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知らない世界

緋月は思ってもみないほどすんなりと結界を抜けたことに驚いていた。なんてすごいのだろう。自分はそんな、月の力を持っているのに。なぜに今まで気付かなかったのか。

父の結界を抜けた後、緋月は地上に降りて、低い位置を飛んだ。上空に居たら、すぐに見つかってしまう…もしかしたら、気取られて追手が出ているかもしれない。

緋月はなるだけ結界から離れようと、気を全開にして飛んだ。

しばらく行くと、そんな長距離を飛び続けた事のなかった緋月は疲れて、地に足を付いた。まだ成人していないため、体力は人でいう小学生低学年ほどしかないのだ。仕方なく緋月は、夜道をとぼとぼと、気の補充をしながら歩いた。

回りには、木以外に何もない。

力が抜けて降りた所は高い木が生い茂った場所であったので、月も見えず、暗かった。何の気配もない所をたった一人で歩く事などなかった緋月は、心細くなった。ここは、父の結界の中とは明らかに違う…何も見えないし、感じない。結界の中が陽の気でいっぱいなら、ここは陰陽入り乱れた感じだった。全く知らない感じばかり…。緋月は、急に怖くなった。何かが敵意剥き出しで来たら、今の自分にどうにか出来るだろうか。

緋月は、急な斜面に差し掛かって足を取られた。咄嗟に飛ぼうとしたが、気が残っておらず、そのまま斜面を転がり落ちた。

「きゃあ!」

緋月はあちこち打ち付けられて、痛みに気が遠くなった。それでも体は止まらず転がって行く。

緋月が気を失った頃、それは止まった。

緋月は河原で、気を失ったまま倒れていた。


「…あちらか?」

義心が眉を寄せる。まだ成人していない、しかもさほど強くない緋月の気は、探るのが困難だった。しかも、極端に気を失っているようだ…おそらく、飛ぶ事に力を使い過ぎたのだろう。将維も横で眉を寄せた。

「これでは読めぬな。どんどんと気が減って行く。おそらく歩いておるのではないか。」と木々の生い茂る眼下を遠く見た。「あちらのような気がするが…はっきりせぬ。」

義心は頷いた。

「我はこちらへ参りましょう。将維様は?」

将維は指した。

「こちらへ。軍神達にはこの方向全域を見よと。」

「は!」

将維はゆっくりと気を探りながら飛び、ため息を付いた。


「…あれはなんだ?」

その男は、異変を聞き付けて来た河原で、女が倒れているのを見て言った。服装は上下に分かれた着物に、ベストのような毛皮を身に付けている。

「当主、お気を付けください。このような時間に女が一人、罠かもしれませぬ。」

その男はフンと鼻を鳴らした。

「気を失って、倒れておるのよ。」その男はずかずかと歩み寄った。「…なかなかに美しい娘よの。まだ子供のようたが。」

共に居た男が眉を寄せた。

「当主、どうなさるおつもりですか?」

男は、その女を担いだ。

「屋敷へ連れて行く。何でも拾えるものは拾っておくことよ。」

「お待ちください!」

相手の男が止めるのも聞かず、その男は女を担いでそこを離れた。


その男は、(かん)といった。

この辺り一体を住みかにしてはいるが、神に認知されることもなく、小さくその種族をまとめていた。最初は皆この辺りで、力の弱い者を襲ってはその持ち物を奪い、そうしてやっていた下等な神達の集団があった。そこへ親を亡くして、若かった観は弟と共に迷い込み、生活を始めた。そこはいつしか組織を持ち、屋敷を作り、住み着いたもの達で、敗残兵やらを入れるとまた結構な人数の集団となっていた。

当主は世襲制ではなく、その時に力の強いものがなる。なので、中での治安はすこぶる悪かった。観も、数百年前力が満ちるのを待って、前当主を殺して今の座に就いた。どうしても我慢ならなかった前当主のやり方を変えたかったからだ。毎日が戦いのような屋敷の中ではあったが、観は退屈するよりはいいと思っていた。

