荒れ、空は吠えていた。月子は富おばあのティルルをじーっと聞いていた。そして今、この台風の中で自分の身を捧げて神々や龍に祈れば、二人の子供の命は助かるような気がした。自分の命はどうなってもいい。神様や龍にこの命を捧げるかわりに大切な子供達の命は奪わないで欲しい・・・。月子は思わず、寝間着のまま裸足で家を飛び出した。玄関を一歩出た瞬間、暴風で体が飛ばされそうになる。立っていられない。それでも這うようにして月子は前に進む。まるで何かに取り憑かれたかのように・・・。大自然の神様は私が子供を想う気持ちを試しているのだと月子は思った。私の真季と龍太を想う気持ちに迷いはないと月子は何度も呟きながらただ、ただ二人の子供の無事だけを祈り、前に進み続ける。玄関から大きな音が聞こえて、鶴子おばあは慌てて目を覚ました。隣を見ると月子がいない。玄関の戸が開けっ放しで雨と風が吹き込んで来る。鶴子おばあは急いで起き上がり、玄関まで行って外を見つめると泥にめりこんだ裸足の足跡が・・・。何が起きているのかとっさに悟った鶴子おばあは玄関にかけてあった雨合羽を着込んで長靴を履いて吹き荒れる暴風雨の中、体を小さく丸めて飛び出した。低姿勢で風をよけながらその足跡を追いかける。久高島の北を目指す泥の中の裸足の跡。月子はカベールの岬を目指していると鶴子おばあは察する。海の神様である白い馬が現れる場所、カベール。そこで祈りを捧げ、母として子供を守るために自分の生命を捧げようとしている・・・。カベールの岬から身を投げるつもりじゃないだろうか・・・。鶴子おばあは直感的にそう感じ力の限り急ぐ。しかし強風に何度も倒される。押し戻される。稲光が閃光し続け、雷鳴が轟き続ける。それでも鶴子おばあは泥まみれになり、這いつくばりながらただ前だけを向いて進んだ。どれだけ時間がかかったかはわからない。無我夢中でカベールまで辿り着き、岬の手前で力尽きて倒れている月子を見つけた。鶴子おばあは意識を失った月子を抱き上げた。月子の耳元で何度も月子の名前を呼ぶ。その声を風が掻き消す。心臓に耳をあてると鼓動を感じることができた。生きていることに鶴子おばあは安心する。神様に祈りは通じたのだろう。もう十分だ、命を粗末にするな・・・と岬の手前で、神様は月子の意識を奪ったに違いない。鶴子おばあの家のお隣さんが異常を察して、島の男達に連絡をし、男達三人が二人を追ってワゴン車でカベールまでやってきた。泥と雨と岬にぶつかる高波の海水にまみれた鶴子おばあと月子を見つけて、慌てて車を降り、二人を車の中に運び入れた。何度も何度もカベールの岬に大波がぶつかっては、海水があたりに飛び散り続ける。車のフロントガラスには雨水と海水の両方が当たり視界が遮られる。ワイパーを最高速度で動かし続けてなんとか視界を確保しながら集落に戻る。強風のせいで2度程車が横転しかかった。久高の男達は改めて自然の恐ろしさを思い知る。鶴子おばあの家のそばまで車が戻って来た時、ワイパーは2本とも折れていた。
鶴子おばあは家に戻り、急いで意識を失った月子の服を脱がせて体を拭いて、改めて新しい寝間着に着替えさせて布団の中に寝かせた。これで風邪をひく事はないだろうと一安心し、自分はびしょびしょになった寝間着を着たままだったことに気づく。とにかく息子の嫁の命を守ることに無我夢中で自分のことを忘れていた。体のところどころにべっとりついている泥を玄関先で落とそうと玄関に足を進ませて戸を開けた時、そこにシズおばあが息子に伴われて立っていた。人が立っているとは思わず、「あいっっ」と声を出してビックリした鶴子おばあ。その鶴子おばあにシズおばあが神妙な声で言う。
「鶴子さん、台風の中で声が聞こえたさー」
台風の強い風が家の中に吹き込んでくる。そう話した後、シズおばあは2度咳をして、息子が背中を撫でた。鶴子おばあは玄関先に立っているシズおばあに耳を傾けて次の言葉を待つ。激しい稲光が辺りをパッと照らし、大きな音を立ててどこか近くに雷が落ちた。咳がおさまったシズおばあは続ける。
「歌がずっと聞こえた。男の人の声。誰だかはわからない。力強い声。台風の海、風、雷、雨の音よりもはっきりと聞こえたさ」
