【洗い髪たれ遊び】⑫
沖縄本島海域に少しずつ高いうねりが入ってくる。そんな海を眺めると気持ちがわさわさして落ち着かない。台風が勢力を強めながら北上してきている。空を行き交う雲の流れも早い。糸満漁師達は遠い空を見つめながら漁港内で早めの台風対策を始める。荒波で船が護岸にぶつからないように対岸から長いロープを渡して海面に固定する一方、船の側面に発砲スチロールやタイヤなどのクッションをつけて、漁船同士が衝突して傷つかないように入念な対応を取る。慣れた作業を行いながらヤギは改めて自然という大きな力の中でいかに人間というのは小さな存在かを思い知る。荒れ狂う海の中でサバニに乗る龍太と真季のことを思う。大きくため息をつくしかない。どうか、どこかの島や陸地に上がって台風が過ぎるまで安全に過ごして欲しいと祈る。それはヤギだけでなく、糸満漁港で台風対策を行なっている漁師全員の気持ち。
台風の最新ニュースを久高島で見た月子。夫の太は、朝一番のフェリーで本島に戻り仕事に向かった。月子はフェリー乗り場まで見送りに行ったが、海は少し荒れ始めていて遅い時間のフェリーは運休になるかもしれないと思った。空を見上げる。雲の流れが速い。フェリーが出た後、家に戻って鶴子おばあの家事を手伝う。眠り続けている富おばあの様態は安定しているが、相変わらず意識は戻らない。一日に数度体を起こして、少量の水を口から飲ませ、赤ちゃんに食べさせる離乳食のような食事を喉の奥に流し込んで胃へと送り込む。オムツも適時変えて、汗をかけば体全身をタオルで拭いた。今まで鶴子おばあがやっていたことを、島に戻ってからは月子がやり始めた。真季と龍太のことを思うと気持ちが張り裂けそうになる。じーっとしていると考え込んでしまう。何かをしていないと狂って叫びだしてしまいそう。富おばあの介護に集中することで、少しだけ気持ちを落ち着ける。そんな月子を見て、鶴子おばあは声をかける。
「毎日のお祈りに行ってくるけど、月子さんも一緒に来るかい?」
お祈り・・・。久高島で育った月子。小さい頃からおばあやおばさん達が担っていた島の日常儀礼。三十歳から七十歳までの女性が神行事を行なう島で自分はいつまでも子供だから関係ないと思っていたけれど、気づけば自分もその年齢になっている。自分がお祈りに行くというのは少し不思議な感じがする。鶴子おばあは既に神行事を担う役は引退しているけれど、雨が降っていなければ可能な限り毎日お祈りに出ている。
「月子さん、まーきーと龍太の無事をお祈りに行こう。私は寅也さんが漁に出る度に今の月子さんと同じ気持ちだった訳さ。そして無事に帰ってきてくださいと神様にお願いして、お願いして、お願いしたさ。そして祈ることで自分も救われる。待つ事しかできない運命となんとか向き合えるようになるさ。何もしなかったらとてもじゃないけれど正気ではいられない」
その鶴子おばあの言葉に月子は自然と頷いた。富おばあに布団をかけて立ち上がり、鶴子おばあの後に続いて家を出た。島を覆う風が少しずつ強くなって草木が揺れる。
「さて」と龍太は朝焼けの海を見つめる。真季も寄せては返す波の音を聞きながら水平線を真っすぐに見る。これからが本番だと二人はわかっている。龍太はここに来るまでに何度か真季に航海予定を話した。奇跡的なまぐれかもしれないけど、なんとか辿りついたトカラ列島の最南端、宝島。そしてこの宝島の目の前の海に世界最大規模の潮の流れが走っている。黒潮。この黒潮が屋久島の下とトカラ列島の北端の間を抜けていくと黒潮本流の日本海流になって南九州、四国沖合いを経て、紀伊半島あたりまで走り抜けている。世界最大級の海流ハイウェイ。その流れに持っていかれたら、鹿児島県南部から太平洋に一気に押し出され、あっという間に紀伊半島沖まで流される感覚だろうと龍太は想像した。ちゃんと航海前に何度何度も勉強した。黒潮の流れが頭に叩き込まれている。でも、黒潮本流に乗ってはいけないのがこの航海の難しいところ。黒潮は太平洋に流れる潮と日本海へと流れる潮に、このトカラ列島海域で二つに分かれる。黒潮本流から分かれた支流、日本海へと流れていく対馬海流に乗らないと出雲には辿り着けない。その分岐点は毎日の潮の流れや気候条件によって変化し続ける。どうやって見極める・・・。龍太は武者震いをする。正直怖い。とてつもなく怖い。生まれてからきっと今この瞬間が一番怖いんじゃないかと思う。真季は弟が感じている怖さに共鳴する。人の怖さや不安、痛みや苦しみがわかりたくもないのに小さい頃からわかってしまう体質。でも、この海を目の前にして、この体質に生まれた運命を素直に受け入れる。恐怖を乗り越えようとする弟の覚悟が心臓に伝わってくる。自分も龍太と同じ覚悟で海流ハイウェイに向う心構えができる。