「お帰りなさいませ。何ですかそれは?」

帰りを迎えた、片目を失っている男が問う。観は言った。

(れき)。落ちていたのだ。」

観は奥へと板の間を歩くと、さらに奥の褥へ女を放り投げた。そして、傍の女に言う。

「世話をしろ。」

その女は弾かれたように立ち上がると、奥へと飛んで行った。

「私は反対でしたのに。」

共に帰って来た男が言う。

帥明(すいめい)、お前は心配性なだけだ。頭はいいが、気が小さいわ。」観は注がれた酒を飲んだ。「お前が言うから、拾った巻物の術でこうして屋敷を覆ってるが、こんなもの無くても問題はないだろう。」

観は回りを指した。薄く黄色い膜が、全体を覆っている。帥明は首を振った。

「これぐらいはしておかねば、龍王の結界もあるのですからな。通りすがりにでも目に止めて、消されては元もこもないでしょう。」

観は唸った。

「…あれは化け物よ。」

観は、一度だけ龍王を見たことがある。あれは今は亡き鳥の王と共に北の戦をおさめに来た時だ。そのままでも充分に恐ろしかったのに、あろうことか龍身を取りやがった…とても歯向かえるものではなかった。

「昔は、あれに立ち向かおうと思ったものよ。だが、今は分かる。あやつにしたら我らは蟻のようなもの。念じるだけでも四肢を剥ぎ取ろうぞ。我は愚かではないつもりだ。関わるのはごめんよ。」


緋月は、話し声に目を開けた。傍では、見たこともないようなみすぼらしい着物を着た女が、緋月の手当てをしてくれていた。斜面を転がり落ちた時、あちこちに擦り傷を作ったらしい。緋月はその女を見た。

「…ありがとう。こちらはどこですか?」

女はびっくりしたように緋月を見た。怯えたように、向こう側をうかがっている。緋月はどうしたのだろうと、もう一度声を掛けた。

「あなたが助けてくださったのですか?我は緋月と申しまする。あなたは?」

相手は囁くような声で、ためらいがちに答えた。

「我は悠貴(ゆうき)。お連れしたのは、我ではありませぬ。」

「我よ。」急に近くに男声がして、緋月は身を縮めた。そこには、黒髪に黒い瞳の男が立っていた。「気が付いたか。ここは我の屋敷ぞ。お前、なぜにあのような所に居った?」

緋月は、今まで父と兄以外にこんな風に無遠慮に話し掛けられた事はなかった。怯えながら、その男を見ていると、男はじっと緋月を見て言った。

「ふうん、お前、その辺の女ではないな。我は観。緋月、答えぬか。」

緋月は容赦のない様子に、何とか言葉を出した。

「み、宮の結界を…出てみたくて。己がどこに居るか分からなくなり、斜面を転がり落ちましてございます。」

「宮?」観は眉を寄せて帥明達の方を見た。「どこの宮ぞ。」

帥明が先に叫んだ。

「龍の宮でございます!」観も暦も目を見張った。「緋月とは、龍王の第二皇女。その目の色に覚えがございます!」

観は緋月を見た。確かにこの深い青い目は、龍王のもの。観は緋月に足を進め、険しい顔で問うた。

「相違ないか!?」

緋月は驚いて身を退いた。

「は、はい…。お父様は、龍王でございまする。」

観はまじまじと緋月を見た。確かに着ている着物は驚くほどの高級品。これが、龍王の皇女というのか。

帥明と暦はじっと黙っている。観は考え込むように帥明を見た。

「…主の言うた通りに、膜を張っておって正解であったな。あれはここに娘が居ると知れば、こちらの話など聞かず我らを消しておったわ。」

帥明は頷いた。

「今頃は軍神が四方へ飛んでおるでしょう。あの場所へ返しに参る訳にもいきませぬ。いかがなされますか?」

観はまだ考えている。緋月は怖くなった。もしかしたら、帰してもらえない?

「宮に、帰してくださいませ。助けて頂いた事には、感謝致しておりまする。」

観は緋月を見た。

「さての…」観は言った。「龍王の皇女となると、そう簡単には行かぬのよ。我らは表立って生きておるのではないゆえな。存在を龍王に知られる訳にはいかぬ。我ら全て消されてしまうわ。主は子供ゆえ、そんなこともわからぬのであろうがな。」

観は帥明の方へ歩きながら、言った。

「奥の間へ入れて置け。少し考えるわ。」と暦を見た。「なんでもかんでも拾うもんではないの。」

帥明は頭を下げて立ち上がると、緋月の方へ歩いて来て、腕を引っ張って立たせた。

「来るのだ。」

緋月はただ怯えて口もきけずにいた。お父様の結界を出て、ほんの少し来ただけなのに…!

