偽りの日々
思えば小さい頃の記憶が俺には無い。
いや、無い筈がないのだろう。ただ、それを思い出せないだけで。
とは言っても思い出せないの度合いを超えている。普通の人間なら多少の事は覚えている筈だ。大きな出来事があったならその時の光景は鮮明に。匂いや感覚だって思い出す事ができるという。
普通に生きていればそういった出来事はある筈なのだ。
なのだが。俺にはそう言った記憶は勿論。些細な記憶すらない。ただ、憶えていたのは和明の存在。
いや、そもそも和明とはどの時点で仲良くなったんだ?
確かいつだったか言っていた。給食の牛乳を渡したのが出会いのきっかけだったと。
恐らくソレは小学校の事だ。
アレ?だが、おかしい。和明とは幼稚園の頃から一緒だったような?‥リ?
先刻、英智に言われた言葉で俺の思考回路はメチャクチャとなっていた。とてもじゃないがここに来た目的。殺人事件の真相を訊きだす。そんな問題ではなくなっている。
「ちょっ‥ちょっと、どうしたのよ?あんた、凄い汗よ?それに表情もよくないし?」
俺に対する嫌悪も忘れ、蔓実が心配そうな顔を向けてくれた。
が、しかし。そんなものに返せる余裕がない。
俺が正しいと思っていた記憶が間違っていたのだ。
今まで生きてきた全てが覆され、崩された。
‥いや。それはいいのだ。自分の記憶がどうであれそんなものはどうとでもなる。それこそ時間が経てばそうか。記憶の刺し違えか。などと納得できるかもしれない。
だが、事の事態はそう簡単ではない。
俺は昔、桜木 雲雀と知り合っていたのだ。
その事実だけは呑み込めない。それだけは確かめたいとどうしても追求心が前に出る。
だって俺は聞いたのだ。彼の昔話を。彼にどんな事があったのか。ソレを。
なのに。そんな大事があったにも関わらずソレすら無いものにしていた。
その事実だけはどうしても受け入れ難かった。
「‥桜木?お前は俺の事を知っていたのか‥?」
同じ小学校だったというのなら当然、桜木も俺の事を知っている筈だ。
ならば。出会って始め、桜木は俺の事を知人と知って、接していたのかもしれない。その事にも気付かなかったとはどんだけ俺は鈍いんだ。ラブコメの主人公がどうとか言っている資格はなかった。
が。
「‥知らなかった。ゆうちゃんも僕と同じ小学校にいたんだ?全然、気付かなかった。」
桜木も俺と同じ。お互いをお互い知らない者同士で認識していた。
桜木の格好は今と昔とでは大分違う筈だ。だが、俺はどうなのか?昔と今。多少の変化はあるだろうが大きなモノはあるだろうか?
それでも知らないという事は‥。
「‥そうか。」
桜木も桜木で記憶が曖昧。
その事に気付いた俺だったが敢えて、そこには触れなかった。
今の桜木を見るからにその方がいいと判断したのだ。俺と同じよう、混乱している桜木を見れば自然、そういった方向になろう。
「何?何?俺、何かマズイこと言った?」
俺達の反応を不審に思った英智が少し焦った声を出す。
「‥いや、別に。」
もっと訊くべきことはあった。
だが、出てきた言葉はたったの一言。それだけだった。今、頭の中で行われていることはただ一つ。過去の再生だ。言わなくとも分かろう。その再生される記憶は主に小学生のもの。
‥全く思い出せないのだが。
「‥ね。ねぇ‥お兄ちゃん?こ‥この人達、知り合い?」
今まで黙っていたからあまり目にいってなかったが部屋の奥で怯えた様子を見せる幼女が英智の所へ近付き、袖を引っ張る。
長く伸びた髪は何の手入れもされておらず、傷んでいる。せっかく容姿が整っているのにそれでは台無しだとこんな状況でも思った。
‥ロリでもショタでもないけどね!