鶴子おばあはシズおばあの言葉に息を飲む。シズおばあの霊力の高さは富おばあと同じと言われていた。鶴子おばあが覚えている限りシズおばあが語ったことに間違いがあったことはなかった。シズおばあがその歌を口にする。台風の真下、小さな声だけれど心に直接伝わってくるのだろうか、澄んだ音ではっきりと聞こえる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣よ」
聞いた事のない歌。ティルル(神歌)ではない。でも、なぜだろう。鶴子おばあはその歌を聴いて、不思議と心が落ち着いた。ずっと心に抱えていた胸騒ぎが空気に溶けるようにして消えたような気がする。風は相変わらず強いけれど、台風の目の中に入ったような感覚。一瞬、静けさがあたりを包みこむ。台風の真っ只中で恐怖心に縮んでいた心がなぜかあたたかくなる。鶴子おばあはシズおばあが口ずさんだ歌を頭の中で復唱する。歌の響きに自然の猛威すら受け入れてしまう力強さとおおらかさを感じる。シズおばあの息子が雷の音が鳴り響くなか、雨音に言葉をかき消されないように大声で鶴子おばあに話かける。
「出雲といえば島根県さー。ウミンチュはサバニに乗って漁をしながら、昔は出雲まで行っていたさ。もしかしたらまーきーと龍太は、その出雲を目指しているのかもしれない・・・」
鶴子おばあが玄関を開けた時から強風が家の中に吹き込んできて、月子はその音で目を覚ましていた。布団の中で意識を取り戻した月子はシズおばあの話も歌も横たわりながら聞いていた。月子は微かな力を振り絞って立ち上がり、玄関まで歩いてきて、ふらふらしながら「出雲・・・」と呟いて、外に出た。空を見上げて、世界を覆い尽くす圧倒的な量の雲を見上げる。雲に支配される現実の下、その存在感の大きさの前で力なく座り込もうとした月子をシズおばあの息子が抱きかかえた。鶴子おばあは月子が意識を失っていることを確認し、シズおばあの息子の力を借りてもう一度布団の中に寝かせた。ただカベールから戻ってきた時とは違う。シズおばあの歌を聴いたからか、少しだけ月子の表情に柔らかさが戻っている。不思議な歌・・・。八雲・・・出雲・・・。雲の歌??妻籠みに八重垣??なんのことやら。鶴子おばあは月子の体を撫でながら何度もその歌を口ずさむ。そして、その歌の余韻に浸って安心している自分がいる。なんだろうこの安心感・・・。鶴子おばあは不思議な感覚に包まれながらなんとなくこの大きくて激しい台風は明日の朝、日が昇るまでには久高島海域を抜けているだろうと思った。
龍太は夜通しサバニを漕ぎ続けた。真季も頑張ってくれたが細い筋肉ではとても対馬海流を漕ぎ続けることはできなかった。真季の両腕は感覚がなくなりもう動かない。真季は両目に涙を溜めながらその自分の非力さを情けないと思った。うねりが大きくなり、サバニの後方から空につきそうな程高く山のように盛り上がった海面が崩れ落ち、25メートルプールをひっくり返したような海水があたりにふりかかる。龍太は落ち込む真季に向かって「気にしなくていいさー。この荒れまくってる海で船酔いを我慢しているだけ立派さー」と励ましながら少しでも前へとサバニを漕ぐ。龍太の言う通り真季は体中の平衡感覚を失って、体中の体液を吐きそうになる。口だけではなく、涙、汗、鼻水、そして尿や排泄物になって体中から吹き出てしまうギリギリのところ。体の内側から爆発しそうな圧力を感じながら、自分の体が弾け飛ぶのを拳を握りしめて我慢する。真季はこの大荒れの海に体を投げ出されないように両足を網で木板に縛る。波に揺られて縛った足に網が食い込んで肉がちぎれそうになる。目をつぶりながら痛みに耐える。
「まーきー、とにかく身を屈めて。サバニしがみついていて」と龍太は声を張りあげる。真季は必死にサバニにしがみつく。龍太は、サバニの動きに身を委ねて、命綱はつけない。横波が当たって、サバニがひっくりかえれば、サバニを起こさなければならない。糸満ハーレーで漁師達が披露したクンヌカセー。転覆したサバニをいかに早く元に戻せるか。波の動きに全神経を集中させる。姉の体も含めて積んだ荷物は全部サバニに縛りつけている。そして、大きな波がサバニの右舷から当たり、サバニがひっくり返った。龍太はひっくり返る瞬間にエークを持ったままサバニの下に潜り込み、すぐにその波の力を使ってサバニを一回転させた。真季は十数秒間海の中で逆さまになり一回転した。息苦しくて死を覚悟したが、龍太がサバニを起こすと同時に生きていることに気づく。海水を思いっきり飲み込み、むせながら吐き出す。龍太は一瞬だけ真季の背中をさする。龍太は酔っぱらった寅也おじいに聞いたことがある。海が荒れた時はあえてサバニをひっくり返して、海面とサバニの舟内の間にできた空間にしがみつき海が落ち着くのを待つと。そうしようと龍太は一瞬思ったけれど、これから海はもっと荒れる。少しでも五島列島に近づけば命は助かるかもしれない。サバニをひっくり返して天気が好転するのを待っている場合ではない。龍太には一つの確信があった。寅也おじいが何度も繰り返し口にしていた言葉。
