始まりは月の宮
蒼は、月の宮の王として統治し始めて60年近く、段々と神の世には慣れて来たが、それでも数百年単位で物を見る神の世にあって、理解出来ないこともたくさんあった。
それでも、元は人であるというハンデを補って余りあるほどの力、それが月の力と龍王の力であった。
この二人が蒼を支えてくれているので、神の世でも、なんとかやっていた。この月の宮も、龍王である維心に力を貸してもらって建造したものであった。
ここは、人に見えないように結界も張ってあったが、それ以外に、入口以外は別の安全な次元に建ててあった。そうすることで広々と土地を使うことも出来、人の世の土地所有がどうのという、ややこしいことも起こらなくて済む。
山深くにある神の宮に何かあることはまずなかったが、それでも用心するに越したことはないので、どの神の宮も、奥まった場所に次元を変えて建ててあった。
そんな月の宮は、たまに工事の時急いだこともあって、次元のひずみや亀裂が小さく残っていることがあった。ほとんどは何の問題もなく修復出来ているが、昔からある龍の宮などのようにずっと修復してもう直すところがないような宮とは違い、建造したばかりの月の宮にはまだまだ細かく次々とそんなところが出て来て蒼を困らせていた。
次元のことについては、全くわからない。なので、龍の宮から遥々来てもらわなければならないからだった。
しかし、今度ばかりは、呼ぶ必要はなかった。
なぜなら、里帰りして来ている妃である維月を追って、龍王の維心が月の宮に滞在していたからだ。
維心は、その小さな裂け目を見て頷いた。
「…これは、変な次元に繋がっておる亀裂ではないの。」と手を翳した。「安堵せよ。仮にこれがまた広く開いてしもうても、落ちた所で死ぬようなことはない。ただ、向こうの次元には、人が住んでおる気配がする…ゆえに、面倒なことになるかもしれぬゆえ、出来るだけここの近くで月の力は使わぬことだ。後で我が龍にきっちり直させる。今は、我が応急処置をしておこうぞ。」
蒼は頷いた。
「わかりました。ここには立ち入らぬように言っておきましょう。お手数をおかけいたしました。」
維心は軽く頷いた。
「なんでもないことよ。しかし新しい宮とは、本当に面倒であるな。蒼も大変だの。」
蒼は苦笑して頷いた。本当にそうだ。これで何百年も経ったら、きっと維心様の龍の宮のように、落ち着いた宮になるのだろうに。
維心は微笑むと、そこを去って行った。
「維心様。」
部屋へ帰ると、維月が来て待っていた。維心はここでは十六夜に譲らなければならないので、維月の部屋まで会いに行く事が出来ない。一日ぶりに見る笑顔に、維心は思わず駆け寄った。
「維月…来ておったのか。おお、こちらへ…顔を良く見せよ。」
維心は維月を抱き寄せた。維月は苦笑した。
「まあ維心様…昨日の朝、お顔を見ましたでしょう?」
維心は拗ねたように顔をしかめた。
「もう、昼ぞ。一日以上顔を見ないなど…我が宮ではないゆえに。今日はどれぐらいここに居れるのだ?早よう我が宮へ帰ろうぞ。」
維月は微笑んで維心の頬を手で挟んだ。
「本日はこちらで過ごせますわ。明日の朝までおりまする。」
維心は嬉しそうに微笑んだ。
「では、ゆっくり出来るの。」と額に唇を寄せた。「主と離れておると落ち着かぬわ…。」
維月は維心に身を擦り寄せた。維心は尚力を入れて維月を抱き寄せると、耳元に言った。
「まだ昼であるが…のう?良いであろう?ここには侍女もおらぬし、気取られる事もないゆえ。」
維月は困ったように笑ったが、頷いた。維心は嬉々として維月を抱いて奥へと歩いたのだった。
維心は声に目を覚ました。月の宮の侍女だ。
「…何用ぞ。」
維心が寝台に横になったまま言う。珍しい。ここは決まった侍女がおらぬから、こんなことはついぞないのに。
相手の声は切迫していた。
「王がお呼びでありまする。昼の裂け目の事でと。」
維心は起き上がった。
「すぐに参る。」
侍女の気配が去る。維月も横で起き上がった。
「裂け目とは…次元の?」
維心は頷いた。
「応急処置しかしておらぬゆえな。何かあったのかも知れぬ。」
維月は慌てて維心に着物を着せ、自分も着ると、一緒に現場へと急ぎ向かった。
近付いて行くと、変な気の流れを感じた。維心は眉を寄せてその部屋の戸を開けた。
「維心様!」蒼が慌てて駆け寄って来る。物凄い気流の流れだ。「侍女が二人吸い込まれました。急にこのように開いて、あちらへ…!」
維心は状況を見て維月を振り返った。
「主はそこに居れ!入ってはならぬ!」
維月は戸口で立ち止まってこちらを見ている。戸が気の流れにバタバタと動いた。
「申し訳ありませぬ、この前で侍女達が火を灯そうと気を発したのだそうで…途端にこのように!」
蒼は叫んだ。気の流れで声が届きにくい。維心は頷いた。
閉じねばならぬ。蒼は月の結界でこの場に踏みとどまっているが、ここは本来ならもうこの別次元に足を踏み入れている状態だ。維心は手を上げた。
「閉じるぞ!侍女は諦めよ、このままでは他の者まで吸い込まれるぞ!」
それを聞いていた維月が、叫んだ。
「お待ちください!」維心は振り返った。「半分ほどに閉じることは出来ぬのですか?!侍女達を助け上げてほしゅうございます!」
維心は迷った。ここまで大きくなって、我にそこまで手加減して閉じることが出来るのか。完全に閉じてしまったら、無限にある次元のどれに落ちたのか、顔も知らぬ侍女を探すなど困難だ。
「…そのような閉じ方は無理だ!」維心は答えた。「とにかく、閉じねば…!」
維心がまず包み込むように回りの空間と膜を張ろうと気を集中させた時、細くなった隙間から気流が戸口に向かって激しく流れ込んだ。
「きゃあああ!!」
維月の悲鳴が聞こえる。その気流が激しく振り回した戸に、維月は突き飛ばされてこちらへよろけた。気流は維月を巻き込んで維心の膜の中へ吸い込まれて行く。
「維月!」
維心は叫んで膜の中を見た。そのまま膜を縮めて閉じようとしていた気を止める。
「維心様…!」
維心は必死に腕を伸ばして膜の中へ突っ込んだ。維心の指先は、維月の指先をかすめて、維月はその次元の中へと落ちて行った。
「維月!」
維心は必死に叫んだ。向こうは夜…人の住む次元。どんな人が住んでいるのかもわからない。維心がすぐにそこへ飛び込もうとすると、蒼が叫んだ。
「駄目です!何か対策を取ってから追わなければ、我々も帰れなくなってしまう!」
維心は蒼をキッと睨んだが、その通りだ。
「これを閉じることは出来ぬ。」維心は力なく言った。「このまま我の力の膜で覆って気流を止める。義心と十六夜を呼べ。すぐに維月を助けに参らねば!」
蒼は頷いた。母さんは強い。行くまで、きっと頑張ってくれるはずだ!