「行こう」と龍太は笑った。この海を目の前にして笑える弟に強さを感じる。真季も「うん」と笑う。サバニを砂浜から海に浮かせる。二人呼吸をあわせてエークを漕ぎ、沖に向かう。自然の大きな大きな力が目の前に迫ってくるのを感じる。二人の胸の鼓動は高鳴り続ける。鳥肌が立ち、お腹が少し痛くなる。龍太は、篭の中に入れて連れてきたイラブー海蛇を一定の間をおきながら2匹ずつ海に投げ込む。イラブーは対馬海流に乗って出雲まで泳いで行き、そして故郷久高島に帰ってくる。どうかハイウェイの道案内をしてくれますように・・・と、イラブーナビに期待をする。海蛇は肺呼吸のため30分に一度くらいのペースで海面にあがってきては呼吸する。イラブーが頭を出した瞬間を見逃さないように、龍太は広い視界を保ちながら海面に目配せする。真季も信じるものは救われるという切実な心境でイラブーが呼吸しに顔を出してくれるのを祈る。10匹程海に投げ込んだけれど、誰も呼吸をしない。もしくは見逃しているのか。久々の外洋でイラブーも興奮しているのか、海の底で餌でも探しているのか。龍太は頭を掻く。やはりこんな原始的な方法そもそも無理があったのだろうか。というよりもこんな方法、原始に生きた縄文人ですら考えつかない発想だったのかも・・・。その時、「あっ」と真季が大声で叫んだ。「あそこ、あそこ」と指を指した方向に、6匹のイラブーが海面に顔を出している。龍太の目にも確かに見えた。海流の方角を掴んだと信じて、真季と龍太はサバニを進ませる。とにかく海蛇を追いかけていくと少しずつ海の流れが早くなるのを二人は感じる。少しずつがだんだん少しというレベルを毎秒毎に越えていきサバニはどんどん速度を早めていく。今までにない感覚。真季も龍太も手に汗を握る。帆を上げず、エークで漕がずともサバニは速度を上げながら前に進み続け、不安と緊張と闘いながら海を見続けていた真季は突如目の前の光景に絶句する。龍太は眉間に皺を寄せる。二人とも呼吸が止まる・・・。言葉を失う。青黒い色をした巨大な潮の流れが二人の前に現れた。二人とも度肝を抜かれて、腰が抜けそうになるのを必死に堪える。宝島に辿り着くまでに見て来た細い潮の流れとは全然違う。その黒い潮に近づけば、海の中に引きずりこまれそう・・・まるでブラックホールのように。なぜ黒潮というのか初めてわかった。この潮は本当に黒い色をしているんだ・・・と龍太は納得する。海を流れる黒い大河。その幅は水平線の手前まである。100キロ先ぐらいまで海が黒い。サバニは巻き込まれるようにして黒潮に乗った。そして、海底の奥底に引きずり込まれそうな程の凄まじい引きの力を感じ、サバニは海流の上を猛進していく。ハイウェイに乗ったサバニは速度を一気にあげ、コントロール不能に・・・。龍太がエークを海に突っ込んだところでサバニの向きを変えられない。真季もエークを海に入れたが、あまりの潮の流れの強さにエークが海に持っていかれて手から落ちる。真季の表情が青ざめる。エークと一緒に体ごと海の底に引きずりこまれそうになり、とっさに手を離した・・・。もし後一秒手を離すのが遅れていたら・・・と冷たい汗が全身の毛穴から噴き上がる。サバニを漕ぐどころか真季も龍太も立っていられなくなる。龍太はサバニのヘリを掴みながら体勢を保ちつつイラブーの呼吸を探すけれど、どこにもいない。自分の航海術の拙さを今更ながら後悔する。サバニは制限速度なく更にスピードをあげ続けて海を暴走し始める。ハイウェイに乗れば全てがうまく行くと思っていた。逆だ。ハイウェイにすべてを持っていかれそうになる、サバニもエークも、運命も生命も・・・。そしてこのまま黒潮に乗り続けて本流をいけば太平洋方面へ行ってしまい、もう取り返しのつかない航海になる。支流の対馬海流。あれだけ有名な海流なのに、勉強した時に意外だったのは本流の約一割程度の規模でしかない。この水平線手前まである大きな流れの中で、その支流の分岐点を探そうと思ってもそれは今となっては不可能にしか思えない。流れの9割は太平洋に向かう。そしてサバニの方向をコントロールすることはもはや不可能。龍太は自然の大きさの前に、体勢を保つことを諦め腰をおろした。真季も巨大な引力に抵抗する気力を粉々に砕かれて下を向く。海流は鼓膜を破るような爆音を響かせて流れ続ける。その絶え間なく鳴り続ける大きな音に囲まれて真季と龍太の闘争本能は失われる・・・首の皮一枚を残して。波が割れて、うねりが寄せてくる音に混じって、微かに「かーかーかー」という音が聞こえてきた。青い砂漠の上に浮かんで聞こえた耳鳴りかと龍太は思った。