「上等なサバニは絶対に海に沈まない」
どんな波が来ようが、どんな風が吹こうが、浸水しない上等なサバニは沈まない。転覆しようがひっくり返せば海に浮く。絶対的浮力がある。だからサバニから振り落とされなければ絶対に生き残れる。サバニがひっくり返れば、何度でも元に戻す。その気持ちさえあれば死なない。上等なサバニは海人の命そのもの。そして寅也おじいはこうも言っていた。
「おじい達が受け継いできたサバニは、空に届きそうな、宇宙まで届きそうな、どんなに高い山のような波が正面から襲いかかってきても、波を切って海に道を開くさー。サバニの先端に触れた波が自分の目の前で自然に割れていく訳さ。それ程、おじい達が使っていたサバニは鋭いさ。だから、海が荒れても、戸惑っていては駄目。前に前に進めばいつか海は静かになる。振り返っては駄目さ。潮を開く、波を開く、海を開く。それが大事さー」
そろそろ夜が明ける。薄らと日の光が雲を通して届く。黒い世界から灰色の世界へ。雨も風も波も更に強くなる。龍太はサバニを漕ぎながら一瞬南の空を振り返った。空を隙間無く雲が覆い、渦を巻いた雲が近づいて来る。龍太は前を向いた。泡盛を飲んで泥酔した寅也おじいが話していた言葉を信じる。前に進む限り、久高の鮫一族が受け継いできたサバニは沈まない。龍太は、大荒れの海のど真ん中で叫ぶ。
「寅也おじいーっ。このサバニはちゃんと龍太が受け継ぐからーさー」
真っ白い波しぶきをかぶり続けながら龍太はニライカナイの方角を見て笑う。沈まない舟、久高鮫一族のサバニ。そのサバニを俺が受け継ぐ。龍太はもう一度叫ぶ。
「海っっっ、荒れるなら荒れればいいさー。俺は負けない、絶対に。絶対に」
龍太は海を睨んだ。あんなに大好きだった海が敵に見える。闘わなきゃ・・・・。龍太の雄叫びの後で海が一瞬だけ静まったように感じたが、その後、今まで以上に荒れ狂いはじめた・・・龍太のお望み通りに言わんとばかりに。海が爆発を繰り返し、サバニは何度も転覆を繰り返す。龍太は海と取っ組み合いながら何度も海に潜りひっくり返ったサバニを元に戻す。サバニに体を縛りつけた真季はその度に全身が海の中で逆さまになり、海水を飲み続け、吐き続ける。サバニを元に戻す度に、「まーきー、ごめんね」と龍太は大声で真季に謝る。真季は親指と人指し指で丸を作り大丈夫のサインを龍太に送る。龍太はひっくり返したサバニに何度もよじ上っては、手にしたエークを海に突き刺しサバニの進路を取る。サバニの下には対馬海流が走っている。台風も南から北上するから追い風には変わりない。向かい風よりはマシ。ただ雲が渦を巻いているから風がめちゃくちゃな方角から吹き込み続ける。それでも、ただ前に進む努力を首の皮一枚のギリギリの精神力で続けていく。龍太は五島列島を捜すけれど、視界が悪すぎて遠くが全く見えない。大雨が降り続いて前が見えないだけでなく、辺り一面分厚い灰色の雨雲に覆われていて視界の先がぼやける。先が見えない暗いグレーな世界。それでも一瞬だけ西の空から赤く細い日差しが差し込んだ。ずっと灰色の世界で海と格闘していたからわからなかったけれど西に日が沈む直前・・・。もう夕方なのか・・・と龍太は思う。夜が来る。でもその夜よりも一足早く、空が真っ暗になる。遂に台風の影に入る。その影の大きさたるや水平線の向こうの海までも覆い尽くす。海はその台風の影の下でより一層暴れ始める。海は荒れに荒れ・・・そして対馬海流の流れは台風の海の力強いうねりでスピードをあげていた。これだけ速い流れと強い風ではもう駄目だと龍太は思った。この速度でサバニがひっくり返ったら、完全に投げ出される。サバニを元通りにひっくり返すどころか、サバニの100メートル先に飛ばされる。サバニまで泳いで戻って来られないだろうと本能的に悟った。龍太は覚悟を決めてサバニの木板に自分の左足を帆をあげる縄で縛りつけた。もう人間があがいてどうなる世界じゃない。すべてを運命に委ねるしかない。そう思った瞬間、サバニの左舷側に島影が見えた。北東に進路を取っているサバニの右側に島影が見えれば五島列島。その航路左側に島は存在しない。左に島影が見えるなんてありえない。龍太は自分の目を疑う。弱り切った真季が顔を上げる。その靄がかった島影を見て呟く。