帥明という男に腕を引っ張られて歩かされながら、緋月は母の言葉を思い出していた。お父様の庇護から出たら、私すら危ない…。

緋月は今更ながらに後悔していた。何も知らなかった。この世にどんな神が居るのかなんて…!皆親切で、自分には決してひどいことはしないものだと思い込んでいた…!

奥の間と言われていた場所へ到着したらしい。緋月はそこへ放り込まれ、帥明というその男は言った。

「宮でおとなしくしておればよいものを。どのみち殺さねばならぬではないか。面倒なことよ。」

そう言うと、くるりと踵を返して戸を閉めた。緋月は逃げ出そうと出口を探したが、どの戸も窓も術で封じられていて、外へ出れそうにない。殺される…?緋月は自分を抱き締めた。ああお父様、お兄様…!


ただでさえ弱かった緋月の気配が、まったく消えた。

将維は焦った。弱くても間違いなく追跡できるものだと思っていた。それが、かき消すようにフッと消えた…気配がまったく感じられない。これはまるで、あの仙術の膜の中へ入ったかのようだ。

「義心!」

将維は呼んだ。義心が素早く将維に近付いて宙で膝を付く。

「将維様。気配が…。」

将維は頷いた。

「読めぬ。まるであの膜の中へ入ったかのようぞ。」と龍の宮の方角を見た。「引き続き軍神達には探させよ。主は我と共に宮へ。」

「は!」

義心は頭を下げて、飛び去った。義心が軍神達に指示を出している間、将維は浮かんで月を見上げた。もしかして…緋月は誰かにさらわれたのではないか…。


宮の近くまで帰って来ると、維心が出て来た所であった。将維は慌てて父に飛んで寄った。

「父上!」

維心は険しい顔で将維を見た。

「気配が消えたな。」

将維は頷いた。

「あちらの方角でございました。急にかき消すように消えてなくなり…何事が起こったのかと訝しんでおりまする。どうも膜ではないかと思うのですが。」

維心はため息を付いた。

「やはり、そうか。」とその方角を見た。「なんと間の悪いことぞ。よりによって、一番治安の悪い場所へ向かうとはな。知らぬとはなんと愚かな事よ。」

将維は視線を落とした。緋月の消えた辺りは、未だ未知の場所が多く、また失踪が多く起こる場所で有名だった。おそらくあの辺りに居る下級の神達の仕業であろうが、維心がそこまで手を出すことはない。自分の領土ではないからだ。領土の外で起こっていることが、地の平定に関わることなら駆逐もするが、そこまで面倒を見ていたらきりがないので、その近くの神の王達から何か願いが無い限り宮の軍神を動かすことはしなかった。緋月が向かったのは、その一番維心が把握していない地域だったのだ。

「死んではおらぬ」維心は言った。「だが、誰かに捕らえられたのは間違いない。我の娘だと言っておらねば良いが、おそらくあれは何も知らぬゆえ、問われれば答えているであろうの。だとしたら、命は遅かれ早かれないであろう。膜の中とあっては、いくら我でも早急に探し出すことは出来ぬ。」

将維は頷いた。その通りだ。最早命はないものと、他の女であれば諦めて軍神を退かせておるところ。だが、あれは妹なのだ。まだ生きているなら、命が尽きるまでは探してやらねばならぬ。

「…西と南にも援軍を頼みまして、しらみつぶしに探して参りまする。」

維心は頷いた。だが、その目には諦めたような光がある。なぜなら、龍王の名を出した瞬間に、その命が奪われてもおかしくないからだ。

「…維月になんと知らせれば良いのか。身を切り開いてまで生んだ皇女であるのに…。」

維心は言って、宮の中へ戻って行った。将維は義心に命じ、西と南の砦に知らせを送らせ、自分も捜索に戻った。


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