無意識に真季を見ると、真季も同じ音が聞こえているのか、顔をあげている。そして龍太も空を見上げると、宝島の方角からカラスの群れがサバニを目指して飛んでくるのが見える。大空に大きな羽で羽ばたきながら、太陽の光をその黒い体に浴びて輝く。カラスの一群はサバニに向かって降りてきて、サバニの上にとまった。真季と龍太はカラスに囲まれる。その数、33羽。異常な光景。大海原を飛んでいる途中にちょうどいい止り木を見つけたからサバニに降りてきた訳ではなさそう。初めからこのサバニを目指して飛んで来たという顔をしている。真季はそのカラスの群れに囲まれて、一羽のカラスの真っ黒い瞳を見ていて気づく。
「あれこのカラス・・・昨日、見た気がする。もしかして女神山の神様がカラスを私たちのところに派遣してくれたのかも」
その真季の言葉に船頭にとまっていたカラスが鳴いて応えた。どうやらその通りなのかもしれない。そして、そのカラスが羽を広げて前に飛び出した。二人があっけに取られていると、他のカラス3羽がサバニの帆を口に挟んで持ち上げようとする。龍太はそれを見て帆をあげろってことかと察して、急いで帆をあげた。頭の良いカラス達は明確な意志を二人に伝えて指示を出す。1羽先に飛び立ったカラスを追うように9羽が飛び立ち、残りの10羽はあげた帆の上にとまる。そしてさらに残りの10羽は帆の周りを飛び回り、最後に残された3羽はサバニの中で真季と龍太とコミュニケーションを取ろうとする。黒潮にエークを入れたところでサバニの操船は不可能だったけれど、風が強く吹き始めて、飛び立ったカラスの群れの方角目指して帆を張る。カラスは風を感じている。龍太に何度も帆の角度を指示する。カラスに言われるがままに龍太は帆を操る。カラスは風の一番強く吹くところを翼で感じながら黒潮の流れに負けない風の力点を指示し続ける。帆の真っ赤な生地に太陽の形がくっきりと映る。膨らんだ帆を通して見る黒い太陽、そこを目指す黒いカラス達。龍太は紐の手綱を微調整しながら風を捕まえ続ける。33羽のカラスが入れ替わり立ち替わり空を飛び回り風の流れを調べ続けてくれる。龍太は帆を操作しながら地図帳を片手で広げた。地図上から見た黒潮本流を流れに沿って斜め左に走り続けている筈。だから黒潮の流れをサバニの左脇腹で受け止めている。うねりが当たる度に二人は海に投げ出されそうになる。額に浮かんだ冷たい汗を拭いながら真季は帆柱に漁師網をつかって自分の体を縛りつける。龍太も自分の足とサバニの木板を他の荷物と一緒に縛りつける。カラスは太陽に向けて飛び続けて、二人を導いていく。帆は膨らみ続け、サバニは黒い潮の上を走り続ける。どれくらいの時間が経っただろうか。海の流れに翻弄され風の動きを追い続けている間に太陽は沈み、夜がやってきて、真っ暗な世界にカラスは消えていった。サバニに乗っていた数羽のカラスもその黒い体を闇に溶かすようにして消えた。次第にサバニの速度が落ちていくのを龍太は感じる。真季は思った、もしかして黒潮の本流から抜けたのではと。だけど、真っ暗な世界で自分達がいる場所に自信が持てない。その時、真季が「あっ」と声をあげて、荷物をほどき始めた。ずっと自然にもみくちゃにされて忘れていたけれど、私は元々家電大好き少女。携帯電話は海に落としてしまったけど、まだiPadがあると真季は思いつく。荷物の中からiPadをほじくり出して電源を入れる。Google mapで現在地を調べればいいんだ・・・と真季は思いつくが、電波が届かない圏外。ということは、GPSも使えない。アプリを起動させてみるけれど、自分達の場所は掴めない。もう駄目だと思ったその瞬間、電波が微かに一本だけ立って、すぐに消えた。その電波を掴んで、iPadの液晶モニターは世界地図の上、今いる地点を青く丸い光で示した。屋久島、トカラ列島から遠ざかっている。そして、その光は対馬海流が流れているだろう海域の上にいた。真季も龍太も液晶モニターを見て思わず「やったー」と叫ぶ。真季は嬉しさのあまり弟に飛びついた。そして抱きついた龍太に頭を小突かれて、我に返り、龍太から離れた。iPadの電波はその後、圏外を表示し続けた。でも、それでいい。真季はiPadの電源を切って、スポーツバックの中に戻した。後は対馬海流に乗っていればいい。黒潮本流を経験したら対馬海流が不思議な程に穏やかな潮の流れに感じる。真季は喜びが隠しきれない。船頭に立って、「いざ出雲へ」なんて叫んでみる。海賊の船長にでもなったつもりなんだろう。龍太はその真季の浮かれようを鼻で笑いながら、無事に対馬海流に乗れた事に小さくガッツポーズをした。