「ん?あぁ。そうだ。この人達はお兄ちゃんの古き友。知り合いだよ。」
「‥ふーん。なら、ここから出なくていいんだね。」
「‥あぁ。まだな。」
妹に問われ、そう答える英智の顔は見るからに寂しそうだった。
まだ。
その言葉の意味も含め。彼とて分かっているのだ。いつまでもこうはしてられないという事。いつかは来るべき日を迎い入れなければならない事。
彼は分かっているのだ。
‥だが。その日はまだ。まだ来てはならない。そうさせたくない。せめて‥。せめて何か掴めるまでは。せめて‥。
そんな想いがつい行動に出ていた。いつの間にか握っていた拳は固く、呼吸も荒くなっている。
そんな俺にだ。誰かが肩に手を置いた。
「ねぇ?」
置かれた手の方に振り向く。と、そこには波瀬の顔があった。
「ねぇ、何をそんなに焦ってるわけ?」
「あっ‥いや。」
改めて問われると何を言っていいのかが分からない。確かに焦る意味はない。俺の記憶が。認識していた過去が少しばかり変わっていた。無くなっていた。それだけなのだから。
ソレを知っているであろう人物は何も英智だけでもないし、和明でも何か知っているかもしれない。焦る必要なんてどこにもない。
ただ、急にきた情報に頭がついていけず、混乱していたに過ぎない。
少し時間が経った今。第三者から声を掛けられてようやく落ち着きを取り戻せた。
「‥そうだな。コレは後でもいい。桜木ともじっくり話し合って、それで解き明かしていけばいい。」
一つ深呼吸。吸った息が妙に美味しく感じたのはきっと、頭の中がすっきりした事の表しなのだろう。
「うん。分かればいいのよ。じゃぁ、新戸君。早速、ここに来た目的を実行しましょう。」
「‥あぁ。だな。と、その前に。」
波瀬の言葉に頷くも、一人。未だ迷宮の中を彷徨っている者に声を掛けてやらねばならない。波瀬が俺にしてくれたように。その迷宮は一人では抜け出せないと思うから。
「なぁ、桜木?」
酷い表情。汗を湿らせる彼の肩を優しく叩く。
「‥ん?」
俺と全く同じ反応。強ばった顔。そして不安そうな顔が俺の方へと注がれた。
「お前が思ってることは十分、理解できる。きっと、俺もお前も何らかの影響でソレを記憶から抹消した。お前も俺もソレを知りたい。」
「‥うん。」
「だが、それは今でなくてもいい筈だ。よく考えろ。お前はここに何しに来た?過去の記憶を思い出す為にここに来たのか?」
自分もさっきまで全く同じ境遇にいた癖に何を偉そうな事を‥。
自分で言って何だか癪に感じる。それでも桜木を導ける者は自分しかいないとも何故か思えた。
思い上がりもいいところ。
そうだろう。だが、悪い気はしない。いつの間にか桜木 雲雀という存在は俺の中でそういう存在になっていたのだ。
どうしても自分が助けてやりたい。そんな存在に。
「‥ごめんね。英智君。少し動転していた。」
桜木も俺と同じ。一つ大きな息を吸い込むと気を引き締めて、英智の方へと顔を向き直した。
「うん。もう大丈夫なのか?」
「大丈夫。」
桜木の表情はしっかりとしていた。始めにあった迷いも。さっきまであった不安に焦りも。今の彼の顔には何一つなかった。
あるのはただ一つ。決意と覚悟。その二つだけだった。
「で、英智君。さっきの続きなんだけど‥。」
さほど大きくない声ではあった。だが、その声はよく響き、この空間に反響した。
‥そう思える程の緊張が生まれた。
「うん。‥なんだい?」
頷きを小さく。英智は寂しそうに笑った。その笑みは横で不安そうな顔を見せる妹を想ってのもの。そう俺には思えた。
「さっきゆうちゃんが言った事。君は嘘を言っていたのかい?両親を殺した。その言葉に偽りがあったのかい?」
時間は原点へ。空気は冷えたものに。外の天候もまた荒れてきそうだった。
「‥嘘か。」
数秒の静寂を産んだ後、小さな呟きがポツリ溢れた。
「うん。そうだ。俺は誰も殺してない。」
「やっぱ‥」
あっさり白状した英智の言葉に桜木は安堵の言葉を流そうとする。だが、その声は最後までは続かない。
英智の急速に掛けられた声に被り、桜木の声は無くなる。
「だが、嘘にはならない。」
