心
気が付けば、そこは木々が生い茂る森だった。
何が起こったのかわからない。ただ、自分はそこに居て、目が覚めた。ふらふらと立ち上がって、辺りを見回すと、何やら不穏な雰囲気だった。なぜ、感じ取れるのかわからないが、自分には、回りにいる生物の、良くない感情や考えを感じ取ることが出来た。
その辺りは、回りに神も人も居ない、荒れ果てた地だった。
たまに通りがかる者達の気は、怯えているか、殺気立っているかどちらかで、あの生物達にはあのような感情しかないのかと思っていた。
生物達を見ると、皆、布きれを纏っている。自分もあれを纏わねば、きっと奇異に見えるだろう。
慌てて同じようなものを身に纏い、よく分からぬまま森をさまよい歩いた。
途中、出逢った生き物は、野生動物であろうとなんであろうと、皆自分を避けて行くようだった。
襲われて命を落とそうとしていた耳の長い毛で覆われた小さな動物を助けた時ですら、その動物はすぐに逃げ去った。生物とは臆病であるのかと思って、最初は気にも留めなかったが、そうして過ごすうちに、自分が全ての生き物に避けれられている事実を知った…なぜなのか分からない。ただ、とても寂しいと感じた。
ある日、池の畔で休みながら、ふと、天上に輝く丸い光を見上げた。
途端に、身がすくむのを感じて、怯んだ。何かの記憶が、囁いた。
…月には気取られてはならぬ。滅せられてしまう…。
ドッと、何かの記憶が頭を襲った。そのあまりにも暗く重く、そして孤独な記憶に、潰されそうになってのたうち回った…そして、自分が、皆に闇と呼ばれる、忌み嫌われる存在なのだと気が付いた。
記憶は、しかし別の者の記憶であった。自分は自分であり、その記憶は自分のものではない。それでも、その記憶のおかげでいろいろなことを知ることが出来た。
あの丸い光は月という名であること。月からは身を守らねばならないということ。自分は闇という存在で、世の生物の負と言われる感情を、大きくしてしまう力があるということ…。
消された闇の記憶から見たのは、孤独のあまりその力でもって世を壊して己だけのものにしようとしたことであった。誰も、受け入れてくれない…己の悪い面が引き出され、耐えられないのだとその記憶は闇に教えていた。
それでも、闇は他の生物と接してみたかった。話して、いろいろなことを知りたかった。そして、ただ生きたかった。月の光に気配を隠し、身を隠しながら、闇は生物を求めてただ歩き、飛んだ。
そうして過ごしていると、小さな集落を見つけた。
そこは、少人数の「人」が暮らす村のようだった。少人数とはいっても、複数の生物と接したこともない闇にとって、戸惑う場所だった。森の出口でソッと伺っていると、背後から声がした。
「…どうしたの?道に迷ったのですか?」
闇はハッとして振り返った。そこには、自分よりずっと小さな人の女が立っていた。闇は咄嗟に前闇の記憶を探った…こんな時、どう言えば良い?
「…いや、観光に来て、散策していた。お前はここに住んでいるのか。」
相手は頷いた。
「観光?あなたも古墳を見に来たの?」
闇は驚いた。古墳?
「ああ。」
とりあえず話を合わせると、相手はふーんという顔をした。
「そう。古墳なんて、面白くもないのに。私はあれを、小さな頃は小山だと思って遊んでいたわ。あの頂上に、約束の物を埋めて、絶対に一緒に掘り起こそうねって約束したり…。見つかってからは入っちゃいけないと言われて…そんな物も放り出されてしまった。」
闇はなんだかわからなかったが、頷いた。相手は気にしないように闇をじっと見ると、さらに言った。
「目が赤い…外国から来たの?」
闇は戸惑った。自分の目は赤いのか。姿など、見たこともなかったが…。
「そうだと思う…あまりよく覚えて居なくてな。」
相手は驚いた顔をした。
「覚えてない?」
闇は頷いた。
「ここに来るまでのことは、何も。目が覚めたら、森の中だった。」
嘘はついていない。相手は驚いたように言った。
「そんな、警察行く?派出所につれて行ってあげましょうか?この辺は危ないのよ、あまり歩き回ると…崖から転がり落ちたり、よく聞くの。怪我はしてない?」
闇は戸惑った。こんな風に言われたことなど、いやそれ以前に人と関わるなど、全くの初めてだったからだ。
「いや…ずっと歩いてここまで来たので。また、歩いて行く。そのうちに思い出すだろうし。」
相手は怪訝な顔をした。
「…あなたがそれがいいなら。」
闇は慌てて踵を返して森の中へ分け入って行った。人とはなんと好奇心旺盛なのか。自分が闇だなどと気付かれてはいけない…。
しかし、初めて話しというものをして、心の高揚感は抑えられなかった。
それから数か月、他の場所も行ってみたが、あんなふうに話せることはなかった。なので闇は、もっと大勢の人が居るかもしれないと、観光地だと言っていた古墳へ向かった。
確かに、あの女が言っていた通り、パッと見小山にしか見えない。立札には、これは昔の人の墓なのだと書かれてある。死してまで居場所を願うのは、人らしい…と闇は思った。
そこには確かにたくさんの人が居たが、誰も自分に話し掛けては来なかった。皆、共に居る他の人と話していて、知らない自分には見向きもしない。あまりそこに居るのもおかしかろうと、少し残念に思いながらそこを後にして、また森へと踏み入って行くと、少し開けた平地に、あの時の女がこちらを見て立っていた。
「あ!」女は、気落ちしていたようだったのに、自分を見ると表情を明るくした。「なんだ、まだこの辺りに居たの?記憶は?戻った?」
闇は驚いて首を振った。相手は肩を落とした。
「そう…。」と、肩を竦めた。「記憶もないのに、こんなに長い間、よく無事だったわね。私もたまにあなたを探したりしたのよ?でも、居なかったから…もう行ってしまったかと思った。」と眉をひそめた。「その…、自殺希望とかで、ないよね?」
闇は目を丸くした。自殺?自分を殺すということか?
