軍神
「では、昨夜は妃を娶られなかったというのか。」洪はがっかりしたように言った。「我はやっとのことと思うて、ホッとしておったというのに。」
義心は頷いた。
「我をすぐにお呼びになられて、王の御前で立ち合うようにと。なので昨夜は、軍の宿舎で休んでおったの。」
洪はため息を付いた。
「女の言うなりになるなど、王らしくもない。一言ご意見差し上げて参らねばの。」
洪は不機嫌にそう言うと、王の居間のほうへと足を向けた。義心はそれを見送って、維月の部屋へと足を向けた。
維月は、与えられた甲冑と刀を身に着けて座っていた。昨夜は、ほとんど眠れなかった。こんなことになるなんて…でも、こうでもしなくては、あのままこの世界の維心様の妃になってしまっていた。維心様は維心様でも、私の維心様ではないのに…もしも迎えが来たら、こちらの維心様は置いて帰ることになる。いくら別の世のかたでも、そんなことになって置いて帰るなど、維月には出来なかったのだ。
それにしても、維心様はどうしたのだろう…。維月は空を見上げた。こちらと向こうでは時間の流れが違うのだろうか。そうだとしたら、維心様はすぐに来てくださっていても、こちらでは何年も、場合によっては何百年も経ってからということになるかもしれない。自分は不死だけれど、そんなに長い間、会えないのはつらい…。
維月はそっと、左手の結婚指輪に触れた。愛しておりますわ…。
その時、義心の声がした。
「維月?入るぞ。」
維月は立ち上がった。義心は甲冑を着ている女を初めて見た…他の軍ではちらほら見ているが、龍の甲冑を着ている女など、居ない。こうして見ると、確かに気の強そうな顔をしている。最初から軍神だと言われたら、そうかと言ってしまいそうな風情だ。
義心は言った。
「では、参ろうぞ。王がお出ましになるとのことだ。女の軍神は珍しいゆえ、宮の者も大挙して見に参っているそうだ。」
維月は頷いた。見られるのには、慣れている。でも、この世界の義心の技量など知らない。勝てるかどうかも疑問だった。歩きながら、少し緊張気味な維月を見て、義心は言った。
「…訓練場へ出る前に、少し肩慣らしを致すか?主、最近は刀を握っておったのか。」
維月は考えた。思えば最近は訓練場へ行くとこがついぞなかった。維心様しか相手にならないのに、維心様が忙しかったから…。
「最近はございませぬ。何しろ、あちらでは本来刀など握ってはならないと言われておったので…ただ、事情があって、軍神の真似事をしておりましたの。昨夜は…とにかく必死で。」
義心は苦笑した。
「では、我相手に立ち合うのは難しいやもしれぬぞ?」と横の扉を開いて、宿舎の小さな中庭を示した。「ここなら良い。抜いてみよ。」
維月は刀を抜いた。長さは維心に借りていた刀ぐらいの長さだ。義心は同じように刀を抜いた。
「ここではあまり動けぬ。軽く当てる程度でよい。勘を取り戻すのだ。」
維月は、義心が向こうの世と変わらず優しいことに安心していた。これは違うけど同じ義心だ…こんな、得体の知れない私などを、気遣ってくれている。
刀が当たる音が、静かな宿舎に響いた。維月は思い出した…そうだった。この感覚だ。きっと、立ち合うことは出来る。でも、義心に勝てるかしら…。
義心は満足げに頷いた。
「反応も早い。確かに主は、立ち合いが出来るの。」と刀を鞘に戻した。「さあ、参ろう。あまりお待たせすると、不機嫌になられるゆえ。」
…しかし、維心は既に不機嫌だった。
訓練場の中にある、闘技場の観覧席に座って、常、維心が不機嫌な時と同じような気を湧きあがらせてこちらを見ている。その横には洪が、居心地悪げに座っていた。
「…さあ、着いて参れ。」
義心は維月に小さく言うと、闘技場の真ん中へと足を踏み出した。維月も慌てて着いて行く。真ん中に到着した時、義心が維心の方を見上げて膝を付いた。維月も慌てて倣った…軍神なら、男女関係ないのだ。
維心が一言、言った。
「始めよ。」