「それは‥」
安堵の顔も声音も逆のものへ変わり、桜木は短い声を飛ばした。
英智はそんな桜木に遠慮する気もなしに固い表情で口を開く。
「今は生きている父親を俺は殺す。そして今は亡き母の死も俺が背負う。だから嘘は言わない。正真正銘、俺は両親を殺すんだ。」
乾いた声が。空気が流れるのを感じた。そのせいで英智の言葉がどれ程のものなのか?その強固たるモノが分かる。
冗談や嘘でこんな空間は作れない。
「だ‥」
まず始め。蚊の鳴くような小さな一文字が誰の耳にも届いた。
それからその声は必死で泣きそうな大きな声へと変わる。
「そんなの駄目だよ。英智君、何を言ってるの?そんなの駄目だ!お父さんを殺す?そんなの間違ってる。どんな理由があってもそんなこと‥」
「うるさいなっ!!!」
突如、降り掛かった怒声。俺の肩もビクリ、小さく揺れ動き。桜木の早口は閉ざされた。
「うるさいな‥。お前に俺の何が分かるってんだよ‥。」
怒声は小声に変わり、英智はその場にしゃがみこんだ。
「そ、それは‥。 ? ‥ゆうちゃん?」
まだ何か言いたそうな桜木の肩をポンッと優しく叩く。今、英智に何を言っても逆効果だ。それは彼の姿を見れば大いに理解できた。
しゃがみ、顔を伏せ、何事かをブツクサ呟く彼は見るからにどうかしている。
よくよく考えれば分かった事なのだ。学校から情報が持ち出されたのは今から二週間も前。だが、英智が警察等の正義を名乗る者に追われ始めたのはもっと前だ。
ここに逃げ込んだのはいつかは知らない。だが、最近とは言えないだろう。それは散らばるゴミ等で何となくだが判断できる。
長くこんな所で。長く逃亡生活を続けて精神が安定な訳がない。
「今はそっとしてやれ。多分、俺達じゃ何もできない。」
親を殺す決意なんてものはどう考えても持ち合わせていないし。どう考えても理解はできない。警察に追われた事もないし。逃亡生活なんてもっての他。
俺達では彼の何一つ理解できない。
それで何て声を掛けれよう。
「で、でも‥。でも、ゆうちゃん。」
泣き出しそうな。それでいてどうにかしたい。そんな焦りと困惑を顕にした顔が俺の両目に映る。
気持ちは分からなくはない。第一、ここには彼を説得するという目的も因んで来ている。どうにかしたいのは俺とて同じだ。
だが、それでも俺達では何もしてやれない。酷だがそれが現実だ。
「悪い。」
何で謝ったのか分からなかった。自然に出た言葉がそれだった。
犯罪は阻止したい。だが、こうも決意が強固で。精神状態が不安定な相手をどう攻略していいのか分からない。着飾った台詞は逆効果だろうし、同意したところで直ぐに見破られるだろう。
打つ手無し。
「本当に‥何もできないの?このままじゃ‥。ねぇ‥」
気持ちは痛いほど伝わっている。確かにこのままノコノコ帰っていい筈がない。せっかく奇跡的にも彼に遭遇できたのだ。ここで見逃せばまた会えるとも限らない。今日、何らかのモノは残さなければ。
だが、しかし。何を?
分かっているが何をしていいのかが分からない。考える時間だけが悪戯に過ぎ、嫌な空気が漂い始める。
と、そんな時だ。
グ~。
誰かの腹音が静かな部屋によく響いた。
「‥あっ。」
その少女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、下に顔を俯かせた。英智以外の皆の視線はそこに注がれたのは言うまでもなかろう。
「ちょっと。」
「ん?」
部屋奥でタジタジしている少女をそれとなく眺めているとまたも裾を引っ張られていた。
「あんた、コンビニで食べ物買ってたでしょ?」
予想通り。そこには百合ちゃんが。機嫌の方は相変わらずだが‥。
「あっ、うん。まぁ。アンパンと牛乳。缶コーヒーではないけど一応。」
始めはノリでその三つをチョイスしようとしたのだが店に入るが矢先、その考えは変わったのだ。糖分は必須だと思ったから甘い系のパンを購入したのだが、それでもアンパンではない。
店に並ぶ商品で期間限定と書かれてある商品にはどうしても目がいってしまう。それは人間の本能なんですかね‥?