「なんだそれは。オレは生きていたい。」
相手はホッとした顔をした。
「そう。なら、いいの。そんなの、絶対後悔するから。」と森の向こうを指した。「ここから国道の方へ抜けるんでしょ?森の近道知ってるよ。そこまで送るから。」
国道とはなんだろう。しかし、闇は頷いた。
「では、行こう。」
歩いている最中、女はいろいろな話をした。凛という名なのだとその女は言った。そして、自分に名がないと言うと、思い出せないだけでしょうと笑い、それまでの間と言って、深という名を闇に付けた。
凛は言った。
「…誰も、私には見向きもしてくれないの。」凛は寂しそうに言った。「確かに私、古墳を観光化するのに反対したわ…皆と遊んだ場所が、手の届かないものになるようで、イヤだったから。でも、結局は選挙で負けてしまって、観光化することになって…それで潤う人も居るし、よかったのかも知れない。でも、私には、どうしても果たしたかった約束があったの。なので工事をさせまいと古墳の前でがんばったりして…それがいけなかったのかな。」
深は凛を見た。のけ者にされていたのか。
「それほどまでに、果たしたかった約束とはなんだ?」
凛は、俄かに表情を変えた。まるで別人のようだ。
「…高校へ行く前、大学を出たら、必ずまたここへ来て、一緒に埋めた物を掘り返そうって。」深は眉をひそめた。凛の目は自分を見ていない。「約束したのよ。ずっと待ってた。工事を中断させてまで待ってたのに。」
深は、凛を見た。これはおかしい…何か感じる。自分の身に沁み渡って来るこの気…この、身の内の力が膨れ上がるような…。
「お前、それは男か?」
凛はこちらを見た。
「そう。」目が笑っていないのに、笑っている。「そうだ、こっちへ来て、私…私誰にも見つけてもらえない…。」
深は息を飲んだ。自分の身の内にある力が湧き上がって、まるで歓喜しているかのようだ。そして、思った…そうだ。自分は、闇…普通の人に自分が見えるはずはない。
そこには、凛と、誰か別の男が、重なって倒れていた。既に命が無いのはその状態から分かる。
「そうか。」深は言った。「いつからこうだった。」
凛は涙を浮かべて言った。
「あなたに会った、あと…。」凛は涙をこぼした。「あの時、もうこのひとを呼び出していたの。でも、思い切りが付かなくて…迷って、迷って、そしたらいきなり、目の前にあなたが見えた。」
深は思った…闇の気に、惹きつけられたのだ。そして、自分から立ち上る、闇の霧に…。
「最初は、気取られちゃいけないって思ってワザと何でもない風に話し掛けた。でも、あれで落ち着いて、やり遂げようと思った。」
それを聞いて、深は大きく息を付いた。落ち着いたのではない。良識が霧に支配されただけだ。人はかくも、弱い…。
凛は続けた。
「引き返して、このひとをいきなり後ろから刺した。私も自分を刺した。でも、誰も気付いてくれないの。体もこんなになってしまって。あれから、ずっと村の人に話し掛けてるけど、皆私が嫌いなのよ。気付いてくれないのよ。あなたが戻ってくれたから…こうして話してくれた。助けて。誰かに知らせて。ここから連れ出して。」
深は首を振った。
「オレには出来ない。なぜなら、オレも人から見えないからだ。どうしてオレにだけお前が見える?オレは人ではないのだ。」
凛は目を見開いた。
「え…人じゃないって…」
深から、意識しないのに力が湧き上がる。黒い霧は凛から深へと吸い込まれ、増幅され、そしてまた、天空へと打ち上げられて回りに拡散した。
深はそれを見て思った。これが、オレの力。人を不幸へと誘い込み、あたかもその決断は己がしたかのように…そして、またそこから生じる霧を吸収して辺りへ拡散する。深は確信した…だからこそ、月はオレを狙うのか。そうなのか。本当にオレはこのためにだけ、生まれたのか。
「オレは、闇。」深は言った。「お前はそれに飲まれて、こうなった。おそらくあちらの世へ行っても、良い場所へは行けまい…だが、行くが良い。お前の道が、開いている。」
凛が振り返ると、森に大きな暗い空間の穴が開いていた。その向こうに、門がある。それはさらに暗く、淀んだ世界であることが見て取れた。
凛は怯えた。
「嫌よ!あんなところ…ここより寒いわ。とても暗い…日も刺さないような…」
深は眉を寄せた。空間自体から強い風が吹き、凛を巻き込んで引き込んで行く。
「嫌!助けて!」凛は手を伸ばした。「深!」
深は思わず手を差し伸べた。しかし、触れた手はまるで浸食されるかのように黒く変色し、そこから一気に顔の上の方へと変色が駆け上がる。凛が悲鳴を上げて手を引いた後、空間は凛を飲み込んで口を閉じ、そして、後には二人の屍と、暗い森だけが残った。
深は、ずっとそのことを忘れずおこうと心に決めた。これは、自分の定め。人を殺して、神を狂わせる霧に、まとわりつかれる…。自分は、この霧を操って抑えられるようになるまで、誰とも接してはならぬ。殺してしまってはならぬ…。
そして名は、凛を忘れぬように、付けられた名、深と名乗ろうと心に決めた。