その声からして不機嫌なのは見て取れた。義心はそんなことはわれ関せずな風で立ち上がると、維月と間を取って立ち、刀を抜いた。
「さあ、抜け。本番ぞ…我も、本気で行く。でなければ、今日の王は許してくれそうにないゆえの。」
維月は頷いて刀を抜いた。途端に、義心は斬り掛かって来た。
そんなことには、維月は慣れていた。すぐに身をかわして浮き上がると、横から身を捻って突きを入れた。義心はハッとしたような顔をしてそれを避けた。やはりそうだ…維月は思った。こちらの動きを見たことがないのだ。そして、この義心は間違いなく、自分の世の義心と同じように動いた。
何度も振って来る刀を軽く受け流して行く。段々とスピードを上げて行くと、義心は見えているのに反応できなくなって来た。防ぐのが精一杯だ。
維月は軽々と身を翻していた。その柔軟性や、美しい流れに、立ち合いながら義心は見とれた。まるで舞っているかのようだ…なんと艶やかに美しいことか。
維心もまた、その動きに目を逸らせずにいた。速い…しかも、美しい。あの身の動きは、女であるゆえか。しかし、戦場で会った女の軍神は、こんな動きはしていなかった。見たこともない動き…舞っている…。
義心は、手元を狂わせた。義心の刀が宙を舞って、維月は義心に刀の切っ先を突きつけた。
シンっと水を打ったように静かだった闘技場の観覧席が、ワッと湧いた。まるで演武や舞踏を見るような動き…見えていた誰もがそれに驚愕し、また歓声を上げた。
ただ一人、維心はそれを見て無表情に立ち上がった。それを見た全ての龍は、黙った。
「…我が宮の筆頭軍神が。」と刀を手に浮き上がった。「龍の面目は丸つぶれであるな、義心。」
義心は維心に向かって膝を付いた。まさか…負けたからって罰なんてないわよね?でも…これは違う維心様。まさか、まさか…。
維月が何かあったら義心を庇おうと前に出て立っていると、維心が降りて来た。
「義心、主は下がれ。」維心は言った。「我が相手ぞ。維月、掛かって来るがよい。」
維心は刀を抜いた。回りからざわざわと声が湧きあがる。王は、滅多に立ち合うことなどない。誰も相手にならないからだ。
維月は慌てて刀を抜いた。この維心様はどうなのだろう。何回かに一回は十六夜にすら勝てた私が、維心様には、絶対に勝てなかったのに…。
「参る。」
維心は言うと、刀を振り上げた。避けることは出来る。でも、突きも何も入らないのに…!
スピードは一気に上がった。維心の斬り込むスピードは、義心の比ではない。それは知っていたし、他のことを考える余裕もなかった。
刀の触れ合う音は聞こえて来るものの、もう見えているのは義心と数人の軍神だけであった。くるくると回るように王の回りを舞うように飛び、思わぬ場所から斬り付けているにも関わらず、王はそれを受けた。時にハッとしたような顔をするところを見ると、王も読み切れていないようだ…つまり、あれは勘で受けているのだろう。
そのうちに、維心の口元がうっすらと笑っているのを、義心は見て取った。楽しんでいる…義心は思った。
維月は、甲冑姿でなく着物姿であるのに、その維心に一太刀も入れられないのが歯がゆかった。動きは、それで制限されるはずなのに、全くそれを感じさせない動きをする…やはり、この維心様も維心様なのだ…。
維月が思って突きを入れると、その腕は掴まれて引っ張られた。
「きゃ…!」
維月は叫び声を上げる。刀は手から落ちた。目の前に、維心の刀が見えた。
「…我の勝ちであるな。」
維心は言って、維月を離した。周囲からがやがやと声が大きくなり、そして歓声が上がった。見えていなかったが、王が勝ったのはわかったからだ。
その歓声の中、維心は言った。
「主を甘く見ておったわ。」と着物の袖を上げた。そこは何か所か切れていた。「話しがある。着替えて、我の居間へ来るがよい。」
維心はそう言うと、刀を傍の軍神に渡し、闘技場を出て行った。維月はホッとして、とにかく着替えをと宿舎のほうへ戻って行った。