一
日はすでに暮れかけており、長廊は薄暗かったが、眞の若き王たる凌政は迷いなく大股で進み、付き従う随身を半ば置き去りにしながら内殿へと向かった。齢は二十歳、燃える鳳凰を裡に飼うような、強靭な体躯の若者である。移動しながらも、右後ろに付き従う丞相李昰との討議を寸分惜しむ様子で続けた。
「韓の樞密は未だ落ちぬか。こちらはいつでも虎を狩る支度はできているというに」鋭く舌を鳴らす。「間怠い!」
李昰は一見、白皙柔弱と見える長身の文官であったが、王の歩調に合わせながら顔色も変えず応じた。
「拙速こそ愚です、王よ。ご存知のことではございましょうが」
「だから虎が巣から追い立てられるのを長々と待っているのではないか。愚かしい」
「善き狩人は、待つのが得意なものです」
不敬と受け取られかねぬ冷笑を唇に浮かべて、李昰は言い放った。随身の役目を奪って小朝室の扉を開け、主君を通す。王は、眞人としては目立つほどに大きくするどい眼に笑いを浮かべ、李昰を見上げた。「越権だぞ、丞相。冠係が掛けものをしたのみで罪となる法治国家で」
「死を賜りますか?」
「ま、いずれはな」
内殿の寺人が慌てて灯火を持ち、酒を準備したが、あっさりと王は人払いを命じた。
「さて……」
榻に腰掛けた王は、言葉を切り、土壁と重い扉に隔てられた沈黙を僅かに楽しむ様子だった。「茶番ではあるが、あんなものでよいか」
丞相は、薄い唇に笑みを浮かべた。
「韓に通ずる者への揺さぶりとしては、まずまずかと……目星はつけてございますので、動きを待って対処いたします」
「世の習いとは言え、宮中の虫を除くのは実に骨が折れるな」
「間怠いですか?」
「いや……」
先ほど舌打ちをしてみせた姿が嘘のように、王は底しれぬ笑みを浮かべた。
「おまえが思うようにして見せよ。いつまでにやる?」
「まず、十月の終わりまでに」
「是」
その後もろもろの打ち合わせが済むまで、王は杯に手を付けなかった。しかしやがて月が高く昇ったときに、話はついに終わった。
王が手ずから酒をついだので、丞相は苦笑した。「王も越権でございますよ」
「おまえの他、見るものもないだろう。煩わしいことを申すな」
青年が一息に杯を干し、その喉が動くのを、男は無言で見守った。表情の変化があったとしても、それは誰に読み取られることもなかった。
「肅」
「また、古い呼び方を……」男は、低く言った。
「良いだろう、今日の務めは済んだ」
言いながら、青年はため息をついた。「どの虫を活かしどの虫を殺すか、政はそれのみだ。とはいえ……やはり、なる限り多く活かし、健やかに育てたくはある」
「私も虫にござりますか?」
「無論よ」王は低く笑った。「おまえもおれも、虫の一匹に過ぎん――おれが死んだところで何か変わるか? 眞の王の名が変わるだけよ。どころか、眞が滅んだところで――国の名が変わるに過ぎん。幾万もの虫が、ただただ生きているに過ぎんのよ」
「王よ」
穏やかに李昰は言った。「民が虫のごとく死ぬのは、貧しく食するものがないからです。貧しいのは、戦が起こり、畑を耕せず、兵の略奪に遭うからです」
「では、戦をやめるか?」
「いえ、それでは新たな戦に苦しむのみ」彼は、酒を注ぎ足した。「かねての王のお考えを、極めることです――則ち、中華全土の平定を」
王は、ふっと笑った。「今それを言うか」
「それを叶えられるのは、おそらくあなただけでしょう、我が君よ。因って、王よ、あなただけは、他の有象無象の虫とは異なるのです」
「言ってくれるな……」言いながらさらに杯を干した王は、一つ息をつき、榻の背に身をもたせかけた。「これはおまえの酒か? いつものことだが、多少効きすぎる……」
「お嫌いですか?」
「いや……」
「近侍を喚びましょう」
「少し休めば大丈夫だ」
言いながら、青年は瞼を落とした。その、力ある双眸が閉じられてしまうと、ふいに彼は稚く――年相応に幼く見えた。「……少し、帯を緩めてくれないか」
「私が?」
「ああ、肅、おまえが……」
言ったきり、青年は寝息を立て始めた。
*
しばらく、無言のまま、男は青年の寝顔を見つめていた。
「王よ」
彼は喚んだが、その声は、掠れていた――「我が君よ」
しかし、凌政は答えず、深い寝息を立てるのみだった。
「この私に、帯を緩めよとは……戯言がすぎますぞ」
苦く、彼は言ったが、その顔は函灯の鈍い明かりの中で、苦悩に歪められていた。青年は瞼を閉じたまま、身じろぎもしない。
男は膝を進め、主君の傍へとにじり寄った。手を伸ばして肩に触れ、軽く揺さぶる。「我が君――小凌!」
そう呼ばれることを王は厭う。しかし青年は目覚めず、無防備に眠りに落ちていた。
「小凌……」
彼は、囁き、その帯に手をかけた。
*
李昰は、周到だった。抜かりなく主君の身体を清め、衣を整えた上で、力ない身体を榻に横たえる。
瞼を落としたままの青年の頬を、名残惜しくそっと撫でた後に立ち上がった。
音を通さぬ重い引き戸を開け、随身を喚ぶ。
「王は寝まれた。掛物など持て」
彼が立ち去ったのち――
函灯の明かりの中で、薄く青年は目を開けた。
首筋の、先ほど李昰が強く吸い付けた部分を指先でなぞる。薄暗い明かりのなかでは分からぬだろうが、白昼に見ればそこに鮮やかに痕が残ったのは間違いなかった。
「肅め……」
彼は、小さく舌打ちをした。
「迂闊なやつ……」
青年は、身体に残る歓びの余韻を感じながらも立ち上がった。