…どれぐらい経ったのだろう。
維月は、どこかの森の中で気が付いた。夜だ。ここはどこだろう。維心様が必死に私に手を伸ばしていた…きっと、助けに来てくれるはず。維月はそこを動くべきではないと思ったが、風が吹き抜けてとても寒かった。ここで待っていたら、来てもらう前にきっと凍えてしまう。
維月はあまり離れないようにしながら、暖を取れる場所を探すために歩き出した。
月の光が降り注いでいる。
でも、月にはなんの気配もなかった。十六夜がどこかに降りていると言う感じでもない。まったく何もない月と言う感じだった。もしかして、ここは神の世でいう隣の世…つまり、パラレルワールドではないか。まさかの時に、自分は月の力を使うことが出来るのか…。
維月は不安になって、そっと月の力を呼んでみた。するとすぐに、ビックリするほどの有り余る力が維月に降りて来た。本当なら十六夜に行くはずの力まで来ているような感じだ。…やっぱり、ここでは月に誰も居ないのだ。それでも力を使えるのには安心したが、十六夜が居ないのは不安だった。いつも、月さえ出ていたら十六夜にはコンタクト出来たのに。
維月はとぼとぼと月の明かりを頼りに夜道を歩いた。
ふと、何かの気配が舞い降りて来たのが分かる。維月は驚いて尻餅をついた。何、ここの住人?人?神?
「…このような所で、何をしておる!」刀の切っ先が、目の前で揺れる。「名を名乗れ!」
維月は目を上げて、仰天した。目の前でこちらを睨んでいるのは、義心だった。
「義心!」
維月が叫ぶと、相手は驚いたような顔をした。
「なぜに我の名を知っておる。それよりも、女が一人、このような時間に我が王の結界に触れるとは、怪しいものよ。」
維月は思った…そうか、この世界の義心なのだわ。ここは、やはり、パラレルワールドなのだ。維月はぶるぶると震えた。ならば、殺されても文句は言えない。もちろん戦うことは出来るが、たった一人で龍の軍神達を壊滅させるなんて、維心様じゃあるまいし無理だからだ。維月がただ震えて黙っているので、義心はため息をついて刀を鞘へ戻した。
「今のように世が不安定な時に、侵入者があると我らは捕えねばならぬ。女と言えどもそれは同じ。一緒に来てもらうぞ。」
義心は維月を小脇に抱えると、飛び上がった。
「え?!待って、私はここに居なければ…!」
ジタバタと暴れる維月をものともせず、義心は龍の宮へと帰って来た。
維月は緊張で固まっていた。ここには、見慣れた神ばかりなのに、皆が皆、他人を見るような目で私を見る。きっと、誰も知らない神ばかりなんだ…。維月がしゅんとしていると、義心が苦笑した。
「ただ迷い込んだだけであるなら、すぐに帰してもらえるはずだ。安堵いたせ。」
維月は頷いた。この義心は、知らない義心だけどやっぱり義心だった。厳しいけど優しい。その後について歩きながら、少しホッとした。
そのうちに、維月の嫌いな地下牢の入り口に到着した。維月は泣きそうになった。ここはイヤ。気が重くて死にそう…。
しかし、牢のほうへは行かず、着いたのは、その前にある裁きの間だった。頭を下げるように言われ、維月は頭を下げて待った。この宮で、怖い思いなんかしたことなかったのに。というか、維心様は非情の王だと言われているおかた。知らない私に、どれほどの罰を言い渡されるんだろう…ただ、結界に入っただけなのに。
「侵入者は、この女であった。」
義心が言った。相手は言った。
「表を上げよ。」
維月が恐る恐る顔を上げると、そこに居たのは洪だった。しかし若い。義心と同じぐらいか少し上ぐらいに見える。維月は思わずつぶやいた。
「洪…。」
相手は顔をしかめた。
「主、我のことを話したのか?」
義心は首を振った。
「何も。そう言えば、我の名も知っておったな。」と維月を見た。「主、なぜに我らのことを知っておる。」
維月はきっと信じてはもらえないと思いながら、とつとつと、隣の世のことを話したのだった。
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