まぁ、飲み物は眠気防止の為にエネルギードリンクを購入しましたけどね。
うん。何か多忙なサラリーマンみたいな買い物だな。はぁ~。働きたくねぇ。
「なら、それ渡しなさいよね。あんたの選んだ物だからどうしようもない物なんだろうけどこの際、仕方ないわ。」
何でか偉そうに俺の食料が狙われている。まぁ、いいんですがね。
てか、俺チョイスじゃないし。言うなればコンビニチョイスだから。パイナップルパンって何か感じるものあったし。パインジャムって絶対美味しいから。
との想いで勝ち誇った顔で袋を渡したら百合ちゃんの顔が何故かよろしくない。幻滅している顔で渡したパンを見ている。
「まぁ、あんたに期待なんてしてなかったからいいんだけど。はぁ~。」
酷い言葉を残すだけ残して駆け足でその場を去る百合ちゃん。向かう先は腹を空かす少女の元。結構、優しいところもあるのだと思わず涙出てきそうだった。
‥うん。感動でね。別に去り際に酷い言葉を残されたからでは断じてないよ。本当に。
と、感動している場合ではない。こっちもこっちで動かなくては。せっかく百合ちゃんが気付かせてくれたのだ。
「なぁ?」
「‥あ?」
未だ、何事かをブツクサ言っている英智の顔がこちらへ向かれる。
振り向かれたその顔はとてもじゃないが先程、彼が浮かべていた表情とは思えなかった。
明らかに狂っている。
だからこそ彼は気付いていないのだ。今、現状。詳細な理由は分からないが彼がどれほど間違っている事をしているか。ソレに。
「あの子はお前の妹だろ?」
「‥それがどうした?」
「コレは俺の推測だがあの子は数ヶ月前からここにいる。それで間違いないか?」
「・・・・・。」
応答がない。それは何よりの答え。行動は口よりも物を言う。
「はっきり言うがこのままではあの子は報われないぞ。見ろ。あの子の姿。あの子の容態。表情。全てを見ろ!」
「・・・・・。」
彼の決意はとても固い。それは紛れもない事実。だから彼自身の事を言ってもきっと変わらない。心を動かす事は叶わない。
だから周りを利用する。見れば分かる。英智にとって妹の存在だけが今ある全てだ。
数ヶ月前の少女失踪事件。その少女はきっと彼女でその理由も何となくだが察せられる。
だからこそ彼を動かすには妹の事を棚に上げる必要があった。護りたい人物を実は護れていなかった。その事実を伝えてやる必要があった。
「‥かえれ。」
が。しかし。彼が背負っているモノは想像以上に大きく計り知れないものであった。
始めに呟かれた声は大きさを増し、怒声へと変わる。
「帰れ!!もう、俺に関わるな‥」
情緒不安定。
始め、俺が彼に感じた違和感はソレだったのだ。見た目とは若干、異なる性格はソレが原因なのかもしれない。
喜怒哀楽のセーブが効いていない。思った事を直、行動に出している感じだ。
「‥帰るか。」
「‥うん。」
これ以上、ここにいたとしても得るものもプラスになる事もないだろう。今日のところは撤退するしか選択肢はない。
それは隣の桜木も分かっていたようだ。
納得はしていない様子だったが、振られた首は縦に動いていた。
「‥ねぇ。」
「ん?」
小屋を出て、まだ真っ暗。止んでいた雨も小雨程度にポツリ。ポツリと降っている道のりを何とも微妙な空気で歩くこと数分。低い所から声が掛かった。
「‥あの子。お腹、空かせていた。それにお風呂とかもロクに入っていない感じだった。」
「あぁ。」
百合ちゃんが言わんとする事は何となくだが分かった。歳が近ければ通じるものがあるのか。
あの子があのまま、あの空間で閉じ込められていることが百合ちゃんは心配なのだ。
「大丈夫だ。時間は掛かるかもしれないけど絶対、あの子も。アイツも助ける。」
また俺は勝手な約束を‥。
思ったものの言ってしまった後では後悔しても仕方がない。
「‥信じていいの?」
「‥あぁ。約束する。」
百合ちゃんの顔は不安を過ぎらせるものがあった。そんな顔は始めて見る。だからだろう。出た言葉は少しだけ時間を要した。
絶対という言葉はない。その事は一番よく知っていたから。
ただ、それでもその気持ちは本物だ。
そしてコレまで。蔓実。波瀬。楓香ちゃん。その問題をどうにかしてきたからだろう。自信というものも少なからずあった。
今回も皆となら何とかできる。
そう何の確証も無しに思っていたのだ。
‥が。
その考えは些か甘いモノがあった。その事を俺は確かに見落としていた。それまで問題の解決ではないがどうにかできていた主たるもの。それは桜木のアレのお陰が大きな理由だ。
即ち、桜木の存在が大きい。
だからこそ今回も知らず知らずソレに期待していた。桜木に期待していた。それは駄目だというのに。
ただ、それでもだ。今回はそういう問題ではなかった。
始めにも言ったが俺は見落としていたのだ。彼の表情。ソコに陰が掛かっていた事に。
桜木はまだあの事。俺と幼い頃、知り合っていた。その事をまだ残していたのだ。
だから、彼は英智に対する事件を横目で見ていた。
失敗するだろう要因は近くにあったのに。それでも気付けないでいた。だからこそ百合ちゃんとの約束は。英智。あの子を救うという約束は。
守れないという結果で終わるのだった。




