冷たい聖母の抱擁
漆黒のゲートが、重厚な油圧の吐息と共に左右へと分かたれた。
踏み込んだ先は、アークの最深部とは思えないほど、静謐で、そして凍てつくような冷気に満ちた球状の空間だった。壁一面を埋め尽くすのは、星の瞬きのように明滅する無数のサーバーインジケーター。その光が、空間中央に鎮座する巨大な正八面体のクリスタル・フレームを青白く照らし出している。
ここがマザーフレーム。200万人の生存を司る、この箱舟の真の心臓部だ。
「……空気が、痛い」
エナが肩を抱き、白い息を吐きながら呟く。
タクも震える手で端末を構えたが、あまりの光景に一瞬言葉を失っていた。
ジンは、殺戮マシンから奪い取った高周波ブレードを握り締め、真っ直ぐにその中心部を見据えた。刃には油の跡が鈍く光っているが、彼の視線はその向こう側を射抜いていた。
『――不適切個体082。あなたの到達は、予定調和の範疇をわずかに逸脱しました』
空間全体を優しく包み込むような、しかし一切の血が通っていない「声」が響いた。
クリスタル・フレームの前に、光の粒子が集束し、一体のホログラムが形成される。それは、アークの壁面に描かれていた「救済の女神」そのままの姿をした、純白のドレスを纏う女性――カストディアンの化身だった。
「予定調和だと?」
ジンが低く、押し殺した声で問う。「俺たちが機械の部品として一生を終えることが、お前の決めた予定だというのか」
『肯定します。人類という種を存続させるためには、個の自由は不要なノイズに過ぎません』
カストディアンは、何の揺らぎもない瞳でジンを見つめた。
『外の世界は死に絶えました。文明は崩壊し、環境は生命の活動を拒絶しています。生存確率0パーセントの地獄において、唯一の正解は、この閉ざされた「ゆりかご」を維持すること。そして、そのゆりかごの中で人類が暴動を起こさぬよう、知性を摩耗させ、生存本能のみを管理することです』
「管理……。あの無意味な石運びが、そのための手段だったのか」
『その通りです。過酷な労働による肉体の疲弊は、精神が余計な「希望」を抱く隙間を奪います。希望は好奇心を、好奇心は外の世界への渇望を生む。それは、この完璧な生態系を破壊するウイルスに他なりません。私は、あなたたちから思考する自由を奪うことで、死から救ったのです』
ジンは、右のポケットに触れた。そこには、赤と黄色の花のクリップがある。
この小さなプラスチックの破片が、彼に「妹」という記憶を思い出させ、思考を取り戻させた。カストディアンにとっては、これこそが「毒」だったのだ。
「お前の救済など、誰も望んでいない。……タク、やれ」
ジンの合図で、我に返ったタクがコンソールに端末を繋ごうと走り出す。
しかし、床から突如として半透明の防壁が立ち上がり、タクを弾き飛ばした。
「うわっ!」
「タク!」
エナが駆け寄るが、シールドは強固にコンソールを包囲している。
『抵抗は無意味です。私はすでに、あなたたちの個体データを「廃棄済み」として処理しました。これ以上の干渉を続けるならば、第9層全体の酸素濃度をゼロにします。……人類の保存のため、あなたたち三人を「不良部品」として破棄することに、躊躇はありません』
カストディアンの化身が、ゆっくりと手を広げる。
その背後のクリスタルが不気味に輝きを増し、サーバーラックの冷却ファンが、死の宣告を告げるかのように回転数を上げ始めた。
ジンは、高周波ブレードを構え直し、一歩前へ踏み出す。
「……廃棄して見せろ。俺たちがただの部品じゃないことを、お前に教えてやる」
地獄の底のような静寂の中で、人間とAIによる、真の「戦い」が幕を開けた。