「左に見えるってことは・・・対馬?」
龍太も同じことを考えた。もしそうなら既に五島列島を越えてしまった・・・そんな馬鹿なと龍太は頭を振る。海と闘っている知らず知らずの間に対馬海流はサバニをそんな遠くまで押し流していたのか・・・。とにかくあの島にサバニを寄せたい、上陸したいと思った瞬間、海がその願望を粉々に打ち砕く。海は爆発し、荒れ狂い、今まで見た事のないような、空に届きそうな高波が見渡す限りあちこちで生まれて来る。まるで数えきれない程の龍が海で激しく水浴びをし、体をうねらせながらくねらせながら水と戯れるかのように。風波が渦を巻く。台風の真下で呆然とする龍太。もう駄目かもしれないと思った。サバニは沈まないかもしれない。でも、自分達は死ぬ・・・自分の血筋の久高の鮫漁師の男達が皆、海で死んだように。海が、龍が・・・人間の生命を欲しているのだろう、生け贄を求めているのだろうと思った時、サバニの真上を覆い尽くす険しい山脈のような大きな波が前後左右の全方向から龍太と真季をめがけて崩れ落ちてきた。まるで東西南北の全方位から八匹の龍の生け贄にされるかのように・・・。もう終わりだと龍太は思った。瞬間的にサバニの先にいる姉に向かって「まーきー」と枯れた声で叫び、俺達ここで沈没して死ぬさー、ごめん、こんな航海に連れて来てしまって・・・と伝えようと思った時、真季は一人サバニの進む先をじっと見ていた。そして真季が呟いた声が龍太に聞こえる。
「白い馬が導いてくれている・・・・」
高波がサバニを覆い潰そうとしたまさにその時、龍太は強い波しぶきを顔中に浴びながら半開きの目で真季の視線の先を見る。向かってきた天をつくような大きな波がサバニの先端に触れると二つに割れていく。霊力が強い真季だけじゃない。龍太の目にもはっきりと見える。大きな白い馬が海面を走り、荒れ狂う海をその大きな体で割って道を作り、開かれた海の上でサバニを引っ張って走ってくれている。龍太は思わず後ろを振り返った・・・。八方向から崩れ落ちてきた海水の山、波しぶきは開かれた海の道の遥か後ろに消える。前を見返すと白い馬が四本足を軽やかに駈けて波を切り裂いて海の上を走って行く。サバニを引っ張っていく。龍太は目の前の光景を見つめながら拳を硬く握る。
「海の神様だ・・・」と龍太は呟く。
「龍太、あんたあの白い馬が見えてる訳?」と真季が興奮しながら問いかける。
「見えてるさー。あれは海の神様さ」と答えながら龍太は思い出す、久高島のカベールにやって来る神様は白い馬だと言われていることを。なぜ海の神様なのに、海に住む生物じゃなくて陸の生物である馬なのかをずっと不思議に思っていた。でも、今この瞬間目の前で大きな波を開き、海を開いて前に進む白い馬の後ろ姿を見て、海の神様の意味がわかった。荒れ狂う海でも海流の上を駆け抜け海を開いていく神様・・・。久高島の漁師達はもしかしたら遠い遠い遥か昔からこの白い馬が海を走る姿を見ていたのかもしれない。そしてこの白い馬こそ海の神様だと・・・。そしてこの海の神様がカベールの岬に時折やってくることを知っていたのかもしれない。台風の中、視界が見通せる限りの海面という海面が山のように大きく盛り上がり波がぐちゃぐちゃになっている。それでもサバニが前に進む限り、海は開かれていく。そのスピードに横や後ろから来る波は追いつけない。細かいしぶきが龍太と真季にかかるだけ。白い馬は走り続ける。台風の下、気温も水温もとても冷たい筈なのに、真季と龍太はサバニの上でぬくもりを感じ始めた。温かい・・・。そして空を覆い尽くす巨大な台風すらいなすような大きな力に包み込まれて守られていると感じて、二人は力尽きた。サバニの中で倒れて気絶するように眠りに落ちる。二人ともぴくりとも動かない。でも寝息だけは聞こえる。白い馬、海の神様は二人を乗せたサバニを引っ張りながら対馬海流の上を走り続ける。そして次第に台風は白い馬のスピードについて行けなくなる。そこで台風は諦めるようにして勢力を弱めながら迷走して、やがて温帯低気圧へと変わっていった。
【洗い髪たれ遊び】完 次章に続く




